第6話
左腕の疼きは突然止まった。模試を受けるために学校の視聴覚教室に集合したときのこと。僕は早めに指定された席に座っていた。体の空気を入れ替えるために、僕は大きくノビをした。両手を大きく広げて上半身を引き伸ばしたのだ。
そのとき右腕に衝撃が走った。何かが右腕にぶつかったのだ。あっと言って右後ろを見ると、一人の女子生徒がちょうど横を通過しようとしていた。「すいません」と僕は咄嗟に謝った。女子生徒は何もいわず一瞥して横は通り過ぎていた。どうやら僕の右腕は彼女の左脇腹に当たったようだ。脇腹の柔らかい感触が右腕にこびりついていた。
「なあ、あの子って名前何だっけ?」と近くの友達に訊ねる。友達はフルネームをすぐに教えてくれた。「リエ」という名前だった。視聴覚教室で僕はリエを目で追った。耳が少し隠れる程度の黒髪ショートヘアがよく似合う粒らな瞳の女性だった。背筋が伸びた歩き姿は芯の強さを感じさせた。彼女を見ていると、右腕がほのかに温かった。
「あの子、前の模試で学年トップだったぞ」と友人は教えてくれる。リエさんはとても頭がよかった。国立文系の最高峰、東大文科一類を狙っているらしい。
「俺も東大に行くよ」と思わず僕は声に出してしまう。
「あれ、お前京大志望じゃなかったっけ?」と友人は言った。そんな過去のことは完全に忘れていた。僕はこのとき明確に東大志望になった。右腕が温かい。どうやら僕は恋をしたらしい。これが恋じゃないなら、恋愛小説家はみんな嘘つきだ。
東大を志望するのは誰にもできる。ただ実際に合格するのはとても難しい。さっきも言った通り、高校3年生の時ずっと甘い香りが漂う教室で過ごした。しかも途中で恋に落ちた。もちろん勉強にも集中できない。僕が意志の弱い人間だから?強い人間なら異性に現を抜かさないはずだって?そうかもしれない。けど、あの時の僕は勉強なんてできるレベルじゃなかった。ましては大学受験の勉強だ。しかも東大に必要な受験勉強だ。高い集中力と長い持久力が必要になってくる。左腕と右腕に女性の温もりを感じていては、頭の中は別のことで一杯になってくる。
リエさんに出会ってからは、彼女のことをずっと目で追いかけた。授業中にノートにペンを走らせる姿に見惚れた。教壇の先生が彼女の名前を呼ぶと、心がドキッとした。何とか自分の存在を知って欲しくて、意味もなく大きな声で友達と話した。体育のサッカーは誰よりも走り回った。
彼女と全く話さないまま、受験勉強に身が入らないまま、時だけが流れた。秋の東大模試で最低の合格判定を出し、そのまま冬を迎える。リエさんの姿を見たいがために僕は高校に通っていた。
センター試験は何とか突破し、東大キャンパスで行われる二次試験に進んだ。問題を読んでも何を書いているのか理解できなかった。だから適当に答えを書いた。適当な数式や文字たちが回答用紙を埋め尽くした。なかなか壮大な気分だった。けど、それで受かるわけがなかった。僕は東大に落ちて、浪人が確定した。
一方でリエさんは合格していた。もちろん東大文科一類だ。高校の掲示板に貼り出されるから否応なくも知ってしまう。リエさんと東大でキャンパスライフを過ごすという淡い夢は儚くも崩れ去った。そして、まともな会話をほぼできないまま、高校生活は終わりを迎えた。リエさんは東京大学へ、僕は大阪の河合塾への進学(?)が決まった。
高校卒業式で、卒業生代表の答辞をリエさんが述べた。途中途中、彼女は涙で言葉をつまらせていた。僕はそれを後ろから見ていた。教室でのリエさんはあまり感情を出すことがない。いつも凛とした表情で勉学に励んでいた。そんな彼女が大勢の前で涙を流している。僕は一粒の涙も出なかった。僕は中学から六年間通ったのに、何の情緒もなかった。リエさんは高校3年間を全力で楽しみ生きていたのだろう。彼女は何を得たのだろう。僕が得たのは、サキさんにもらった左腕の疼きとリエさんにもらった右腕の温かみだけだ。
「今日で私たちは卒業します」リエさんの透き通った声が体育館に響き渡る。左腕と右腕に刻まれたものを、僕はしっかり抱えて中高一貫校を卒業した。
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