第3話

 山道の途中にぽつんと立っている一本杉の根本で葵は、震えていた。30分ほど前までは、雲などほとんどなかったのだが急に雲がかかり、気づいたときには風が吹いてきて小雨が降り出した。


 ジャージ生地は、動きやすかったが風を通し、汗と雨で濡れた体を急激に冷やした。雨宿りと思って腰をおろしたとたん、一本杉の根本から動けなくなってしまった。


 はっきりいって、なめていた。あの坊主が言っていたように、あたし、ここで死ぬかもしれない。でも今まで、何度も頑張ってきた。もう一度。立てるかどうか試してみよう。駄目だ。


 雨具の用意をしてこなかったのが良くなかったのか。でも、天気予報では降水確率は高くなかったはず。葵は、震える指先でスマホの天気アプリを立ち上げた。現在地が取得できませんとアラートが出た。アンテナマークがついていない。


 ふもとにいた坊主の言うことを聞けばよかったのか? 


 馬鹿ばかしい。あたしには、もう行くところなどない。秘仏が見れないのは、残念だが、あたしのルールに変更はなしだ。もう疲れたし、眠たくなってきたし、静かだし、寒いけど、なんだか、ほっとする。


 葵のまぶたはいつの間にか閉じ、ウトウトし始めた。


 ピシピシ、ピシピシ。


 頬が痛い。


 葵は、面倒臭そうに片目だけまぶたを開いた。


「おい、起きろ」


 蛍光グリーンの服を着た熊のような登山者が葵の体に覆いかぶさるように立っていた。


「眠るんじゃない」


 男は、葵の頬に往復ビンタをしていた。


「いたい、痛いよ」


 葵は、男の手を払いのけた。


「よし、目が覚めたか。だから言わんこっちゃない。俺がだれだかわかるか」


 葵は、うなずいた。


 ニット帽をかぶっていて禿頭はみえなかったが、麓の寺で膝関節に蹴りをお見舞いした熊のような和尚だった。和尚は、登山家が使うような本格的なリュックを背負っていて、そこからコンパクトに畳んだダウンジャケットを取り出し、着ろと命令した。


「俺のサイズだから、少し大きいが、その服の上から着るには問題ないだろう」


 和尚はダウンジャケットを広げ、無理やり葵に着せた。大きすぎるし、この男のものなど着たくないと思ったが、葵に抵抗する力はまだ戻ってきていなかった。


 ダウンジャケットを着終わると、葵の頭に、ニット帽を被せた。


「地蔵様にかぶせている場合じゃない。お前さんがかぶるべきだと、お地蔵様が言っていたから持ってきた」


 この男の言うことは、どこまで本気なのか。


 さらに、使い捨てカイロ四つをジャージ上下のそれぞれ左右のポケットにねじり込んできた。これは完全にセクハラ、パワハラ、モラハラだ。


 和尚は次に、リュックの中から水筒を取り出し、バーテンダーがカクテルを作るときのように上下に振り始めた。かじかんでいた葵の指先は、いつのまにか使い捨てカイロを握りしめていて、ジンジンとしびれてきた。


 水筒からコップに注がれた液体は、湯気をたてていて、甘い匂いが葵の鼻をくすぐった。和尚が葵の目の前に、さあ、飲め、と差し出した。


「熱湯に饅頭を潰して、おしるこみたいにしてきた。まだ熱いから、ゆっくり飲め」


 言われた通り、少しずつ液体を飲み込んでいく。胃の中に落ちていく熱い液体が目に見えるようだ。体の芯からあたたまるという言葉は本当だった。


 もう、饅頭も、泣いていた女性も、頭に思い浮かばなかった。


「なんでこんな無茶をする」

「私が決めたルールだから」


「なんだ、ルールって」

「明日は、20歳の誕生日。その前に死んで生まれ変わる」

「お前、正気か?」


 葵は、コップの中身を飲みながらうなずいた。


「他人には、馬鹿に見えるかもしれないけど、私が今まで生きてこれたのは、このルールのおかげだから」

「そうか、なるほど、他人の俺には、よくわからない理屈だが、おまえも大変だったんだな」


「過去の話じゃない。今も進行形のはなし」

「ネットの噂は知っている。願った姿に生まれ変われる云々だろう」


「秘仏はどこ。教えて」

「まだ、そんなことを言っているのか。あれはデマだ。お前が望んいるような、都合の良い仏様じゃない」


「やはりあるんだね」


 葵は、コップの中身を飲み干し、和尚にコップを返した。甘みを摂ったおかげだろうか、急激に元気が戻ってきた。


「いいか、六道輪廻から逃れるすべは、煩悩を滅すること、解脱するしかない。近道はないんだよ」

「こんなところで、説教って」


 葵は、鼻で笑い、リュックサックの底をまさぐった。リュックの中から輪ゴムで止めた紙幣の束をわしづかみでとり出した。


「全部やるから見逃して」

「何だ、この金は」


「私が稼いだ金。まだたりない?」


 更にもう一つかみ紙幣の束を取り出し、和尚に押し付けた。


「お前、何歳だ」

「だから19、あたしの話聞いている? あと数時間で20歳なの」

「19歳の小娘が稼げる金額じゃない。盗みか。何やった」


「パパの金庫からかっぱらってきた。もちろん、パパは極道だけど」


 葵は、一人フフと笑った。


「ヤクザの金か」

「こう見えても私は16歳から極道の愛人やってんだ。これぐらいもらってもいいだろう。正規の労働の対価っていうんだろう。まあ、相場は知らないけど」


「いろいろ聞きたいことはあるが、とりあえずここで議論するわけにはいかない。午後から、寒冷前線が通過したんだ。それで急激に天候が変わっただろう。これからどんどん気温が下がっていく。ここで、議論して二人で凍死するわけにはいかん。とりあえず、ここから下山するぞ」


 和尚は、葵の手をとり立ち上がらせた。


「なんで、そんなに隠す必要がある。ケチケチせず見せてくれよ」

「とりあえず下山だ」


 和尚は、強引に葵の体を引いて帰り道の方向に引っ張った。


「離せ、セクハラ、エロ坊主」


 和尚は、一瞬ひるみ、手を緩めた。葵は、その瞬間、和尚と反対の方向に全体重をのせ、体全体をつかって大きく上下運動して和尚の手を切った。


 和尚は、バランスを崩し、木の根につまづいた。再び葵の手を取りに来たとき、葵はリュックの中から、拳銃を取り出しその顔面に銃口を突きつけていた。和尚は、目を見開き唇を引き締めた。


 和尚が精神的ショックから立ち直る前に間髪入れず、葵は和尚の股間を蹴り上げた。和尚は、崩れ落ち、のたうち、うめき声を上げ口から泡を吹いた。和尚の頭の上で葵は腕を組み、仁王立ちになって見下ろした。


「私の邪魔はするな。こんどは命の保証はしない」


 あまりの痛がり様に葵は、ちゃんと聞こえているか心配になったが、痛みから復活したら今度は逃げ切れないと思い、月下寺を目指して登り始めた。

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