第5話 始まりの足音

(な、んだ……これ。気持ち悪っ……ぐっ、い、痛ってぇ!)

 

 定まらない足元、船で揺られているような感覚に、心許なさを覚えた。突然痛覚を刺激され、左目を押さえたカナタは顔を歪める。


 2人の後方の路地裏に、黒と金色のツートンカラーの実を1つだけ付けた大きな林檎の樹が浮かび上がった。

 

 体中に刺青のような文様のある、木の根元に座る男が、ふっと意味ありげに微笑む。その表情は泣いているようにも見えた。


ευλογεί το παιδί μουエヴィオギトゥファイディモウ


(……オレに言ってんのか? いや、それよりイツキを!)


 男が聞き慣れない言語を呟いて、林檎の樹が立ち消えると、左目の痛みは治まる。程なくして、カナタの周りだけゆっくりと時が流れ出す。いや、止まったと言うべきだろうか。


 (このままの軌道だったら、トラックが2人にぶつかっちまう。きっと2人とも無事では済まねぇよな……)


 時間が止まったからなのか、突然クリアになったカナタの思考は、冷静に今の状況を分析し出す。


 視線を彷徨わせると、歩道橋の下、錆びた自転車数台に枯れ草が絡まっている。2人の左側数メートル先に、ガードレールの端が張り出しているのも目に留まった。対向車は無し。


 自転車とガードレールでスピードの落ちたトラックが、その近くの樹木を囲う縁石に乗り上げて止まれば、トラックの運転手も軽症で済むかもしれない。


(この方法なら多分いける)


 自分の周りの時間が止まるという異様な状態に頭を回す余裕も無く、確信を持ったカナタの体は動いていた。


 体重の軽そうな少年を歩道の奥へと運び、イツキに体当りして少年の方へと動かす。


 イツキが少年に覆い被さるような体勢で、彼のシルバーフレームも外れてしまったが、取り合えず今は気にしない。


 イツキ達が居た位置よりもう少し車道側。トラックの前輪付近に放置自転車を蹴り出して、トラックのスピードが落ちるように仕向ける。


(頼む。上手くいってくれよ……)


 カナタが2人の元へ戻ると、金属を引きずる耳障りな音と共に、ドカンっと爆発するような音が響いた。


 一度ビクッと身を竦めたカナタ。現場は騒然としていた。


 カナタの狙い通りに、数メートル先の樹木の縁石に乗り上げたトラックから降りて来た運転手が、付近の人に頭を下げると、人々は動き出した。


(皆無事そうだよな? 良かった)


 カナタは周囲を確認して、ショーウィンドウに映る自分の姿と偶然目が合う。ショーウィンドウに映る自分の後方に、林檎の樹が映っており、対比する自身が不敵な笑みを浮かべた。


 慌てて振り返るも、何かあるはずもなく、少年の近くに居た獣人達の姿もいつの間にか消えていた。

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