第9話

 カラカラに乾いているから、いつも一枚食べ終わるまでじっくり時間がかかってしまう。前歯で噛みちぎり、奥歯で何度も強く噛み、ようやく飲み込める段階でゴクリと喉の奥に押し流すのだ。その大きな塊が、食道をけずりながら落ちていくような感触が、食事をしているのだという満足感を与えてくれた。


 窓を見やってみれば、外は相変わらず真っ暗闇だった。必要最低限の時以外、灯りを灯している部屋は少ない。ランプの燃料にしろ、電気にしろ、高価なのに違いはなかった。


 けれど夜は不思議なほど、ぼんやりと町の様子を浮かび上がらせるのだ。


 闇の広がる頭上には、きらきらと無数の星が輝いている。広大なその光の海に飲み込まれたいと誰もが思い、僕のように飽きもせず夜空を見上げるのはしょっちゅうあって。その光景はとても壮大で、静寂のうちに懐かしい痛みを思い出させるようにして、僕らの胸を締めつけてくるのだ。


 今日も僕は、食事を終えるとほとんど夜空を眺めて過ごした。しかし、そうしている間も、普段と違って今更のような胸に響くものは何一つ覚えないでいた。


 いつも飽きずに眺めているその光景を見つめながら、僕はこの日、普段とは全く別のことを考えていた。


 僕は、自分がすっかり疲れていることを自覚していた。とうに超えた限界の先で、身体は生きながらに死んでいた。ツエマチ君との話の中で、僕はそれに気付いてしまったのだ。僕は目の前に広がる現実に、今にも押し潰されそうだった。


 僕はカナミ先輩を想い、そしてツエマチ君のことを思った。窓辺に寄りかかって、窓から吹き込んでくる生温い夜風を受けながら、重くなってゆく瞼を閉じる。


 この世界が、嘘か本物かについて、うつらうつらと考える。


 頬を撫でる風の感触を残して、目を閉じた僕の五感が遠のいてゆく。途端に、世界にとっては僕なんてちっぽけな存在で、ほとんどの人間が僕なんて男を知らないでいて、そうして僕がこれまで抱いていた現実の世界なんてものは、とてもちっぽけに思えて。


「――嗚呼、結局はどうだっていいじゃないか、そんなこと」


 僕は、ぱちりと目を開けた。現実であるだとか偽物であるだとか、テレビやラジオのニュースがデマだとか実は何かを隠そうとしているだとか、どっちでもいい。


 今、僕の目の前に広がるこの現実こそが、僕や、ツエマチ君や、そうしてカナミ先輩や、自殺していった同僚達や、道端で理不尽にも「俺は偉い人間なんだぞ、尊重しろよこのクズ部下が」と、暴行の末に捨てられて死んでしまった者だったり――これがここで生きる僕らの、そんな僕達の同じく抱える現実なのだ。


 僕は、いつも通りベッドに横になった。


 そうして、体内時計は狂うこもなく決まった時間に僕を目覚めさせた。


 ソーラーパネルで動く時計の、剥き出しになった針が起床時刻を指している。いつもなら白んでいるはずの空の姿を、窓の向こうのどこにも見ることが出来なかった。


 そして、無数の輝きすら消えた空は、生まれて初めて見る「本当の真っ暗闇」だった。


 星の輝きがない、一色の黒い空。


「空がない」


 そんな一言が僕の口の中にこぼれ落ちる。世界に対する大きな違和感が頭をもたげ、しばらくそのままでいると、遅れた朝食に不満を持った胃袋がきゅうっと音を立てた。


 僕は用を済まし、狭い流し台からちょろちょろと出る水を使って髪と顔を洗うと、タオルを濡らして身体を拭いた。乾燥したパンをコップに入れた水に浸し、口にする。


 窓から、突然なくなってしまったような空と、深夜のように死に絶えた静寂の町を眺めていると、もう世界はこれから終わってしまうのだという考えが頭を離れなかった。


 たった一晩で、多くのものが世界から欠如してしまったのだろう。


 こうして何かを食べていても、息を吸い込んでみても、瞬きを繰り返してみても、現実という感覚が、あらゆる五感的なところから遠いところにある気がした。そこには目に見えないまま僕らを無言で縛り付ける秩序や、そういった何もかもの欠落さえ思わせた。


 世界が停止して、時間や、あたり前の現実すら壊れてしまったのだろう。


「――さぁ、行こう」


 僕は、パトカーの巡回音が遠くから聞こえてくるのを耳にしながら、いつもの仕事用の作業着へと着替えた。その警告音が、続いて人の手でひしゃげていく様子を聞きながら、ふっとツエマチ君のことを思い出した。小さく震えていた彼は、今、どうしているのだろう。


 僕は支度を整えると、ずっとしまい置いていた銃と、銃弾の替えを取って部屋を出た。


 とっくに朝を迎えている時刻であるはずなのに、外には、静まり返った夜の町が広がっていた。


 三日間の明けない夜が、世界をすっかり覆い尽くしている。僕は疲れ切った重い足を引きずり、なくなってしまっている早朝の気配を、なんとなく探しながら歩き続けた。


 いつもの、七時三十分。


 僕は、昨日や一昨日と同じようにして会社へと足を踏み入れた。付けられたばかりの冷房が、ねっとりと絡みつくような埃臭く生温い風の回転を始めていた。


 奥の戸棚の上では、小さな珈琲メーカーが湯気を立てていた。上司はいつものデスク席にいて、朝の光もないブラインドが下りた窓の方を、しげしげと眺めたまま軽く手を振る。


「おはよう」


 入ってきた僕に気付いたのか、目を向けずにそう言ってきた。


「おはようございます」


 僕がそう答えると、歩いてくる僕の足音を聞きながら、上司が「ふんっ」と鼻を鳴らしていつものように勝手に話し出してきた。


「はぁ、面白味もない光景だと思わんかね? ただただ真っ暗だ。おかげで、電気を付けるまでに何度か足をぶつけてしまったよ。君が気を利かせてもっと早く出勤してくれば、私はそんな思いもせずに済んだんだがね。はぁーっ、やれやれ、深夜出勤になったみたいじゃないか」


 上司がそう話す中、僕は銃を構えた。


「まっ、これを言い訳に休みを与えるなんてバカなことはしないがね――」


 そのまま僕は引き金を引いた。二回の発砲音が響いて、銃口から飛び出した銃弾が真っ直ぐ上司の頭部を貫き、頭蓋骨と脳の一部が血飛沫と共に後ろに弾けた。乏しい色彩の社内で、やけに鮮やかな赤が目新しいもののように目を引いた。


 僕は、崩れ落ちた上司の前を通り過ぎると、いつものようにブラインドを開けて朝の一回目のコーヒーを飲んだ。飲みながら開けた窓の外を眺めていると、パトカーの警告音がもう一つ遠くで現れて、じょじょに小さく壊れてゆくのが聞こえた。


 再び町が静かになる。


 しばらく静寂を聞いたのち、コーヒーを飲み終わったタイミングで僕は時刻を確認した。そろそろ出る時間だ。空になった紙コップを捨てると、結局は一人も出勤してこなかった社内を歩き進み、僕はいつも通りの時間、けれどいつもの掃除用具には手をつけず、銃を右手に持ったまま会社を出た。


 外は、朝だというに相変らず冷たくて静かな夜が広がっていた。ツエマチ君達や、その他の大勢の人々のことが脳裏を過ぎったが、騒ぎが始まっているなんて、まるで遠い世界のことのようだった。町は、まだ眠りに落ちて覚める気配がない。

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