第7話

 大阪の河合塾で浪人していた一年間はとても充実していた。ずっと曇りのち雨みたいな毎日の中学高校に比べて、毎日空が晴れ渡っていた。理由は二つある。まず一つ目は勉強だ。河合塾のカリキュラムが自分に合っていたのか、成績が急上昇した。東大模試でも最高判定を連発した。平日週5日の朝から夕方までの講義をこなせば、あとは何をしても自由だった。不条理な校則も制服もなかった。そんな少しばかり許された自由さが、勉強へのモチベーションを上げてくれた。


 二つ目の理由は人間関係だろう。簡単に言えば明るい性格になった。制服から私服になった以外は、見た目の変化はない。髪の毛も染めていない。だけれど環境が変わって心が解放されたのか、僕はよく話す人間に変わった。近くに座った浪人生の女の子と他愛もない会話をできるようになった。冗談を言って女の子を笑わせた。数ヶ月前まで高校の女子と話した事もないのに、この変わり様は何だったのだろう。


 そうして僕の浪人生活は過ぎていった。そして二度目の東大受験。模試のように圧倒的な成績とまでは行かないまでも、何とかギリギリ合格した。本郷キャンパスの合格者発表の掲示板の前で、僕は二回胴上げしてもらった。そのときの空は曇っていた。曇り空の向こうにある青い空を目指して、奈良から東京に進出した。


 東京大学に進学してから、文字通りキャンパスライフを満喫した。単位のために講義に出てサークル活動をして、美味しくもない酒を飲んだ。初めての一人暮らしに悪戦苦闘した。自炊をして洗濯をした。お湯の沸かし方すら分からなかった。初めて自分で作り上げた料理はナポリタンだった。ケチャップの味しかしなかった。


 忙しく充実した日々の中でも、頭の片隅にリエさんがいた。同じ大学に通っているはずなのに、キャンパスで顔を合わせたことがなかった。リエさんは元気にしているのか、今ならちゃんと会話ができるはずなのに。


「よう、久しぶりじゃないか」と大学の学食で声をかける男がいた。それは高校の同級生だった。僕とは違い、現役で東大に受かった奴だった。僕なんかより何倍も頭が良い。しかもリエさんと同じ文科一類に所属している。何かリエさんのこと知っているだろうか。

「お前、知らないのか?あの子、大学を休学してるらしい。精神的な病気みたいだ」とそいつは教えてくれた。

「精神的な病気?」と僕は驚きの声をあげる。箸で持っていた唐揚げを落としてしまう。

「感受性が強過ぎるんだよ。大学でいろんなこと勉強しすぎて心がまいちまったんだ、きっと。もっと遊んだりすればいいのに」と彼は言ってから味噌汁をすすった。

 リエさんが大学に入っても遊ばずに、本をたくさん読んでいる姿は想像できた。ましてや法律や政治のことに関わる内容だ。余計に精神的ダメージが大きいだろう。

「それで今は大阪の実家に帰っているらしい」と彼は付け加えた。彼の味噌汁はなくなっていた。「そっか」と僕は軽く返事をして、リエさんの話題は終わった。そこから彼のキャンパスライフ論へと話は逸れていった。

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