13.アカシアの甘い日

『俺の好きな女性』と言われ、寿々花は戸惑う。

 本気? それとも元婚約者である娘に会ってほしいという両親を撃退するための嘘の恋人にされている?


 父も動揺しているようだった。おなじく『本気か嘘か、館野、どっちだ』と計りかねているようだった。

 なのに館野一尉は、デスクにいる父へと顔を向けた。


「もう少し慎重にと思っていましたが。陸将補、俺はもう我慢できなくなりました。まだお嬢様にはなにも告げていませんが、ここでお許しくださいませんか」

「はい? あー……いや保留だな」

「了解です。ですが自分の気持ちは告げましたからね」

「お、おう。いちおう受けておく」


 あせあせとたじろいでいる父を置いて、館野一尉がソファーから立ち上がる。

 そのまま、旅団長デスクのそばに控えている寿々花の前まできてくれる。


「寿々花さん、いままで遠慮をしていましたが、伝えておきますね。自分と是非……」


 彼がそこまで言ったところで、鳴沢の父が立ち上がった。


「わかった。もうわかった。君の気持ちはよくわかった。それ以上は聞きたくない。帰らせてもらう」


 茶番であっても、本気であっても、自分たちの願いはもう通じないと悟ったからなのか、破れかぶれに鳴沢氏が叫ぶ。鼻息荒く席を立ち上がり、旅団長室を妻と一緒に出て行った。


 嵐が去ったが如く、旅団長室がシンとした。

 父でさえ、呆気にとられている。館野一尉はため息を落とし、寿々花はただただ茫然……。

 しばらくして、父が気の抜けた様子でふにゃりと姿勢を崩した。


「はあ、効き目抜群じゃないか。館野。うちの娘を引き合いにだしてくれちゃって」

「申し訳ありません。拓人を堂島さんから引き取って、鳴沢の両親に引き取らせ見送ってきます」

「丁重にな」

「もちろんです。お騒がせいたしました。行ってまいります」


 なんだ。やっぱり引き合いに出された茶番だったのかと寿々花は脱力しそうな身体を必死に律するだけ言葉も出ない。

 旅団長室を出て行く時、彼がドアを開けたそこで、室内へと振り返った。


「伊藤陸将補、自分のために、ありがとうございました」


 父が『いいの、いいの』と手を振って、さっさと行くように彼を促す。

 彼がドアを閉めると、父と二人きりになった。


「さてと。そろそろ、あちこち終わりの時間かな」

「お父さん、あの……」


 父がデスクから立ち上がり、窓辺へ向かい寿々花に背を向けた。

 まだ民間人や隊員で賑わう外を見つめている。


「あとは彼と話したらいいだろう。とっておきの話を、本気でこんなところでするもんか。そんな話はふたりきりの時にするものだよ」


 少なくとも。寿々花の気持ちは、父にも母にも知られているとわかった瞬間でもあった。




---✿




 その後、館野一尉がどのようにして鳴沢夫妻を見送り、息子の拓人君と別れたのか。寿々花にはわからなかった。


 夕方になると、賑わっていた駐屯地も静かになった。

 音楽隊での解散ミーティングを終える。堂島陸曹から『あちらのご両親、すごい不機嫌そうに拓人君を引き取りにきてね。二度と来るもんか――なんて私に言うのよ。なによ、あれ』と再び憤慨していた。館野一尉が後のことはすべて引き受けるからと、堂島陸曹も従ったとのことだった。

『また二人だけで、じっくりと話しましょう』と、陸曹と飲みに行く約束をすることに……。


 とりあえず自宅に戻って、母と話そう。

 駐屯地内のコンビニで、お疲れ様デザートを選んで、レジ袋片手に外に出る。


 外に出るドアを開けたそこに、夕の優しい光の中、その人が立っていた。


「今日はありがとう」

「一尉……。お疲れ様でした。大変でしたね」

「俺も帰るところなんだ。一緒にいいかな」


 一尉に誘われ……。周囲の目線が気になったが、寿々花は頷く。

 彼と一緒に並んで歩いて、駐屯地の外に出た。


「公園に行こうか」

「はい」


 制服姿の男と女が徒歩で夕暮れの真駒内まこまないの街を歩く。

 近くに自衛隊の官舎団地もあるし、この街ではよく見かける光景かもしれない。

 いつもは朝出会う公園へ。まだ青い空を残している六月の夕だが、光は柔らかくなっていて、気温も少し下がって風はひんやりとしてきた。それでも、公園内に入ると、アカシアの甘い香りが強くなる。


「北海道の初夏の香りだね。久しぶりの北国住まいだけれど、懐かしく思い出すよ」

「そうですね。私にとっても久しぶりの香りです」


 いつもはヨキと歩いている道を、今日は彼とふたりきりで歩いている。


「ほんとうにありがとう。俺はたった一人だと思っていたけれど、そばに将補と、お嬢さんのあなたがいてくれて心強かったです」

「いいえ。一尉が決意されたことなので、初めて会う息子さんと素敵な時間になればいいとそれだけ。私だけでなく、父も母もおなじです。あ、堂島陸曹も、前からお知り合いだったとかで、同じように思っていたようです」

「うん。彼女とまたここで再会するとは思わなかったけれど、当時から気を遣ってくれていたことは知っていたから……。今回も有り難く思っています。改めて御礼を伝えるつもりです」


 歩いているうちに、いつもヨキと一緒に休憩をするベンチが見えてきた。


 館野一尉もそれに気がつき、二人とも自然にそこに腰をかけていた。


 空は青いのに、雲は茜に染まっている。

 そんな空を見上げて、穏やかな眼差しの館野一尉が呟いた。


「目が覚めました。馬鹿みたいです。自分のために生きていきたくなりました」


 今日、元婚約者一家の有様を知り、館野一尉がいままで『あちらに都合良く扱われても、父親としての責任は果たす』と背負い込んできたものを、降ろすことができた報告だと寿々花は思った。


「でも……。拓人君のことはどうされるのですか。あちらのいまの状況ですと……いままでどおりに健やかな毎日でいられるか心配です」

「もちろん、拓人のことはこれからも最善の道を歩めるよう見守るつもりです。それでも、拓人がいま、あちらの旦那さんを父親と思っている以上はしゃしゃり出るつもりはありませんから。どうなるかはわかりませんが、弁護士と相談をして、むしろ彼女より父親である彼と話合ったほうがいい気がします」

「拓人君を引き取ることはできないのですか」

「大人たちの勝手な勢いで事を進めることだけは避けたいと思っています。それから謝ります。あの人たちに去ってほしくて、寿々花さんを引き合いに出したことを……」


 ああ、そうか。謝りに来ただけなのか。待っていてくれたのは……。そうだよね。それだけだよね。

 わかっていたから寿々花も、微笑み返す。


「いいえ。ご自分たちの要望が通るまで居座りそうでしたから、致し方ないです。そばにいることでお役に立てたのなら」

「いえ、まあ、確かに引き合いに出してお手伝いさせてしまったのですけれど。それはあの時の作戦というだけで……。その、だから、自分のために生きたいと思って、頭に浮かんだのが、寿々花さんが最初だったというか……」


「そうですか。まあ、目の前に居たので、最初にとりあえず女性の名前を言いたいと思って目にとまっただけのことですよね……」

「そうではなくて。好きに生きていいなら、寿々花さんと、その、ふたりきりになりたいと。そう思ったのも本心です」


 寿々花は眉をひそめる。すぐには意味がわからなくて――。

 すぐに響かない寿々花の様子を見て、館野一尉が少し残念そうな顔をして、肩の力を落としている。彼がもう一度、深呼吸をして寿々花を見下ろした。


「寿々花さん」

「は、はい……」

「あなたとふたりきりになりたい、制服を脱いで、階級も忘れて、俺のそばで眠ってほしい、目覚めて欲しい。そう思っているということです」


 制服を脱いで。一緒に眠って、目覚めて。ふたりきりになりたい。

 やっとすべてがどのようなことか伝わり、寿々花の身体が一気に熱くなってきた。さらに気恥ずかしくなってしまい『きゃーっ』と顔を覆いながら、ふたり一緒に座っているベンチで彼に背を向ける。


「あの、その、わたし……あんまり男性とお付き合いしたことなくて。いえ、ほんとうは、初めてです! わけのわからない子供みたいな女ですよ。アラサーにもなって!!」

「え、そうなんですか。かわいいじゃないですか」

「えー! 扱いにくいかもしれないじゃないですか!」

「いえ、むしろ。俺が初めてなら、うんと大事にしますよ」

「でも、でも、でも」

「俺のこと、怖いですか」


 寿々花は首を振る。いまはもう怖くなんてない。


「俺は。寿々花さんのことは、とても信頼できる女性だと思っています」


 信頼できる。それが彼にとって、そばにいて欲しい人の条件とも言いたいらしい。


 愛した女性に裏切られ、息子を盾にされて、搾取されてきたことから目が覚めた男にとって、女性を信頼できるかできないかはいちばん大事なことなのだろう。


「俺のそばに、いてくれませんか」


 アカシアの香りがただよう夕風の中、寿々花は制服姿の彼に微笑む。


「はい。よろしくお願いいたします」


 彼の冷たかった黒目が熱く溶けていくのを感じた。

 でもそれ以上に、彼が微笑んでくれているのが嬉しい。


「でも。その前に……。もう一度、言いますね。自衛官という男は……」

「わかっています」

「俺があなたを望んだら。甘いところだけ貪って貪って、それだけで終わることだってあるのですよ」


 あの時の自衛官としての使命は変わっていない。

 男としての気持ちが軟化しても、それだけは。


「わかっています。私も自衛官の娘であって、自分も自衛官です」

「将補が大事にしているからこそ。男の気持ちだけで、大事なお嬢様を押しつぶしたくない」


 彼が寿々花を想って言ってくれているのだとわかっている。

 だが、寿々花は答える。はっきりと。彼の目を見つめて


「貪って、それだけでもいいです。私も、甘いところだけ貪ってもいい」


 あなただけと愛しあった思い出だけでも欲しい。

 あなたにも親愛なる女と愛しあったという思い出を持って欲しい。

 それが寿々花の願いになっていくのだろう。それが僅かな瞬間だけでも、彼にとって嘘偽りのない時間になって、いつも胸に携えていてほしい。険しい使命を課せられた時も。


「どんなに甘いか、私は知りたいです」

「うん、わかった。ありがとう」


 そっと目を閉じた彼が静かに答えてくれた。とても安らいでいる穏やかな面差し。そんな顔ができる居場所を得られた男の顔だと寿々花は思いたい。



 そのうちに、また彼が初夏の夕を遠く見つめている。寿々花も一緒に見つめた。


「この香り、あなたの香りになるんだろうな……」


 アカシアの甘い香りがする夕風。

 寿々花もそう思う。この匂いがすると、あなたの甘さを知りたいと告げた日を思い出すのだろう。


「制服でなければ、いまキスしたかったな。ここではちょっと、この姿ではね。まずは制服を一緒に脱いでみようか」

「そ、それってどういう意味ですか……」

「朝は、よっ君のお散歩で私服姿を知っているから、今度は夜、とかね」

「いきなり、そいうこと、言うんですか!」

「だから。貪る準備ってことで」

「いやー! 一尉の清廉そうなイメージ崩れちゃう!」

「俺だって、男ですから。甘いもの解禁。いままで禁欲してきたこと、一気に放出するから覚悟して」

「だから。私、初めてって」

「ということは、俺の好きなように教えられるってことか」

「もう、そんな一尉、いや!」


 初めてのことに動転している寿々花を知って、また彼が笑う。

 でも、いままでの微笑みと違う気がした。

 寿々花だけの、愛おしさを秘めてくれたような?

 その笑みに見とれてたら、彼の顔が近づいてきた。



 一瞬だけ、いや少し押し当ててしばらく。彼のくちびるが、寿々花のくちびるに重なった。でもすぐに離れていく。


「人がいなかったから、やっぱり、好きになったご挨拶しておくな」

「……は、はい……」


 もうダメ、心臓ドキドキ、頬は熱くて、目眩がしそうだった。

 制服姿の素敵な副官さんから甘い印をもらっちゃった。

 アカシアのかおりのキス……。


「まずは制服を脱いで、私服で普通の男と女になって。休暇のモーニングにドライブしようか」


 夕の甘い匂いの風の中、寿々花も笑む。

 あなたを大事にしたいよ、愛おしく癒やしていきたい。そう伝わる笑顔でありますように。


 あなたは孤高の精神を抱く、微笑まない自衛官。でもそばにいます。

 今日まで恋、明日から愛――。



◆微笑まないあなたのそばに *未婚の父編*(終)◆


⇒次回、笑むあなたのそばで*親権編*へと続きます

館野一尉、拓人の親権獲得へと動きます

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