第3話「知」

「ねえ、帰ったってば」


 目を覚ますと、目の前に鏡があった。どんなトリックなのかはわからないが、私の顔は逆さに映っている。目も口も、私の動きとは関係なく自律的だ。


「ああ……」


 私は重たい体を起こした。体の節々が痛い。

 しばらくぼーと虚空を見つめたあとに、大切なことを思い出した。


「どうだった、学校」


 私の質問に、彼女はピースサインを突き出した。


「ばっちりだよ」

「授業はちゃんと受けた?」

「もちもち」


 彼女は横に置いていたスクールバッグから、ノートを取り出して開いてみせた。しっかりと今日分の記録がとられている。字も間違いなく私のものだ。これなら代筆を疑われることもないだろう。

 一通りの成果を見て、私はほっと息をついた。


「疲れたでしょ、学校は。人がいっぱいいてさ」

「え、楽しいよ。いろんな人がいて」


 顔も身体も字の汚さまで同じなのに、どうしてここだけは相容れないのか。


「そ」


 立ち上がって、窓を開けた。体育があったからか、靴下からむっとした汗臭さが漂ってくる。


「お風呂、入っちゃってよ」

「あ、それなんだけどさ、どうやって入る?」



 協議の結果、一緒に入ることになった。どうせ同じ身体なのだから、手で隠したりする必要もないだろうという結論だ。お互い鏡を見てると思えばいいのだ。

 2人それぞれ寝巻きを持って、階段を降りた。母が廊下にいないことを確認してから、一気に脱衣所に駆け込む。スパイ映画のワンシーンのように、物音には細心の注意を払った。


「背中、流そうか」


 私が体を擦っていると、先に湯船に浸かっていた分身が言った。

 私は急いで人差し指を口に当てる。


「一人で喋ってるって思われるでしょ」

「ごめんごめん」


 彼女は声を潜めて、湯船から出てきた。


「便利でしょ、身体がふたつあるって」

「まあ、いろいろ不安もあるけど」

「ほれっ」

「ヒィッ」


 彼女は私の脇腹をくすぐってきた。思わず出た悲鳴に、私は口を抑える。

 振り返ると、彼女はお腹を抱えてケタケタと笑っていた。私は潜めた声で責め立てる。


「状況わかってんの」

「ごめん。あまりに無防備でだらしない身体だったから」

「あんたも人のこと言えないでしょ」


 私も躍起になって、彼女の脇腹を突いた。彼女も短く「ヒッ」と悲鳴をあげると、急いで口を抑える。


「これでおあいこね」


 彼女をきっと睨みつけて、私は正面に向き直った。鏡に映った私の顔は、なぜだか少しだけ笑っていた。


 入浴のあとに生じたのは、食事の問題だった。どちらかが食卓で、家族と食事をしなければならない。


「お昼食べてないの?」

「うん……」


 私は自分の腹をさすった。寝ていたせいでお昼を食べ損ねたのだが、寝ていたおかげか全く空腹を感じていなかった。


「でもさすがに、ちょっとはお腹に入れた方がいいって」


 彼女は言って、私の背中を押した。


「そうだよね……うん、そうする」

「宿題、やっておくから」


 彼女は私を見送って、部屋に戻った。

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