第8話

 その時、回想に耽っていた僕を呼ぶ声がした。


「先輩」


 目を向けてみると、ツエマチ君が、心配そうな顔で僕を覗き込んでいる。


「どうかしたんですか? あの、もしかして俺、内容もクーデターだし、やっぱり先輩を辛くさせることを言ってしまったり――」

「いいや、なんでもなんいだよ」


 僕は、記憶を胸にしまって彼を見つめ返した。ツエマチ君は、「そう、ですか」と言葉を濁すと、近付きすぎたことに気付いたかのように、そろりと距離を置いた。


「ずっと報復を望んでいたのに、まだ良心が完全には消えてくれないんです」


 そう切り出した彼が、細い肩をぶるっと震わせて「きっと怖いんでしょうね」と己の震える手を見下ろした。


「いつかはヤってやるって、報復のことばかり考えていた。でも仲間と一緒に武器を集めて、実際にその日を迎えるのをブツを前に想像したら、こ、怖くて……徹底して人間をやめない限り、俺達は結局、人間であることから逃げ出せないんだなぁ、て……」

「そうかもしれない。だから僕達は、もしかしたら気付きたくないから目をそらして、そんなことを考えまいとして自分にも無関心でいようとするのかもしれない」


 僕はそう答えた。


「でもね、ツエマチ君。きっと君は正しいんだ。仲間の多くが許して正当化した行為であったとしても、自らの手で暴力を出そうとすることを怖がる君は、きっと正しい」

「でも先輩、俺はずっとひどいこと考え続けていたんです。にこにこ笑っている間も、いつかはこうやって殺してやるだとか、それで明日には銃を持って突撃するのに……?」


 でも僕は、それを怖いだとかは、もう感じない。


 くしゃりと泣きそうな顔をした彼を、じっと眺めながら僕は思った。君は僕を優しい人だというけれど、君こそ優しいきちんとした人間だよ、と思って彼を見つめていた。


「ツエマチ君。もし、徹底して人間らしさを手放したとしたら、その時、最後に残る醜くておぞましい思考は、歯止めのきかない人間の欲や悪意そのものなんじゃなかろうか。そうしたら君は、君が大切に思っていることすら、きっとよく分からなくなってしまうと思う」


 今の、僕みたいに。


 ツエマチ君は、ちょっとよく分からないというような顔をした。僕の目の中に解答でも探すみたいに、まじまじと見つめてきたかと思ったら、少し照れた少年みたいにして離れた。


「先輩とこんな風に長く喋ったの、なんだかはじめてな気がします」

「そうかもしれないね」

「でも先輩が笑ったのは、ここ四年一度だって見たことがないです」


 僕自身、覚えている限り自分の笑顔を知らないでいた。


「じゃあ、また明日」


 僕か手を軽くあげて挨拶すると、彼のまだ幼さが残る顔に苦笑が浮かんだ。彼は「先輩にはかなわないなぁ」と言いながら頬をかいたのち、「また明日」と返してきた。


「俺、実をいうと、先輩のこと結構好きですよ。あっ、いえ、その、別に変な意味ではなくて、ですね……美人系というか、ああ、そうではなくって! えっと、空気がすごいきれいというか、人として尊敬できるというか……えぇと、その、いつも落ち着いていて、先輩ってすごく大人なんだなぁって……あの! 今度、俺の仲間を紹介しますから」


 彼は目の奥に使命感や正義感を再び灯すと、勇気づけられたように笑い、明日起こす行動に加わらないかといった詳細事項について再び出すことがないまま、最後にそうとだけ告げて道の方へ駆けて行った。


 僕は彼を見送ると、最後の片付けのため自分のロッカーへ向かうべく会社の中へ戻った。冷房の利いた社内には、相変わらず上司が一人だけでいて、明日の業務日程が記された用紙を睨んでいた。


「他の連中はまだか?」


 僕に気付くと、彼は顔を上げて怪訝そうに顔を顰めてきた。恐らくは、夕刻の時間から始まるという「三日間の夜」の、太陽が隠れるという現象を見がてら早く帰りたいのだろう。


「現場まで少し距離がありますからね」


 僕は今日に限ってはとくに早く帰りたい上司に、察しつつそう相槌を打った。ウチの会社には、がたがたと今にも死にそうな音を立てて走る錆だらけのバンが二台あったが、ほとんどの社員は、燃料代をケチる上司の指示で、徒歩で荷物を担いで仕事にあたっている。


 上司は、面白くもなさそうに椅子に背を持たれた。


「ウチの妻達も、地球外交流やら宇宙船やらと騒いでいたがね。あれは地球産のバカデカい巨大住居型宇宙船とやらじゃなかったのか? 惑星関係だと専門家はずっと発表しているわけだが、まぁ、三日間の夜ねぇ。一体どうなることやら」


 彼は曇った窓ガラスから見える、まだ眩しい外へと目をやった。気楽な傍観者達が、彼と同じようにして時々外を眺める様子を思いながら、僕はしばらく立ち尽くしていた。


「お疲れさまでした」


 僕はようやくそう言った。


「ああ、また明日」


 そう上司が上の空で答える。そうそう、明日は多めに君の分の珈琲をいれておいてやろう。夜がしばらくは続くみたいだから、うっかり勘違いして眠くなったりしたら大変だ……


 本当にそうするのかなんなのかも分からない彼の笑い声が、フィルターの向こうから聞こえるように遠く感じた。僕が冗談というやつさえ理解することができず、ぼんやりしていると、上司が「やれやれ」と肩を竦めてこうシメた。


「まあいいさ。君が生真面目な男なのは知ってるよ。今日もお疲れさん」

「はい。お疲れさまでした」


 僕は外へと出ると、静かに扉を閉めた。


           ◆◆◆


 僕の住んでいる部屋は、灰色にくすんだ鉄筋コンクリートの建物の五階にあった。


 建物と建物の間に挟まれた細い物件だ。昔、テナントだった各階を二等分し、数十年前からは六畳一間の住居になっている。傷や汚れの目立つベージュのリノリウムはその名残りで、狭いトイレとキッチンの他には、パイプベッドで精一杯のスペースだった。


 細いベッドマットは、クッションの一部が剥き出しになってすっかり黄ばんでいるが、まだ使えないことはない。もう長いこと、僕はそこにこの部屋にかかっていた古いカーテンを敷いて使っていた。そうすれば寝るのも座るのも、なかなか快適な寝台だった。


 僕は太陽が、巨大な黒いシルエットのようなもので飲まれるかのように隠れていってしまうのを、その岐路の途中で足を止めて見届けた。不思議な光景。その一つしか感想が浮かばなかった。


 部屋に帰った僕は、ベッドに腰かけ、低い位置にある窓をぼんやり眺め過ごした。外は真っ暗で、気付く目を閉じてしまっていて、次に目を開けた時には時計の時刻が少し進んでしまっていた。


 いつものことだけれど、くたびれて帰宅した後はそうやって少し仮眠をとってしまう。どうやら、またしても僕は、ベッドの壁に頭をよりかからせて少し眠ってしまっていた。


 何もしたいことはない。


 でもいつものようにして、受動的に動かされるがままのようにして立ち上がると、僕は夕食をとるべく普段と変わらないメニューでもって支度を整えた。


 床に座り込んで、目の前に広げた「夕食」を食べるべくとりかかる。しばらく時間を置いた保存タイプの固いパンは、水で溶かしただけで味気ない。それを少しずつ口に入れていきながら、動物の干し肉を一枚、小さく噛みちぎってゆっくり噛み砕いて食べる。木の皮のように固いそれは、噛みしめる分だけ動物性タンパクの旨味を口の中に感じた。

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