第9話「変」
たどり着いた場所は廃墟だった。しばらく使われていない施設らしく、入口に張られた窓ガラスは割れ、蛍光灯の紐が隙間風に揺れている。周囲には今は稼働していない小さな工場が一様に並んでいた。
私は自転車を降りて建物の敷地に踏み入った。割れた窓ガラスを跨いで、建物の中に入る。床には小さなガラス片が散らばっていて、足を進めるたびにパリパリパリッと音がする。
耳を澄ました。薄暗い建物の中には隙間風が通っていて、ときおり枯れ葉の転がる音が聞こえてくる。
「――ぁ」
かすかな声に、私ははっと顔を上げた。声を頼りに、注意深く歩き進む。やがて暗い階段に行き着くと、声は上の階から聞こえているのがわかった。一段、一段と上っていくたびに、声は大きくなっていく。私は頭痛と悪寒に耐えながら、一段一段を乗り越えるように上がっていった。
「あ……」
階段を上がりきった廊下の先に、分身の姿はあった。両膝を床につけて、悶えるように頭を抱えている。彼女が発する呻き声に呼応するかのように、私の頭痛もひどくなる。
「……来ちゃ、ダメ」
指の隙間から私を見た彼女は、息も絶え絶えに言った。
「……ここは、本当にまずいところみたい……」
彼女の言葉に、私は足を止めた。
――人の幸福を吸い取る霊がいて、実際に被害も出てるって……
文の言葉が、脳裏をよぎる。
「ああああ!」
彼女が悲痛な声をあげた。頭を抱え、床に倒れ伏す。それにつられるように、私の頭痛もひどくなる。私は頭をおさえながら、彼女に近づいて、腕を取った。
――やっとわかった、この分身の正体は。
「ここから出よう!」
彼女の腕を精一杯に引いた。しかし、彼女は床に固定されたかのように動かない。頭を抱えながら、悲痛な声で叫び続けている、
――どうすれば。
「理緒ちゃん? いるの?」
一階から、文の声が聞こえてきた。私は階段と分身を交互に見る。
「2階?」
階段を上がる足音が聴こえてきた。文にこの状況を見られるのはまずい。私はこの場を去ろうと分身を必死に引っ張るが、やはりびくともしなかった。
「ねえ」
文の声は着実に近づいてきた。私は悶え苦しむ分身を必死に引っ張り上げようとする。分身がいることを見られるわけにはいかない。文だって衝撃で気絶してしまうかもしれないし、何かの形で情報が漏れれば、私は科学者の実験体になってしまうかもしれない。一度逃げ出して、文にこの場を任せるか。
「あああ!」
分身が一層の大声を上げた。私の頭痛も酷くなる。
「ねえ、大丈夫?」
文が階段を駆け上がってくる音がした。
――逃げるか? もしこの状況を文に見られたら――。
私は惑った。苦しむ分身と文が駆け上がってくる階段を再び交互に見やった。
――でもこの分身を失ってはいけない。だってこれはきっと私の――。
――悪い面ばっかり見過ぎだよ。
いつか分身が私に言った言葉が、突如頭に浮かんだ。それに私ははっとする。
――一か八か、かけてみるしかない。リスクはあるけど、それと同じくらい――
「文! 助けて!」
私は叫んだ。
「理緒ちゃん!」
文は声をあげて、階段を駆け上がってくる。
「大丈夫!?」
姿を現した文は、肩で息をしていた。
「お願い! 手伝って!」
私は分身の腕を再び引っ張ろうとした。しかし私の手は空気を掴み、勢いあまって尻餅をつく。
「……え?」
見ると、分身は姿を消していた。彼女が身につけていた衣服だけがふわりと床に落ちる。
文が私のもとに駆けつけてくる。「大丈夫?」と屈んで、床に落ちた衣服と私の顔を交互に見つめた。
「誰か、いたの……?」
「うん……」
私は文と顔を見合わせた。
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