第3話

 翌日、僕は待ち合わせ時間より二十分ほど早く大和西大寺駅の改札に到着した。時間になるまで駅のロータリーを意味もなくウロウロしていた。時間が迫ってくると、僕は改札の中を外から見つめていた。会ったこともなければ、顔も知らない。会うための手がかりはベージュのコート、そして「おーいお茶のペットボトル」。僕はその二つに合致する女性を改札の中に探し求めた。


 大和西大寺駅は奈良県の中で一番多くの人が利用すると言って過言ではない。休みの日となれば改札口は多くの人が行き交う。それでも僕はサキをすぐに見つけることができた。サキも僕をすぐに見つけることができた。サキは改札から颯爽と出てくると、すぐに僕の所までやって来て「お待たせしました」と言った。「よく僕だってすぐに分りましたね」と言うと、「白いジャケットを着ているのは一人しかいないもの」とサキは笑った。サキは僕より少しだけ背が低かった。春用のベージュのロングコートに、黒のパンツ姿だった。少し明るめの茶髪の髪が肩まで伸びている。丸顔で肌が白く、薄くではあるがしっかり化粧を施していた。


「どこ行きますか?」と歩きながらサキは楽しげな声で質問する。

「カラオケでもどうですか?この先に行きつけのカラオケ屋があって」と僕は緊張気味に答える。当時の僕が知っていた数少ない遊び場だ。奈良の中学生が知っている遊び方など、カラオケかゲームかファミレスかマクドナルドしかないのだ。

「いいですね、カラオケ行きましょ」とサキが言ってくれて僕はとても安心した。本当に心から安心したのだ。


 大和西大寺駅から伸びるメインストリートを東に十分ほど歩くと、平城宮跡の敷地が見えてくる。僕らを取り囲んでいたお店や道路は消え失せ、目の前には古代の草原が広がっている。その草原を左目に見ながら右に道を曲がると、巨大なコンテナ倉庫を改装したカラオケ屋兼ゲームセンターが見えてくる。周りには自販機ぐらいしかない。そして店の前には平城宮跡の草原。寂しそうにぽつんと僕らの目的のお店は立っていた。店の中は音楽が流れて照明が鮮やかで活気があるようだった。でも、そこまで客の姿はなかった。ゲームとカラオケの音楽だけが店内を支配していた。


 僕らは二時間カラオケで遊ぶことにした。カラオケの個室に女性と二人で入るのは、もちろん人生初めての経験だった。サキはバックを置くと、ベージュのコートを脱いでハンガーにかけた。コートの下に長袖の黒いカットソーを着ていた。胸元に銀色のラメがいくつか刺繍されている。そちらから視線を意識的に外して、僕はカラオケの曲カタログを開いた。


「何歌いますか?」と僕が尋ねると、「先に歌っていいよ」とサキは言った。僕は万人受けするスピッツのチェリーを歌った。その間にドリンクが運ばれてきて、気まずい雰囲気も流れた。だけど僕が歌っている途中で、サキが次に歌う曲を予約しているのを見てなんだかホッとした。「歌上手だけね」と曲が終わると、サキは褒めてくれた。彼女は浜崎あゆみを歌った。彼女の方が何倍も歌は上手かった。僕がそう言うと、彼女は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。


「ねえ、記念に写真撮らない?」お互いに何曲が歌った後、曲の切れ目に僕はサキに提案した。僕は家からインスタントカメラ「写るんです」を持参していた。携帯にカメラ機能なんてなかった時代だから、インスタントカメラで思い出を記録して写真に現像してアルバムに保管していた。ちょうど僕もインスタントカメラに夢中になっている時期だった。初めて女性とカラオケした記念すべき日を写真という形で残したかったのだ。


「いいよ、そっち行くね」とサキは快諾すると、僕のすぐ横までやってきた。さっきまで二人の間に介在したソファのスペースは無くなった。僕がカメラを右手で斜め上に掲げると、僕の左腕をサキは自分の体の方に引き寄せた。それは僕が予期していないことだった。僕としては二人でピースサインした写真を撮れればそれで満足だったのに。サキは僕の想像をはるかに超えることをやってきた。


 サキに絡めとられた左腕は、彼女の体と密着することになる。左手の二の腕あたりが、サキの胸の膨らみに触れていた。触れる?そんなレベルじゃないな。完全に膨らみを押し付けていた。その弾力を完璧に捕らえていた。僕は完全に脱力していた。サキにされるがまま、僕の左腕は胸の上で完全にホールドされていた。

「ハイ、チーズ」と僕はシャッターを切る。カメラがピカッと光った瞬間、サキは僕の左腕を開放した。僕は何もなかった気にしていない演技を全力でしながら、カメラをリュックにしまった。彼女は元の離れた位置まで戻っていき。次に歌う曲を探し始めた。僕はストローでカルピスを飲み、自分を落ち着かせようとした。心臓はずっとバクバクしたまま、左腕はじんわり熱かった。もちろん熱く硬くなっている箇所もあった。カルピスが入ったグラスを掌いっぱいに掴んで、どこでもいいから冷やしを求めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る