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*
「いやあ、うまく抜け出せたね」
駅へ向かう道すがら、隣を歩く篠津くんはスッキリした表情をしていた。私はそんな彼がさりげなく、車道側を歩いていることに気づいた。足取りもしっかりしているから、特に入れ替わりもせず、私は今も篠津くんに護られながら歩いている。
最終的に、私たちはキスまで辿り着かずに終わった。目を瞑ってすぐポッキーにかかっていた重力が急に軽くなったので、目を開けてみると、既に篠津くんの顔は遠くへ離れていたのである。ポッキーは、私の唇から数ミリだけはみ出して残っていた。おそらく、篠津くんが衝突寸前でうまい具合にへし折ってくれたのだと思う。そうでなければきっと唇が重なり合っていたはずだが、少なくとも私にはその感覚が伝わってこなかった。それでも観客たちは「たまには男らしいとこ見せるじゃんか」と篠津くんを讃えていたから、たぶん傍から見ていたとき、私たちは完全にキスをしたように見えていたのだろう。
篠津くんは、すぐ「高砂さん、ごめん。大丈夫だった?」と私を輪から離れたところに誘ってくれた。そして彼が言っていたとおり、それからの私たちは完全に二人だけ切り離されたようになって、飽きもせず次のゲームを始めた集団に向かって「帰る」と言うだけで呆気なく抜け出せた。そういう意味では、ポッキーゲームの相手が篠津くんでよかった気がする。きっとそういう意図をもって、ギリギリのところでゲームを終わらせてくれたのだ。
純粋に、優しい人だと思う。私が自分から交友関係を広げるタイプじゃないことも、飲み会でいじられたりすることはあっても決して快くは思わない側の人間であることも見抜かれているはずだ。だから助けてくれた。そうじゃないならきっと、男があんな千載一遇の好機をみすみす逃すはずはない。飲み会の罰ゲームだからしょうがない……という免罪符を振りかざして、私という人間に被されたシュリンクを、一部分だけ破いたに違いない。
でも、篠津くんはそうしなかった。そして現に、今の私たちはあの魔窟を脱して、帰路についている。
彼は私の恩人だ。
「そうだね。篠津くんのおかげかな」
「高砂さん、唇に力入れてただろ。だからうまい具合にギリギリのところでポッキーが折れたんだ。つまり高砂さんのおかげでもあるよ」
「うまいこと言うじゃん。シラフでもそんなに口が回るの? 篠津くんって」
「逆に酒でも入ってなけりゃ、あんなくそ恥ずかしい罰ゲーム、死んでも嫌だね」
ふーん、一応恥ずかしさはあったのね。途中から急にガツガツと食べ進めてた割には。
ああ、そういえば。
「篠津くんさ」
「なんだ」
「なんで、途中からポッキー食べる速度が上がったの」
篠津くんはわずかに目を見開いた。それが図星を突かれたことへの焦りか、単純な驚きなのか。すぐにそれを読み取ることができなくて、私はさらに言葉を継いだ。
「最初のうちはモソモソ食べてたじゃん? 私も思わず目を瞑っちゃったから、どこまで近づいたところで折ってくれたのかはわかんないけど、あの時はさすがに――」
「なるほどな。そういうことか」
ごう、とすぐ側を車が追い越していった。遠くなっていくテールライトの光が暗くなる直前、何気なく篠津くんの顔を覗き込むと、口では納得したようなことを言ってたのに、今は(やっちゃったな)みたいな笑い顔を浮かべていた。
「なに。どしたの」
「いや、人間って自分が信じたいように信じる生き物だったよなと思って」
「確かに人間がそういう生き物なのは同意するけど、それが何?」
「途中でお互いに食べ進めるのが止まったとき、高砂さんが僕のほうを見ただろ」
つくづくうちらは苦労人だね、と目線を送ったときのやつか。
私がそう思い返すのと同時に足を止めた篠津くんにあわせて、立ち止まった。季節が移り変わるとともに夜風が少しずつ冷たくなっていることが、酔った身体でも感じとれた。
「そうだね。見たよ」
「僕はあれを、高砂さんからの挑戦状だと受け取った」
「は?」
「要するに、やれるもんならやってみな、ってことだと勝手に解釈したんだよ。だから意を決して突撃したけど、その後の反応を見ると高砂さんの真意はそうじゃないんだとわかった。だからぶつかる直前でうまいこと折って撤退したってわけさ」
悪かった、と篠津くんは私に向かって頭を下げた。別に頭を下げるほどのことではない……っていうのは、最終的に何事も起きなかったからそう思うのかもしれないけれど。
思わず、いいって頭上げなよ、と彼の肩を掴んでまっすぐに立たせた。
「私がとっさに目を瞑ったのを見て、勘違いに気づいたってことね」
「ああ」
「……篠津くん、ひとつだけ聞かせてよ」
「なんだ」
「それって、もしも私が目を瞑らなかったら、最後までシてたってこと?」
ずぶずぶに自惚れているようで、本当はあまり訊きたくない質問だった。終了後に面白がってからかう声とか、延々とついて回る根も葉もない噂とか、そういう要素を考えたら絶対に途中で折ったほうがいいフラグ。一本のポッキー。
篠津くんは、もしも私が本当に(やれるもんならやってみな)と宣戦布告の気持ちを視線に込めていたら、あるいは瞼を上げたまま彼を迎え入れようとしていたら、未必の故意による唇の正面衝突を望んだだろうか。私とそうなっても構わない、という気持ちでいてくれたのだろうか。
今日は昼間からずっと曇っている。そこを眺めても黒い闇しかないのに、篠津くんはわずかに天を仰いだあと、すっと息を吸い込んだ。
「相手が高砂さんじゃなければ、そうは思わなかっただろうな」
「なにそれ。えらく遠回りなこと言うね」
「単刀直入に言ってもいいなら、言うけど、条件がある」
なに、と返したとき、篠津くんは既に私の肩に手を置いていた。私よりも少しだけ高い温度が、上着越しに降り注いでくる。じわりと肩から徐々に広がるその温かさは、唇で融けたチョコの味が口の中を満たす瞬間を思い出させた。
肩に置かれた、ちょっとだけ震えている手が、なんとなく愛おしく感じる。私は彼に笑いかけた。
「ほら、条件ってなに。受けて立とうじゃないの」
「……今度は、最後まで目を瞑らないで聞いてくれるか」
彼の表情から、さっきまでのやわらかい笑みが消えていることに気づく。
ああ。
何事も、動き始めるのってこういう瞬間なんだな。
お互いに、そうなっても構わない、という覚悟ができた瞬間。
って言うかそれって、今か。
さっき彼も言ってたもの。
人は信じたいように信じる生き物だ……と。
「わかった。ちゃんと見てる」
「僕は――」
ほんの十数センチ先で彼の唇が動くのを、私はしっかりと見つめた。
それが約束だから。
とりあえずは、そうだな。
今度彼とポッキーゲームをやるときは、目配せじゃなくて、事前に言っておこうと思った。
躊躇せず一思いにやってください、と。
フラグはチョコ味 西野 夏葉 @natsuha
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