シュガーデイズ・ビギニング(短編)

古川早月

シュガーデイズ・ビギニング

 規則正しいチャイムの音と共に、生徒たちが思い思いに散っていく。

 わたしは持ち物を整理する手を止め、大きく伸びをしてからだをほぐした。

 今日も一日が終わった。これから部活だったり委員会だったり、あるいは友達と遊びに行ったりと各々の放課後が始まる。規則正しさから解放され、迷惑をかけない程度に羽目を外すこの時間が、わたしは好きだった。

 気付くと教室にひとはほとんどいなかった。慌てて荷物をまとめ、教室を飛び出す。部活には入っていないし放課後に用事があるわけでもないのだけれど、早く帰ってやりたいことがあったからだった。

 一階まで降り、下駄箱で靴を履き替えて校舎から出ると、空は茜色に染まっていた。これから薄暮の時間を経て夜が始まり、それが終わるとまた朝が来る。そんな繰り返しのなかで小さく煌めくのが人生なんだなぁと、いつにもなく詩的なことを考える。このような思考に陥る時は意欲が湧いている証拠だ。頭のなかでいくつもの物語が展開し、混ざり合い、形を成していく。

 それらを楽しみながら、かといって事故らないように周りにも気を配りつつ、わたしは帰路についた。


   *   *   *


 わたしが住むまつさき町は小さな田舎で、学校を出るとすぐに田んぼが視界に入る。高い建物はなく、周りは山に囲まれている。といっても何もないという訳ではなく、コンビニやスーパーなどは普通にあるし、車や自転車で移動することができれば書店やファストフード店、レストランなんかもある。これでも昔よりは発達しているのだ。ただ、そのスピードは異様に緩やかなのだけれど。

 普段は通らない道を通りながら帰る。特に理由はなく、単なる気まぐれのようなものだった。いつも見ているものとは異なる景色を見てインスピレーションを得るためかもしれない。

 そんな感じで歩いていると、ふといい匂いがしたので足を止めた。

 甘い、バニラのような芳香。出処は分かっていたけれど、それでも惹かれてしまうのは女の子の宿命かもしれない。

 匂いの元をたどってみる。といってもわたしは犬でも何でもないのでそんなに遠くの匂いを感知できるわけもなく、匂いの元はすぐ近くにあった。

 道路沿いに立つ小さな喫茶店から高校生くらいの男女が出てきて、匂いは彼らのほうからしているようだった。

 見ると、様々なお菓子の入った袋を持っている。どうやらあれが匂いの元らしい。

 食べたいなぁ、とぼんやり思ったが、今は帰るのがさきだ。誘惑を追い払いつつ、足早にその場を後にした。


   *   *   *


 家に帰ると、手洗いうがいを済ませて二階にある自分の部屋に向かった。わたしはお兄ちゃんとお姉ちゃんと三人で暮らしていたが、ふたりともまだ帰ってきていない。

 お兄ちゃんは大学生だし、お姉ちゃんは社会人だ。帰ってくるのはいつも遅い。それになんともいえないような感情を抱いたこともあるけれど、こればかりはどうしようもない。

 部屋に入ると鞄を置き、着替えを済ませる。いつまでも制服のままでいる訳にはいかなかったし、思考を切りかえたかったからだ。

 それが終わると勉強机の上に置かれていたノートパソコンを開きつつ、椅子に座る。

 パソコンはすぐに立ち上がったのでパスワードを入れてログインする。システムの安定を待ってからメールソフトを起動し、いくつか来ているメールを読んだ。

 大抵は意味のないDMだったが、一件だけ重要なメールが来ていた。担当さんからだ。

 内容を要約すると、「進捗どうですか?」というもの。わたしはすぐにリプライを書き、「今月中には完成します!」といった内容を打ち込んで送信した。

 ……ここまでのやりとりで気付いたひともいるかもしれないけれど、わたし──おきはるは学生と小説家といった二足の草鞋を履いている。

 小説家といっても、まだ二冊しか刊行していない。一冊は長編だがもう一冊は短編集で、現在は主に短編小説の執筆をメインとしている。

 いま書いている原稿も、来月の雑誌に載せる予定の短編だ。デビューして日が浅いので、まだまだ慣れないことが多い。

 だけど文章を書くのは楽しいし、誰かが読んでくれるのも嬉しい。それにわたしでも家計を支えられるということもあって、自分のペースで続けている。


 作家業は厳しい世界だ。読者が求めているのは面白い作品で、出版社が求めているのは売れる作品を長い間隔で出せる作家。人気がないとすぐにお役御免になり、その後の生活のあてがなくなってしまう場合もある。わたしは学生だからまだマシかもしれないけれど、担当さんからきいた話では、デビューが決まって初めての打ち合わせの際に「今の仕事をやめないでください」と言われる場合も多いのだとか。創作だけで渡っていけるほど社会は甘くないというわけだ。

 わたしは「作家になれる! 小中学生創作賞」で大賞を受賞し、作家デビューを果たした。こんな賞は少しまえまでは影も形もなかったのだけれど、若い才能を発掘し、早くから育てたいという意向の元に創設されたらしい。デビューしてからなかなか芽が出ずに苦しむ作家も多いからだ。

 実際、わたしもこのさきずっと作家を続けていけるとは思っていない。デビュー作はそこそこの売り上げだったみたいだけど、完全に開花したとは言い難い。しばらくは修行期間が続くと覚悟していた。

 まあそんなわけで、わたしは授業が終わるとすぐに家に帰り、小説を書く生活を送っていた。

 大変なことも多いけど、楽しい毎日だ。


   *   *   *


 プロットをまとめたメモ帳を見ながら執筆すること一時間。今日は調子がいいのかすらすらと書けたので、一日のノルマは易々と達成できていた。

 もう少しで完成するし、このまま一気に書き上げてしまおうか、それとも今日はこれでおしまいにするか……少し考えたあとに何気なく時計を見ると、時刻は十七時半を指していた。中途半端な時間ではある。

 その時、机の上に置いていた携帯端末が振動した。見るとお姉ちゃんからの着信だったので、通話ボタンをタップして電話に出る。


「はい、熾篦です」

『春香かい? さきだけど、いまって話しても大丈夫?』

「うん、大丈夫。お姉ちゃんはまだ仕事?」


 わたしがきくと、お姉ちゃんは深い溜息をついて、


『そーなんだよ。ったく、あのクソ課長め……っと、それどころじゃなかった。よしあきって帰ってきてるかい?』


 葦昭はお兄ちゃんの名前だ。連絡もなかったし帰ってきている気配もなかったので「まだ帰ってきてないよ」と言うと、お姉ちゃんは「あー、やっぱりか……」と呟いた。


「やっぱりって、何かあったの?」

『昼頃だったかなぁ……外回りをしてる時に葦昭に会ったんだけど、なんかデカいイベントの運営任されたらしくてさ、今日は帰り遅くなるかもって言ってた。多分忙しくて連絡忘れてるんだろうなぁ』

「そうなんだ……」


 お兄ちゃんは人助けを趣味としており、ボランティアやイベント活動の手助けに奔走していることが多い。一応家には帰ってきているし、ちゃんと休んでいるから健康そのものではあるんだけど、最近になって大学の出席日数が怪しくなってきたんだとか。

 ともかく、帰りが遅くなる時はかなり遅くなる。仕方がないことではあるけれど、少し寂しい気もする。


『それでさ春香、うちも今日帰るのかなり遅くなりそうなんだよね。クソ課長がまた仕事押し付けてきてさ……マジであのバーコードハゲぶっ〇したいよ』

「お、落ち着いてお姉ちゃん……でも、そっか……」


 電話越しの声が凄みを増したのに気付き、慌てて宥めながらも、心の底で寂しさが膨れ上がるのに気づいた。

 それを必死に押しとどめ、なんとか平常心を保つ。

 もう慣れていることだ。今更ぐずったってどうしようもない。

 だけど、その気持ちはお姉ちゃんに見透かされていたらしい。申し訳ないという気持ちが籠った声で『本当にごめんな……』と謝ってきた。


「大丈夫だよ……ん、分かった。無理はしないでね」

『おう。んで、ここからが本題なんだけどさ……アンタ、夕飯はどうするつもりだい?』


 お姉ちゃんもお兄ちゃんもいないことには慣れていたし、夕飯をひとりで食べることもそう珍しくはない。自分で言うのもなんだけど、料理は得意だし、自分ひとりの食事くらいならなんとでもなる。


「何か適当に作るつもりだけど……」

『それなんだが、いつもひとりだと寂しいだろ? うちが言うのもアレだけど、ひとがいるところで食べた方が楽しいだろうしね。だから、外食してみたらどうだ?』

「えっ?」


 急な提案にわたしは戸惑った。ひとりで外食するなんて初めてのことだったからだ。


「それって、ファミレスとかでってこと?」

『それもいいけど、ひとつおすすめの店があるんだ。近くにある喫茶店で、うちの知り合いが経営してる。あと、そこの娘さんがアンタと同じ学校に通ってるらしいんだ』

「そうなんだ……知らなかった」

『あそこのマスターは信頼できるし、ひとりでいるよりかはマシだと思う。ま、こういうのはどうだいって提案だけしとくよ』

「わかった。ありがとうお姉ちゃん」

『いつもごめんな。今度三人でどっか遊びに行こう』

「うん!」


 そこで通話が終わり、わたしは小さく息をつく。

 と、携帯端末が再び振動して、お姉ちゃんから新しいメッセージが来たことを伝えてくれる。通知をタップするとメッセージアプリに飛び、トーク画面にURLが表示された。どうやら、店へのマップのようだった。

 それを見ながら迷う。店自体は近いしすぐに行ける距離みたいだけど、ひとりで外食するのに少しばかりの抵抗感があるのも事実だった。俗に言うぼっち飯ってやつだろうし、絵面が寂しい気もする。

 お姉ちゃんは豪快なひとだし、ひとりでもお構いなしに酒を飲んで酔っ払っているようなひとだからそういったことをあまり気にしていないのだろう。悪気があったわけではないと思う。

 とはいえ抵抗感ばかりではなく、憧れもあった。作家といえば喫茶店やファミレスで作業する……という、どこで覚えたのかも忘れてしまったイメージがわたしの中にはずっとあって、一度やってみたいと思っていたからだ。

 うんうん悩むこと五分。わたしにしては異例の煩悶時間が終わり、これからの行動が確定した。

 バッグに財布と家の鍵、文庫本、ノートパソコンを詰め込み、準備完了。

 携帯端末を手に取って家族のグループトークを開き、「お疲れ様。せっかくなので、お姉ちゃんに教えてもらった喫茶店でごはん食べてきます」と打ち込んだ。

 それから一階に降り、靴を履いて外に出た。もちろん、施錠はしっかりする。

 外は夜の帳が落ち始めていた。いまは日が長い季節とはいえ、夜はきちんとやってくる。

 だけどそれに心細さを感じることはなく、むしろこれから行く場所へのわくわく感で満たされていた。

 わたしは携帯端末を手に持ち、マップに従って歩き始めた。


   *   *   *


 喫茶店は家から程よく近い場所にあった。

 というか、その場所には見覚えがあった。下校途中に芳香に惹かれてやってきた喫茶店こそが、お姉ちゃんの知り合いが経営している喫茶店だった。

 窓からは明かりが漏れ、まだ営業していることを示している。

 ドアの横には日替わりメニューが書かれた黒板があって、そこに小さく店名が書いてあった。看板もあったが目立つデザインではなかったため、夜に来たひとの中にはここで初めて店名を知るひともいるだろうなぁ、と思った。

 “はねやすめ”……それが店の名前だった。

 わたしは少しの不安とそれを吹き飛ばすくらいのわくわく感を抱えながら、ドアを開けて中に入った。

 来店を告げるドアベルの音が、新しい世界への導きのように思えた。


   *   *   *


 店内は落ち着いた雰囲気だった。木目調の壁に囲まれた空間にはカウンターといくつかのテーブル席があり、客がまばらに座っている。

 ひとりだったので、わたしはカウンターに座ることにする。なんだか大人になったような気分だけど、実際は端っこに恐る恐る腰掛けるという情けないものだった。

 わたしが座ると、調理場からひとりの男性が現れた。灰色の髪に同色の髭。優しそうな目付きのおじいさんだった。


「いらっしゃい」


 それだけ言うと、おじいさんは引っ込んでしまった。どうやら忙しい時に来てしまったようだ。

 近くにメニューがあったので眺めてみる。ファミレスに比べると少し高いが、喫茶店というくらいだしこれが普通なのかなと思った。

 少しばかり悩んでから、「すいませーん!」と調理場に声をかける。すると今度はひとりの少女が姿を現した。

 綺麗な白髪に蒼い目。身長はわたしより低いくらいなので146センチといったところか。美人というより、かわいいという言葉の方がふさわしい子だった。


「ご注文をお伺いします!」


 元気に言ってくるその声も見た目相応のかわいらしいもので、わたしはほっこりした。といってもいつまでもそのままでいるわけにもいかなかったので、


「カレーライスとアイスミルクをお願いします」


 と、合いそうな組み合わせを注文してみた。


「カレーライスとアイスミルクですね、かしこまりました!」


 少女はぺこりと頭を下げると調理場に消えていく。と思いきやすぐに戻ってきて、レジの方に回っていた。どうやらおじいさんとこの子のふたりで回しているらしい。

 大変そうだなぁと思いながら、わたしはバッグからノートパソコンを取り出す。立ち上げて執筆ソフトを開き、かたかたと文字を打ち込む作業を開始した。


 しばらくすると、少女がアイスミルクを持ってきた。からんと音を立てる氷が涼しそうだ。

 ひとくち飲んでみると、今までに味わったことのない甘さが広がった。普段家で飲む牛乳とは大違いで、とてもおいしい。

 幸せな気分になりながら、わたしは小説を書き進めていく。心なしか、さっきより執筆速度が上がったような気がした。

 店内にはゆっくりした時間が流れていた。もうすぐ夕飯時なのでこの時間帯が書き入れ時なのだろうけれど、客が一斉に来ることはなく、増えたり減ったりして一定の数を保っていた。これならふたりでもやっていけるだろうなと思える数だった。


   *   *   *

 

「お待たせしました! カレーライスです!」


 一区切り着いたタイミングで少女がカレーライスを持ってきた。家で食べるような具材がごろごろと入っているカレーライスではなく、肉と玉ねぎだけのシンプルなものだった。

 ひとくち食べてみて、その美味しさに驚く。スパイシーなカレー本来の味の中に、僅かに甘みが込められている。そのふたつが程よく溶け合い、上品な味になっていた。  

 かといって辛くないわけではない。わたしは甘口でも中辛でも辛口でもいけるけれど、このカレーは中辛だった。辛いものが苦手なひとでも何とか食べられる辛さだ。

 口の中が辛みで満たされるとアイスミルクを飲み、その甘さで中和する。そんな事を繰り返しているうちに、わたしは多幸感に満たされていった。

 おいしい食べ物に雰囲気のいい場所。これで幸せを感じない人間はいないだろう。

 あっという間に食べ終わり、一息つく。ミルクはまだ少しだけ残っているので、作業をしながらのんびり飲もうかなと考えた。

 その時、レジでの作業を終えた少女がこちらに来て、「お皿お下げしますね」と食べ終わった皿を持っていってくれた。


「ごちそうさまでした! すごくおいしかったです!」


 戻ってきた少女にわたしが笑顔で言うと、少女は安心したように笑顔になった。


「そう言っていただけてなによりです。今日のカレーは私も仕込みを手伝ったので、美味しくできたかどうか不安だったんですよ」

「今まで食べた中で一番おいしいカレーでした! ミルクも甘くておいしいし、もう幸せで……」


 わたしはよほどとろけた顔をしていたらしい。少女はくすりと微笑んで、それから何かを思い出すようにじっとこちらを見つめてきた。


「わたしの顔になにかついてますか?」

「いえ、そういうわけでは……えっと、もしかして松ヶ崎中学校の生徒さんですか?」


 急にきかれたのでびっくりした。もしかして、この子がお姉ちゃんが言っていた子なのかな?


「は、はい。熾篦春香といいます。中学三年生です」


 わたしが名乗ると、少女は「熾篦春香さん……」とわたしの名前を呟いてから、ハッとした表情になった。


「もしかして、小説を書いているという……?」

「え、あ、はい。その熾篦です」


 わたしはしどろもどろになりながら答え、うつむく。また身バレしてしまった……と思いながら。

 わたしが小説を書いているということは多くのひとが知っている。自分では隠しているつもりだったのだけれど、どこでどう漏れたのか、気づいたら友達にバレていて、そこから緩やかに広まってしまった。

 小説を書いていることがバレた場合、反応は二種類に分かれる。「すごいね」と褒めてくれるか、バカにするかの二択だ。

 身バレにはそれ以外にも色々なデメリットがあるけれど、わたしは過去にバカにされたことがあったので、それがいちばん心にきていた。

 心臓が早鐘を打つ。どんな良作でも、顔がバレた状態ではその評価が「気持ち悪い」に変わりかねない。大御所になったり、大きな賞を取らない限りはその危険性がついてまわる。

 うつむいていた顔を恐る恐る上げる。彼女の顔は侮蔑に満ちた笑みに染まっている……そう思い込んでいた。

 だけど、わたしに掛けられたのは尊敬100%の眼差しと、こんな言葉だった。



「ということは、あなたがはるさめかおる先生……私、デビュー作からのファンなんです!」



 へ? と惚けた声が出る。

 少女は身を乗り出して、わたしの両手をぎゅっと掴んだ。小さいけどあたたかい手だった。


「特に少しまえに出た短編集に入っている、“春の歌”って短編がすごく好きで! あきちゃんとみとめちゃんの幼なじみ特有の距離感が徐々に縮まって、心の奥底に隠れた本当の気持ちに気づくまでの過程がとても素敵で、読んでいて笑顔になりました!」


 その言葉は、ふわりとわたしの心に落ちた。

 胸があたたかくなる。面と向かって感想を言われたことは何度かあるけれど、ファンだと言われたのは初めてだった。

 わたしの作品は、を描き出す作品ばかりだ。クラスメイトの中にも作品を読んでくれるひとはいたけれど、読んだよと簡単な報告をされるだけだった。

 ジャンルが特殊だということもあるだろうけれど、それ以上に「友達にプロの小説家がいる」という箔付けのために寄ってきたんだと、その時に分かってしまった。小説の感想もそこそこに携帯端末を取り出して「写真撮ってインスタに上げてもいい?」ときいてくる子が多かったから。

 それを曖昧に断ると、彼女たちはふっと冷めた表情に変わって、そそくさと離れていった。もしかしたら、陰口を叩かれていたかもしれない。そういったことに寛容になりつつある社会とはいえ、まだまだ風当たりが強かったからだ。

 わたし自身もそういった性的嗜好を持っていると気づいたのはいつだったか。当時は散々悩んだけれど、今は受け入れて自分の強みにしている。

 だけど、わたしはどこかで阻害されていた。

 その孤独を、少女はいとも簡単に埋めてくれたのだ。


「あ……ありがとうございますっ」


 考えるよりさきに、躰が動いていた。

 わたしは深々とお辞儀をする。客が店員にお辞儀をしているので、周りのひとは何事かと思っただろう。


「そんな……感謝するのは私のほうですよ。素敵な作品を書いてくださって、本当にありがとうございます」


 少女も慌てて頭を下げる。

 それでほぼ同時に顔を上げて、ほぼ同時に吹き出した。

 迷惑かもしれなかったけれど、それでもわたしたちは笑っていた。

 心にぽっかりと空いていた穴が塞がるような、そんな軽やかな気持ちを覚えながら。


   *   *   *


 人心地ついたあと、少女が思い出したようにわたしを見た。


「そういえば、自己紹介がまだでしたよね。私はおちつきといいます。松ヶ崎中学の三年生です」


 同い年だったのか、とわたしは驚く。

 見た目は幼いけれど、話し方や所作はとても丁寧で、高校生くらいかなと勝手に思っていたからだ。


「えっと……それじゃあ、敬語じゃなくてもいいかな?」

「うん。同い年だし、私も敬語はやめるね」


 そう言って、少女──夢羽ちゃんは優しく微笑み、「よろしくね」と手を差し出してきた。

 わたしもそれに応え、握手をする。色白でさらさらとした、綺麗な手だった。

 と、いつから見ていたのか、おじいさん──マスターが夢羽ちゃんの隣へとやってきて、


「お嬢さん……熾篦といったかな。もしかして熾篦明咲さんの妹さんかな?」

「あ、はい。明咲はわたしの姉です」

「おじいちゃん、春香ちゃんのお姉さんを知ってるの?」


 夢羽ちゃんがきくと、マスターは頷いて、


「たまにバーと間違えてやってくる女性がいるだろう。あのひとが明咲さんだよ」

「あのひと、春香ちゃんのお姉さんだったんだ……」


 夢羽ちゃんの言葉に、顔がかぁっと熱くなる。


「も、もしかして、姉が粗相を……?」

「いやいや、そんなことはないよ。ただ、いつも酔っているから心配していてね」

「うぅ……ご心配をおかけしました……」


 お姉ちゃん、バーと喫茶店を間違えるなんて……家族として情けない。

 わたしが項垂れる姿を哀れに思ったのか、夢羽ちゃんが「でも、いいひとだよ。まえに病気で倒れたお客さんを助けてくれたこともあったし」とフォローを入れてくれる。


「はぁ……でも、今度からはしらで入るようにきつく言っておきます」


 マスターは苦笑混じりに頷く。

 それから夢羽ちゃんの方を向いて、思い出したようにきいた。


「そういえば、ふたりは松ヶ崎中学みたいだけど、クラスは違うのかい」

「私は三組だよ」

「わたしは一組……もしかしたら、廊下ですれ違っていたかもしれないけど、それくらいかなぁ」


 わたしが言うと、マスターは「そうか……」と少し残念そうに言ってから、わたしにだけきこえる声でこう言った。


(……よければ、これからも夢羽と仲良くしてあげてほしい。あの子は私を気遣ってか、授業が終わるとすぐに手伝いに入るんだ。だから友達と遊ぶということをしてこなかったし、見ての通りこんなこぢんまりした喫茶店に松ヶ崎の生徒が来ることもなかなかないのでね……)


 わたしは無言で頷く。言われなくても、そうするつもりだった。

 マスターは微笑んで、それからレジの方へ向かっていった。それを見て、夢羽ちゃんがしまったという表情になる。


「あ、そろそろ手伝わないと……ごめん春香ちゃん、またゆっくり話そうね!」

「うん、またね!」


 夢羽ちゃんはにっこりと笑ってから、調理場に移動していく。

 腕時計を見てみると、針は十九時を指していた。随分と長居してしまった。

 そろそろ帰ろうと思い、わたしはアイスミルクを飲み干してから席を立つ。

 お会計を済ませる最中、調理場から夢羽ちゃんが手を振ってきた。

 わたしも手を振り返して、喫茶店を後にした。


   *   *   *


 暗闇の中で月と星が輝いている。

 その下を、わたしは機嫌よく歩いていった。

 ふと思いついて携帯端末を見てみる。まだ既読は付いていないけれど、それで寂しくなることはなかった。

 お姉ちゃんとお兄ちゃんが帰ってきたら、今日のことを話してみようと思った。

 喫茶店で出会った、ちいさくてくすぐったい出会いのことを……。


 明日も、そして明後日も、わたしは変わらず過ごしていく。

 だけど、その日常の中にまたひとつかけがえのないものが増えた。

 そのことが、今はとても嬉しかった。

 次はいつ来ようかな……そんなことを考えながら、わたしは家路を辿っていった。


     【おしまい】

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シュガーデイズ・ビギニング(短編) 古川早月 @utatane35

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