第7話

「先輩、面白いこと言いますね。でも、そうだな、自分達こそが人間の上に立つ人間だ、と思っているバカな連中が、王様や神様を気取って、自分達がしたくない苦労の全てを、俺達に押し付けて人生を謳歌しているのかもしれませんよ」


 冗談混じりだと言わんばかりに、彼は笑いを装って言っていたが、目はニコリともしていなかった。生きることすら疲弊し、絶望しきった中年の男を思わせた。


 ふい、とそのまま視線をそらされた。彼の目は、どこかぼんやりと遠くを見るばかりで、特定の対象物に焦点が合わされていない。


「寝不足なのかい」


 僕がそう声を掛けると、


「ちょっとだけっス」


 ツエマチ君が、向こうを見つめたまま肩をすくめた。俺は話をたくさんしなければならなかった、そして、それはここ数日激しく続いていたのだ、と、彼は独り言のように呟いた。


 少しの間を置いて、ツエマチ君はまた一人ごとのようにこう続けた。


 しかし、今日はもう話し合いもないだろう。出会い頭に少ない言葉が交わされ、各々のベッドにいつものようにして寝入り、それぞれが自分の定めた時刻に起床する。けれど、そんなには眠れないと思う。俺達は似たような強い予感を持っていて、それは現実が、ガラガラと崩れ落ちて行くのに似ている。夢を見ているようでもあるのに、まるで悟ったような冴えも感じるんだ……


「はじめは、戸惑ってる奴も多かったんですよ。でも、だんだんと分からなくなってきたんです。まるで、誰かに意思を操られて誘導されているんじゃないかって、思っちまうぐらい……」


 ツエマチ君の足元が、一瞬危うげにぐらついた。彼は両腕をだらりとさせたまま足を前後に開き、重心を固定して顎を持ち上げ、僕を見た。


「……人間、きれいなままやっていくには、相当の努力が必要なんだと思います。でも、誰もがもう限界なんですよ。このままが永遠、いや、もうしばらく続くだけでも、俺らは耐えられないと思います。『あいつら』は、俺達が、自分達と同じ人間だってことすら、すっかり忘れちまっているんじゃないですかね。だから俺も、どうでもいいや、っていうか……」


 彼は言い淀んだ。まるで、僕に打ち明けていいのか悩むように、しばらく視線を足元に落として考え込む。


「俺達が同じ人間であることを、奴らに知らしめてやるんです」


 とうとう、ツエマチ君がそう切り出して僕に目を戻した。


「先輩、これ、どういう意味か分かりますか?」


 彼は僕と目が合うと、途端に申し訳ないような、それでいて自信がなくなったかのような、よそよそしい眼差しをした。


「分かるよ」


 僕はそう答えた。胸の奥底に隠され続けた黒い感情は、いつしか我慢の限界を超えて、僕ら人間を耐えられなくする、といった先輩の言葉を思い出していた。


「無理なら、傍観者に回ってくれても大丈夫だと思いますよ。俺、先輩がどんだけいい人で、乱暴な仕草も暴言の一つもしない人だって知っているんで……」


 ツエマチくんは、もごもごと言葉を続けた。


「俺は仲間と一緒に、ただこの町の警察を潰していくだけです。警察だけじゃない。警備だとか、管理だとか、俺達をさんざん痛めつけて愉しんできた連中に、今こそ報復してやるんです」


 知っていますか先輩? 俺らの生きる世界は、とっても醜くて汚いんですよ。優しくて誰よりも人間として立派だった子が、親無しだから人権なんて関係ないと言われて、のうのうと普段はデスクに座っている奴らに、いいように強姦されて、飽きると口封じのために平気で殺されていく現実を――。


 語るツエマチくんの拳は、固く握りしめられて震えていた。歪んだ笑みは、強い怒りを完全には抑えきれていなかった。僕は気付いて尋ねた。


「その子は、君の大切な子だったのかい?」


 すると、彼は一瞬固唾を飲んで、それからコクンと頷いてみせた。


「同じ施設を出た俺達は、血は繋がっていないけど兄弟で、彼女達は、俺達にとってみんな可愛い妹達でした」

「僕にも大切な人がいたよ」


 そう答えた僕自身以上に、ツエマチ君が驚いたようにパッと目を向けてきた。普段あまりしゃべらない僕が、こうやって自分のことを話すのは滅多になかったからだろう。


 僕は彼の話を聞いていて、唐突に、母親やカナミ先輩のことが脳裡を過ぎったのだ。そうして今更になって、僕は、彼らがとても好きだったことを思い出した。


 必死に神様に祈っていたこともあった。母さんの病気を治して下さい、どうか先輩を助けて下さい、僕のもとから遠くへ連れて行かないで下さい、と……それなのに、これまで僕はずっと忘れてしまっていたのだ。


 ぎしり、と胸の奥で歯車が重く動く音を聞いた気がした。ああ、と、吐息をもらして空を見上げる僅かな動作だけで、身体がぎしり、ぎしりと軋みを上げるかのようだった。


 こんな風になってしまったのは、いつからだったろう。


 誰かに対して親しくしたいという気持ちを、僕は初めて先輩に持っていたのだ。


 僕は先輩であるカナミさんと、約二年を過ごした。彼はいつまで経っても、どこかあどけなさの残るきれいな顔をしていた。肌の色が白くて、それでも紳士という言葉が似合うほどすらりとした身体は立派な青年のもので、ぼくは彼のような大人になりたいと願いながら、二十歳を迎えた。


 そう二十歳、二十歳だった……僕は、思わず口の中にこぼしてしまっていた。あ、と遅れた気付いたものの、ツエマチ君を見てみれば、一人想い耽って気付かないでいる。


 そういえば、彼はカナミさんのことを知らないのだ。誰よりも慈愛に溢れた微笑みを浮かべたカナミさんを見たら、きっとツエマチ君も一目で好きになっていただろう。僕と同じようにその背を追いかけて、今のぼくを慕ってくれているように、愛想よく「先輩」と声をかけて他愛のない話を持ち掛けたりして……。


 当時、僕は何も知らなかったんだ。結局は、カナミさんの背負っている一つさえも、一緒に背負ってやれなかった。


 カナミ先輩は、いつでも微笑んでいた。弟を見つめるような温かさは優しさだったり、少し寂しげだったり、心配するようだったり。そのどれもが柔らかで、人間らしい感情に満ちていた。


 二十歳のあの日、僕は、何か理由があって予定外のタイミングで会社に戻った。その前後にどんな行動理由があったのか、数年経ってしまった今はもう覚えていない。ただ上司に叱られたくないことばかりを憂鬱に考え、どうか彼がいませんように、と二十歳になりたての子供心でそぉっと扉を開けたのだ。


 曇った窓ガラスはブラインドが下ろされていて、室内は薄暗くなっていたのを覚えている。けれど冷房がよく効いていて、外の熱気が一気に拭われ、ぞっとするほど冷たくも感じた。


 ぶぅーん、と耳障りな冷房機の稼働音の中で、二つのくぐもった物音が低く響いていた。それが一体何なのか、僕はしばらく分からなかった。


 苦痛と快楽の間で揺れるカナミさんの押し殺した泣き声と、彼を愉しげに罵りながら上機嫌に喘ぐ上司の声。そこから僕の記憶は更に曖昧になるが、外の熱気で浮かんだ汗の粒が頬を伝う中、積み上げられた段ボール箱の向こうに、カナミさんの悲痛な顔がちらりと覗いていたのだ。


 それを目に留めた瞬間、胸の中で得体の知れない感情が爆発して、同時に足がすくんで動けなくなった。けれど熱くなった股間の痛みは膨張し、僕は耐えられずそこから逃げ出したのだ。走って、走って、走り続けても熱は収まらず、気付けば僕は、泣きながら町の建物の影を一人で歩いていた。

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