第2話

 曇天であった。路線バスは、紅葉した木々と黒々と茂った常緑樹がモザイク模様を作る山々の間を縫うように進む。片側一車線の道は、やがて中央線のない一車線となり、さらにバス一台が通るのもやっとというほどの道幅に変わっていた。


 坂上 さかがみ あおいは、ブランド物の上下のジャージに同じブランドのスニーカーを履き、同じブランドのリュックサックを膝にのせ、一番うしろの席に座っていた。お気に入りのぬいぐるみでも抱えているかのようにリュックを抱き、フロントガラスを一心に睨んでいた。


 路線バスの自動音声が車内に流れた。



 このバスは、医療短期大学前経由、常月寺行。次は終点、月下寺げっかじ、常月寺前、おおりの方は、バスが停止してから席をお立ちください。



 葵は、スマホの画面を確認した。カレンダーのリマインダー機能により「明日20歳誕生日」と表示されていた。


 20歳になる前に、なんとか目標を達成できそうだとホッとする気持ちと最後のひと仕事をやり通せるかという不安が心によぎった。


 バスが停車した。路線バスの中には、葵以外の乗客は乗っていなかった。運転手が葵に愛想よく笑いながら声をかけてきた。


「誰か迎えにくるんかい」


 葵は、愛想笑いを返して、いいえ、と答えた。


「ほんやら、寺に泊まるんか」

「どうして」

「いやあ、この辺には、この寺しかないし、このバスがここで折り返したら、この路線の最終便になるもんじゃけーの。それにあれじゃ。最近、若いもんが、ようこのお寺に泊りがけでやってくるんじゃわ」


「秘仏を見に?」

「秘仏のことは、聞いたことはないなあ」

「ほんと? 月下寺の秘仏、それに願えば来世は望んだものに生まれ変われるってネットに書いてあるんだけど。知らない?」


「それは、ようわからんが、たぶん、若いもんたちは住職に相談しにやってくるみたいじゃ」

「有名人なの?」


「わしは知らんが、三年ほど前に新しい住職がきなさって。はじめは何かなあ、ていう感じやったんじゃけど。あっ、という間に檀家さんやあんたらみたいな若えもんたちにも、頼りにさりょーるみたいじゃ。ありゃあ、やり手じゃ」


 葵は、へえ、と適当に相槌をうち、握りしめていた整理券と硬貨を運賃箱に入れ、バスを降りた。


 カラスが頭上で鳴いた。頭上を見上げても背丈の高い雑木林の先端が雲に向かて突き刺さっているように見えるばかりで、カラスの姿は見えなかった。路線バスが排気ガスと葵を残して発車した。


 葵は、肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪をゴムバンドで後ろでまとめ、アキレス腱を伸ばした。バス停脇の雑木林の中には車から投げ込まれたのか、何本かの錆びた空き缶が打ち捨てられていた。近くに民家もなく、人の気配は感じられなかった。バス停の右隣には順に山門、石柱、掲示板が立っていた。


 葵は、石柱の前に腕組みをして立った。


 

 月下寺 常月寺



 間違いなし、と指差し確認した。


 屋外掲示板には墨書された二枚の半紙が掲示されていた。右側の半紙には、今月の言葉 大丈夫、心配するな なんとかなる 一休、と書かれていた。


 田舎はのんびりしている。ひと休みしろか。残念ながら、あたしには、休んでいる暇はない。せっかくヤツらの目を盗んで訪れた最後のチャンスなのだ。一秒も無駄にはできない。


 左側の半紙には参拝者の皆様へ、と書かれた注意書きがはられていた。


参拝の皆さまへ。

現在、月下寺へは一般の方の参拝をお断りしております。

御用の方は、常月寺社務所までおこしください。


 これは、まさしく良い前兆だ。禁止に理由、秘密あり。


 山門から、一人の女性が山を降りてきた。真新しい黒のリクルートスーツを着て、肩にはパンパンに膨らんだ黒のトートバッグを下げていた。女性は、伏し目がちでバス停の時刻表を睨むようにそのまえに立った。


 ときどき目がしらをハンカチで押さえていた。女性は、泣いていた。葵は、その女性に私は何も見ていませんよとアピールするかのように、じっとして動かなかった。


 先程、降りたバスが駐車場から折り返してきた。女性がバスに乗り込むと、再びホコリと排ガスを撒き散らし、最終バスは葵の前を通りすぎた。


 葵は、山門をくぐった。石畳の参道の左右には1メートルほどの高さの長方形の石板が隙間なく立ち並んでいた。背の高い雑木林に囲まれ陽の光が遮られているため、参道に敷き詰められている石畳は全体にヌメっていた。


 石板はどれも苔むし、奉納という文字の下に個人の名前が彫られているが、旧字体なども混ざっていて葵にとってはなにかの呪文のように感じられた。


 100メートルほど参道を進み、石段を3段あがった。視界がひらけた。50メートルほど先の本殿らしき建物に向かって参道は真っ直ぐ伸びていた。


 境内のなかにも人の気配はなかった。右手に案内板が立っていて、右上角に月下寺の文字と斜め右上の矢印が書かれていた。それらには、白いペンキで、ばつ印が上書きされていた。葵は、足音を忍ばせ、ばつ印がかかれた方向へ進んだ。


 境内に入ったときには見えなかった別の山門が現れた。その山門の手前、道の脇に六体の地蔵が一列に並んでいた。どれも、葵の膝下丈ぐらいまでしかないお地蔵さんで、苔むし目鼻立ちは風雪で削られ、はっきりとしない。


 葵は、リュックの中からニット帽をとりだすと、そのうちの一体の地蔵の頭にかぶせてあげた。片膝をついて、両手を合わせて祈った。


「お地蔵さん、どうか、どうか、お願い」


 葵は、一生懸命祈っていたからなのか、背後で「こんにちは」と声をかけられるまで、その人の接近に気づかなかった。


 声の方向に振りむき立ち上がる。作務衣に、雪駄、手に竹ぼうきをもった禿頭の男がニコニコ笑って立っていた。年は30歳前後、身長は190センチ以上、体重は100キロ以上はありそうな巨漢の坊主だった。耳は何か格闘技でもしていたのか、餃子のような形に膨れていた。


「一生懸命お祈りしていたようですが、なにかお悩み事がございますか」


 風貌からはイメージできないほど声は優しかった。


「いいえ。住職?」

「はい、常月寺と、御山の上にある月下寺の住職をやらせてもらっています。常道と言います」


「常道さんに聞きたいことがあるんだけど」

「和尚とよんでください。みんなそう呼びますので。それで何がおききになりたいのですか」


「ネットに書いてある、月下寺の秘仏について」

「ああ、そうですか」


 和尚は、肺の空気を全部吐き出すかのようにため息をついた。


「月下寺は一般の方の入山を禁止しております。それに、明日はもう10月です。そうなると御山はもう冬だと思ってください。もしもあなたが、その格好で御山に入るとしたら、自殺行為ですよ」


 葵は、自分の格好を確認した。動きやすく登山に向きそうな上下ともジャージだし、スニーカーも靴擦れが心配だったので、1か月前から履き慣らししていたものだ。問題ない。


「あたしが聞きたいのは、山がどうこうではなく、秘仏について」

「いいですか、月下寺までは、私でもここから約四、五時間かかります。たとえあなたが私の忠告を無視して、今の時間から入山したとしても、絶対、御山の中で暗くなって動けなくなります。山道です。昔、修験者が修行した道しかありません。街灯などたっていないのです。一歩間違えば滑落する危険もあります」


「問題は、それだけ?」


 和尚の右の眉が上がり、語気が荒くなった。


「さらに、この時期は熊もでます」

「熊ね」


「野生の熊を見たことがありますか」

「ないけど」


「マンガやアニメにでてくる熊とはわけが違います。熊は、この御山の御使い。私達は、熊神くまがみ様とお呼びしております。猟師も御山には入りません」


「へえ」

「つまり、絶対立入禁止です。お帰りください」


 葵は、スマホを取り出し時刻を確認した。


 13時29分。


「よくわかったよ、和尚さん。ところで、秘仏についてだけど」

「お答えできません」


「人を遠ざけているということは、本当にあるんだよね。あたし、実は秘仏がなかったらと思うと、ちょっと不安だったんだ。あってもなくてもあたしのルールは変わらないんだけど、やっぱり秘仏は人生の最後に拝んでおくべきじゃない」


「若いのに最後とか言わないで。さあ、社務所で美味しいお茶でもごちそういたしましょう。さっき、名物のまんぢゅうをいただきましたから、いっしょにどうでしょうか」


 和尚の物腰は丁寧だが、一歩もこの先には通さないぞというふうに手で進路を遮った。


 葵の脳裏に、先程山門から降りてきた女性の姿が蘇った。女性は泣いていたのだ。この和尚が泣かせたに違いない。その泣かせた女がもってきた饅頭を一緒に私と食べようとさそうなんて、まったくデタラメだ。何も知らないと思って、馬鹿にしすぎだ。


 葵は、ジャージのポケットに一旦左手を入れ、何も持たず握り拳をつくり、和尚の目の前に差し出した。和尚は、なんだろうと葵の拳に注目した。


 その瞬間に葵は和尚を蹴った。前蹴りが右膝関節に見事に入った。和尚は、あっと言ってその場に転び、立ちあがろうとしてまたころんだ。

 

 葵は、全速力で奥の山門を目指し走り出した。通行止めの看板と進入防止のチェーンが山門の前にかかっていた。背後で和尚が毒づいている。


「このクソガキ、止まれ」


 ふん、その言葉が、お前の本性だ。葵は、迷わずチェーンをまたぎ、山道を駆け上った。

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