第5話

 葵は、遠くでかすかに聞こえる木魚の音で目を覚ました。部屋は黒い空気で満たされているかのようで何も見えなかった。ポケットからスマホを取り出し時刻を確認した。


 23時47分。


 スマホの明かりをたよりに部屋の電気をつけた。昨夜、食べたカップラーメンの容器が机の上に置かれたままだ。


 熊神さまと出会った場所から30分ほど歩いて月下寺の社務所に到着した。


 部屋の中央には薪ストーブが一台置いてあって、和尚は手慣れた手付きで薪ストーブに火をいれた。葵は、薪ストーブを初めてみた。


 その炎の光に手をかざし、そのゆらめきをぼーっと眺め続けた。気がつくと和尚が非常用のための保存食と水の入ったペットボトルをもってやってきた。


 薬缶にペットボトルの水をいれお湯を沸かした。葵の顔は薪ストーブの熱でじんじんと焼けたが、そこから一歩も動きたくなかった。


 和尚は一言も言わずカップラーメンをつくると、葵の目の前にさしだした。葵も何も言わず食べた。葵が食べているうちに、こんどは、毛布と寝袋を持ってきた。


「ここには、眠る場所がない、床に毛布を引いて寝袋で寝てくれ。あまりストーブに近づくな。寝袋が溶けるから、少し離れてな」


 そう言うと、和尚は、社務所を出ていった。


 食べ終わったカップラーメンの容器を机の上に置き、寝袋に入った。和尚の注意どおり、少し離れて横になった。両手の指と指、足の指と甲をこすり合わせた。足の指先がしびれると思ったところまで覚えているが、そこから記憶はなかった。


 そして今、遠くでかすかに聞こえる木魚の音で葵は、目を覚ました。


 部屋の中は、薪の残り火でまだ暖かい。助けてくれと和尚に頼んでみたものの、リュックの中にはヤクザの金と拳銃があり、あと10分ほどで私もあの大人の仲間入りだ。


 そう思うと腹の底が一気に冷たくなった。現実は1ミリも変わっていなかった。私もやはり変わていない。


 寝袋から這い出し、近くにあったダウンジャケットを着た。懐に抱えていた拳銃のぬくもりを確認し、音の方向に向かった。


 本堂の扉を開けた。

 木魚の音が止まった。

 葵は和尚の後姿に声をかけた。


「なんでこんな時間にお経をよんでいるの」

「情けない話しだが、眠れない。熊神さまに、お礼のためにお経をあげていた。そしたらだんだん、目が冴えてきて。うるさかったら申し訳ない。明日、朝はやく下山して、常月寺にもどってから前後の相談をしよう」

「これは、秘仏?」


 和尚の目の前にある手のひらに収まりそうなほど小さい仏像を指差した。


「これは、お前立ち像。秘仏じゃない」

「和尚。やっぱり、あたし、このままでは大人にはなれない。あたしは、このままでは大人にならないというルールにすがって生きてきた。ルール、ルールってうるさい女だと思うかもしれないけど。あたし16歳のときに、突然、母親にヤクザの愛人として売られたのよ。母親を、大人を全員を恨んだ。でも、私、バカだから死ぬ勇気もなくて、どうしたら良いのか自分でもわからなくて。ある日、テレビで、早朝、仏教の番組があって。輪廻転生っていうのがあって生まれ変われると知った時は、ああ、これだと思った。難しいことはわかんないけど、クソみたいな大人にはならない。お前らみたいな大人にはならずに、生まれ変わってやる。それが、私の希望。もう一度、はじめからやり直そう。熊神さまを目の前に死にたくないと思ったけど、もうこの体は、どうしようもないほど汚れていて、いくら洗っても何をしてもキレイにならない。あたし、この体を引きづって生きていくことは、やはりできない。嫌なの」


 葵は、拳銃の銃口を自分のこめかみに向けた。


「お願いだから、秘仏を見せて。私の希望、見せて。だれにも言わないで死んでいくから。ネットにも書き込みしないから。可哀想だと思うなら、せめて、次の生まれ変わりでは幸せになってほしいと願って。お願い和尚、あたしのために祈って」


 和尚は何も言わず、立ち上がった。御前立ち像の後ろに回り手招きした。


「こちらにきなさい」


 和尚は御前立ち像の真裏の板壁を指差した。


「ここだけ、板の節が抜けているところ、わかりますか」

「うん。穴が空いている」

「そこから斜め上を覗いて御覧なさい。ちょっと角度があるから見上げるようにね」


 和尚は、そういうとお経を唱えていた場所に戻っていった。葵は、和尚との距離が空いたことを確認してから言われたとおり穴を覗いた。


 星が、一つ輝いていた。


「星」

「そう、その星が、この寺の秘仏です。別名、こぐま座α星、ねの星、妙見、北辰、道しるべなどと呼ばれる北極星です」


「道しるべ」

「麓にあった地蔵菩薩とおなじ、彷徨う魂を極楽浄土に導いてくださる導きの星」


「そうなんだ。ありがとう和尚」


 葵は、立ち上がり、天井を見上げ笑顔で拳銃の引き金を引いた。

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