第10話

 僕は、いつもの時間ぴったりにアパートD棟についた。そのまま駐車場と階段のゴミを素通りし、普段のようにまずは一号室の呼び鈴を押した。


 すると中から、うきうきとした気分を隠しきれない夫人の、普段の演技じみた台詞が返ってきた。


「夜のままだから、もうそんな時間だなんて気付かなかったわ。待っててちょうだい。今、開けるから」

「はい」


 婦人の声がして、少しすると扉が開いた。


 扉が開いたと同時に、僕は正面に立った彼女の心臓に銃弾を撃ち込んだ。続いて部屋に上がると、初めて顔を見た太った夫と、そうして太った息子に向かって何発も撃った。弾数を意識していなかったせいで弾が切れてしまい、全員分にと用意していた替えの新しいものを追加した。けれど辺りを見回しても、例のネズミの姿はどこにも見えなくて。


 僕はその部屋を後にすると、二号室、三号室、四号室……と順番に殺していった。二号室の若いカップルは、情けない悲鳴を上げて逃げ惑ったが、就寝していた他の階の人間は殺すのも楽だった。


 用意していた予備の替えは全てなくなり、銃には二発の弾丸だけが残った。



 三日間の明けない夜が、至るところでの暴動を一斉に起こし始めた。「俺達はお前達と同じ人間だ」「差別反対」「平等」……自分の方こそは偉いと、日々下に見て好き勝手に文句や罵倒まで浴びせていた人間達に向けて、労働者にも心がある、ということが怒声と共に爆撃や銃声や殴打音の中で強く主張されていた。


 暴力があった。殺しがあった。爆発が一瞬の眩しさを落として空気を切り裂き、狂ったような悲鳴と暴言、飛び交う銃声も長いことやまずに続いた。


 怨恨と報復の渦に包まれた町は、この世の終わりのような血生臭さに覆われた。高級取りや豊かな生活を送る人間、普段指示側にいる立場の者達が次々に襲われ、多くの労働者が群がって一人の人間を殴り殺す様子も至るところで見られた。彼らから食べ物を強奪しろという騒ぎも同時に起こり、腹をすかせた労働者達はようやく空腹を満たすことが出来たのだった。


 僕は銃をベルトに差し、爆破された建物の前に腰を降ろしてその様子をぼんやりと眺めていた。アパートD棟から長いこと歩いたが、じょじょに激しさを増した騒ぎは、僕のことなんて眼中にもなかったのだ。


 どのくらいそうしていただろうか。ふと、頭上の空に星が見え始め、僕は一日目がようやく終わろうとしていることに気付いた。でも、長らくじっとしていた身体は、散々動き回ったかのように疲れ切り、僕はもうそのまま動きたくなかった。


 恨み事を言いながら死体の顔を刺し続ける若者、何人かが立てこもったビルをこじあけようとしている群衆、ネグリジェ姿で逃げる若い女を追う男達の姿を、ただぼんやりと眺める。バイクの後ろから伸びた紐に首を繋がれ、地面を引きずられている子供達が目の前を通っていった。


 バイクが走り去った後、傍観者に回っている一人の浮浪者が、こちらへと気付いて向こうからやって来ながら、呑気な口調でこう言った。


「派手にやってるなあ」


 彼が騒動を避けながら僕の前に辿り着いた時、人々から追われていた車に、ビルの群衆から助っ人に出た男達が飛びかかり、中から中年ドライバーが引きずり出された。


「兄さん、お腹空いてるんじゃないかい? ほら、少しは食った方がいいよ」


 無精髭を生やしたその浮浪者が、僕に柔らかい上等のパンを一つ差し出す。まるっきり好意と純粋な善意しか見えない愛想たっぷりの表情で、きらきらとした瞳をしていた。


 しばし見つめていると、彼が首を少し傾げてきた。


「食べないの?」

「君の方が、ガリガリに痩せ細っているじゃないか」


 僕は、男をじっと見つめたまま静かに言葉を続けた。


「今にも病気で倒れてしまいそうだ。僕は若いから平気なんだ。だから君が、僕にあげようとしているそのパンもしっかりと食べて、たくさん食べて体力を付けるといい」

「あっはっはっ、兄さんは面白いこと言うねえ。んでもって、底なしの『おひとよし』だ。あんた、よく今日まで生きていてくれたよ。俺の知っていた素敵な兄ちゃん達、みぃんなひどい目に遭って、苦労して苦労して、使われるだけ使われて死んじまったんだ」


 彼は思い返すような笑みを浮かべて、伸び放題になっている頭髪の中をガリガリとかきながらそう言った。


「なぁ大丈夫なんだよ、俺はちっとも平気なんだ。このかた病気をしたことなんてないし、食べれる時に食べて、寝たいときには寝る。楽なもんだよ。兄さん、生きているんだから、少しでも食べなきゃ、ね? それに俺、まだまだいっぱい持ってるんだ」


 男が、パンの入った袋を掲げて見せた。自分がこれを分けてもらえた経緯を話し出した彼の後ろで、例の車から四人の家族が引きずり降ろされる様子を僕は見やった。後部座席にいたのは青年期に近い二人の少年で、そのうちの一人は、どこかの太った息子に似ているような気もした。


 怒りと憎悪に染まった群衆が、そのたった四人にワッと襲い掛かって、彼らの姿はあっという間に大勢の人々の波の中に呑まれて見えなくなる。


 そこから聞こえる憎しみの罵声と、死を感じる悲痛な悲鳴を聞いていた僕は、そこで説得の一つのようにパンを沢山もらった話を終えた男へと目を戻して、こう答えた。


「でも、お腹は空いていないんだ」


 胃袋は空っぽだったが、胃がもたれているような膨張感で、何も喉を通りそうになかった。少し眠ればそれも変わるだろうかと考えるが、今までどうやって自分が睡眠を取っていたのか思い出せない。


 すると浮浪者は、気を悪くするわけでもなくニカッと笑った。


「兄さん、緊張しっぱなしなんだね。きっと気持ちが落ち着いていないだけさ」


 彼は僕の手を取ると、そこに柔らかいパンを一つ乗せる。


「食いたくなったら食えばいいさ。そうしたら、動く体力も戻ってくるし、きっと、出歩きたくなるに違いないんだから」


 じゃあまたな、と彼は笑顔を残して騒ぎの向こうに見えなくなっていった。


 僕は、座り込んだ足の上にパンを置き、収拾のつかない暴動をぼんやりと眺めた。心なしか、今なら眠れるような気がしてきた。


 このまま目を閉じて意識を手放してしまったら、もしかしたら、巻き込まれてそのまま死んでしまうことだってあるのかもしれない。でも、僕は、僕が死んではいけない理由も見つからなかった。


 僕は自然と瞼まで重くなってきて、片膝を抱えるようにしてそこに頭を乗せ、目を閉じた。


           ◆◆◆


 ふっと意識が戻った時、僕はまだ息をしていた。


 目を開けると、そこには眩しい朝陽があった。薄くヴェールのかかったような青い空の遥か向こうを、すさまじい速さで飛び交う何かが見えたけれど、その正体を探究しようという思いは一欠けらも浮かばなかった。


 がたがたと煩い振動が、身体を揺らしていた。身を起こして確認した僕は、自分が今、数人の男達と一緒に貨物車の荷台に乗っていることに気が付いた。


 すると、汗と汚れにまみれた男達の中で、頬に擦り傷を負ったツエマチ君が「先輩!」と表情を輝かせて呼んできた。

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