12.目が覚める


 旅団長室の空気が一気に固まった。

 父の表情も堅くなる。一瞬で目つきが鋭くなったことに寿々花は気がつく。すぐに動いたのも父だった。


「堂島君、申し訳ないが、拓人君に自衛隊のコンビニを案内してくれるかな。その後、音楽隊のお部屋も見せてあげてくれ」

「かしこまりました。陸将補」

「これ。自衛隊の記念品になるもの、お土産にしてあげて。伊藤のおじさんからのプレゼントだよ」


 元々準備をしていたのか、父がいくらか包んだだろうポチ袋を堂島陸曹に渡した。


「将補、そんな、それは自分が」


 一尉が慌てて立ったが、父が手で制した。


「おじさんの個人的な気持ちだから。陸将補からじゃないからね。あれ、館野のおじちゃんは、なんでそんな慌てているのかな」


 父親だから、それは自分がする――という当然の気持ちで立ち上がったのだろう。

 だが拓人君からすれば、父も館野一尉も『自衛隊のただのおじさん』、館野一尉でなければいけない理由などないのだ。


 堂島陸曹が父から預かり、まだジュースを飲み始めたばかりの拓人君を連れ出そうとしていた。

 鳴沢夫妻も止めもしない。むしろ好都合だと言いたそうだった。

 それに気がついた寿々花は、やっぱりなにか言いたくて来たのだと悟る。


 最初からそうだったのだ。孫をだしにしてここまで近づいてきた。そうでなければ、連絡窓口にしている館野家担当の弁護士のところで、館野家が拒絶する意志を伝えられて堰き止められる。だったら、館野一尉が会いたいと思える状況をつくるために……!


 また寿々花の頭に血が上りそうだが、隣にいた堂島陸曹に肩を掴まれる。冷静であれという合図だ。だが彼女の目も鋭くなっている。それでもじっとしているクールな彼女を見て、寿々花も思いとどまる。


「堂島君、早くつれていってくれ」

「はい。拓人君、自衛隊のコンビニに行ってみましょう。音楽隊の楽器も見せてあげるわよ」


 音楽隊のママさんの言葉に、無邪気な笑顔を見せて、拓人君も『行きたい』と走り寄ってきた。


 孫がそばにいることもかまわずに、大人の事情を繰り広げようとしているこの場から、父が早く遠ざけようとしている。寿々花も付いていかなくてはならない。彼女の配下として来たのだから。これから何があるのか知ることはできないが、あとで父が教えてくれるだろうか。そう思いながらも、拓人君を諭して退室しようとしている堂島陸曹に付き添い外に出ようとした。


「伊藤陸士長は、そのままここに」


 父に言われ寿々花は驚き、立ち止まる。『しかし』と呟いたそこで、堂島陸曹に『あなたは残りなさい。将補のご指示よ』と、置いてかれた。


 父のデスクのそばに控えるようにと指示をされ、寿々花もそばで静かにたたずむ。

 そこから見える館野一尉の横顔は、普段人を寄せ付けない強い意志を見せるている時と同じものだった。

 怒りのオーラが見えるようだった。息子会いたさに釣られて、なにかの交渉の場に引きずり出されたことに気がついたのだろう。いや、予測していたが、そうであって欲しくないという願いが打ち砕かれて怒っているのだろう。


「おっしゃっている意味がよくわからないのですが、私と彼女のことについてならば、弁護士を通して話し合いにするお約束ですよ。今回は拓人に会えるというので承知しただけですが」


 急に冷たくなった口調も、寿々花がはね除けられた時以上に鋭利あるものに変貌した。

 父は黙って離れたデスクから見守っている。ここを離れる気はないようだ。

『あれを言われた言わなかった』とならないよう、この部屋の責任者として証人になるつもりなのかもしれない。そこに娘の寿々花もおなじ証人にしようとしているのだろうか……。


「お願いです。どうか娘に。すぐそこまで娘も来ているので、今夜にでも」

「将馬さん、どうかしら。あの子もあなたに会いたいと――」

「お断りいたします。なにがあったか知りませんが、彼女とのことは、息子の成長のためだけに繋がっているだけです。そのようなことを望まれるのであれば、苦渋の決断となりますが、養育費については、今後は取りやめにさせていただきます」


 そこで鳴沢夫妻が顔色を変えた。


「将馬君、じつは、その、いま、……」

「やっぱり、拓人の父親は、将馬さんであるべきだったのよ」

「娘も反省をしている。あれは気の迷いだったんだと。気がつくことが遅かったのは謝る。一生をかけて償う」

「あなたが留守の間の子育ては、私たちも協力するから心配ありません。あの子が結婚前に不安に思っていたことは、いまはもう解消されています。私たちがあなたが留守の間の家庭は守っていきますから」


 館野一尉が願っていた環境を準備するとまで言い募る鳴沢夫妻。

 その間、館野一尉は部隊で知られている冷気ある男の顔のまま、無表情だった。


 父も同じく、じっとなにかを見定めるかのような目つきをしている。


 寿々花も黙って聞いているが『冷静に冷静に』を唱えて堪える。神妙に聞いていると。彼女と、彼女が願い夫になった男との夫婦仲が破綻を迎えているように聞こえた。


 夫がフリーランスになり収入が激減、毎日自宅に居る。こちら親側で支援を続けているが限界がある。夫婦のすれ違いが起こり、婿養子として同居していた婿が帰ってこなくなった。子供が寂しがっている。たぶん離婚になると思う。と、鳴沢夫妻が交互に捲し立てた話は、そんなことらしい。


 ほんとうに。今更何様だと寿々花は驚愕している。

 ひとことで言えば、図々しいだった。父が徐々に怒りを蓄えている様子も、そばにいる寿々花にひしひしと伝わってくる。


 ひととおり黙って聞いていた館野一尉だったが、鳴沢夫妻が静かになったところに、ひとことだけ言い放った。


「弁護士を通してください。彼女には二度と会いたくありません」


 鳴沢夫妻が落胆の表情を揃えた。

 いや、当たり前でしょうと寿々花も心で言い捨てたいが、ほんとうのところは、館野一尉が望む環境が整うならば、息子のために無茶な要望を飲み込むのではないかと不安だった……。


「将馬君、会うだけでも……」

「お願いします。拓人と毎日会えるようになるのよ。今日だってあんなに楽しそうにパパのあなたと――」

「パパと呼ばれる男は自分ではありません。一日ではなれるはずもない」

「わかっている。君が父親になる瞬間も時間も奪ってきた。だが取り返せる、拓人がまだ幼いいまなら間に合うと思うんだよ」


 ひたすら元義両親をまっすぐに見つめている館野一尉の顔は、男でもなんでもなく自衛官のままだった。凜々しく誇り高く、孤高に生きてきた彼そのもの。


「では。お父さん。教えてください。それを答えられたら考えます」

「なんだろう。なんでも答える。拓人のことか、娘のいまの気持ちのことか」

「娘さんと、あなたたちが、私から奪った物を全て答えてください。いますぐ、ここで。ひとつ残らず」


 鳴沢夫妻がまた茫然と黙り込んだ。

 それを言えたなら考えると無表情の男に突きつけられ、その答えを彼が望むままに自分たちの口から言うことを迫られる。それが言えるのか。自分たちが遣り過ごした『罪』を言えるのか。寿々花も固唾を飲む。


 言えない鳴沢夫妻を見て、父がため息をついて口を挟んだ。


「結婚、息子との出会う瞬間、父親としての生活、信頼、プライド、安らぐ家庭、かな。あ、名付けもそちらで勝手にされたんですよね~。それから~、部隊でも男の面目丸つぶれ。これほどの男が実は子持ちで未婚だから、根も葉もない噂を立てられて、平然としている精神も鍛えられちゃったりしてね。うーん、こんな目に遭わされて、もう一度愛し合えるのかなあ。私だったら嫌だなあ……。そんな嫁も婿も二度と戻って来てほしくないなあ……」


 うわ、この父親、ほんとうに容赦ない狸だよと娘としても震え上がる。


「将補、それ以上は――」


 父が全部言っては、鳴沢夫妻が発言できなくなると思ったのか彼が止めた。

 だが言えるはずもないのだ。他人でも見えている罪なのに、この人たちには見えていなくて、自分たちがしたことだなんて認めたくないのだ。そんな罪を口にすることは罪を認めること、その上で、また娘と愛しあってくれと言える自分たちの図太さが、どれだけ非常識であることも痛感してしまうことだろう。


「金銭的にお困りですか。でしたら、養育費を三年分だけ一括でお支払いします。それで少しはまとまった金が手に入るでしょう。それでなんとかしてください。ただし向こう三年分だけです。その一括支払いの後は毎月とボーナス月の送金はストップさせていただきます」


 鳴沢夫妻がまた慌てた顔を揃ってあげた。


「あとは、拓人が成長する節目にまとめて、弁護士を通して本人に渡します。これにてあなたたちは信用できなくなりましたので、拓人本人へ送金し使用するための代理人を立てたいと思います」

「待ってくれ将馬君、そういうことではなくて」

「彼女が会いたいと? そこまで来ているのに、大事なことを伝えに来たのはお父さんとお母さんで、相変わらず自分ひとりではなにもできない。そうでしょう。どうして彼女自身が来なかったのですか。まだ離婚もしていない状態で、会ってほしいとは何事ですか。夫にそばにいてほしいはずだったのに、今度は安定した収入がほしい、ですか。結局、俺であっても、夫の彼であっても同じだったということですよね」


 彼の口調が荒くなる。徐々に抑えが効かなくなっているようだった。


「館野」


 父の声がひとことだけ、重く響いた。館野一尉も口をつぐみ、じっと黙り込む。

 震える唇を噛みしめ、目を瞑っている。心の波をなだめ、元の落ち着く位置であるニュートラルポジションに精神を立ち返らそうとしているのがわかる。精神すらも鍛錬され訓練されてきた自衛官のメンタルを見せつけられる。


 彼が目を開ける。


「これ以上は、弁護士へお願いします。本日は以上です」


 だが、鳴沢夫妻はテーブルに額がつくほどに頭を下げ、『会うだけでも』と食い下がる。


 そんな元義両親を見て、館野一尉が何故か微笑んでいる。


「俺、目が覚めました」


 鳴沢夫妻が再度顔を上げて見た館野一尉の笑顔に、ちょっとだけ気が緩んだのかホッとした顔をした。


「ずっと息子のため、それだけと思ってきたのに。目が覚めました」


 そんな憑きものが取れたかのような清々しい笑顔で、彼が鳴沢夫妻に再度告げた。


「俺、好きな女性がいるんです。そこの、将補のお嬢様です」


 え……。寿々花の目が点になる。

 父までもがいままでの余裕狸将補がどこへやら『なに!?』と驚き飛び上がっていた。


 ちょっと待って。それって、鳴沢ご夫妻の気持ちを諦めさせるためのカモフラージュにしようとしているの?? それも父親の目の前で、いや、陸将補という上官の目の前で!?


 鳴沢夫妻も半信半疑なのか、寿々花を見ては館野一尉と交互に見て戸惑っている。

 息子のためにしか生きないと誓っていた男が言いだしたことに、誰もが驚き固まっている。


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