第6話

「先輩の部屋には、テレビありますか?」


 そうツエマチ君が訊く。僕は「ないよ」と答えてこう続けた。


 でもお客さんの部屋ではずっとその話題ばかり流れていたし、食堂でもどこでも、設置されたテレビでは、いつも三日間の夜の話とかで持ち切りだったからね。それに、たいていの人が噂しているから……。


 だから報道されている内容は知っているのだと、僕は述べた。すると、


「ただ夜が続いて、そのあと新しい時代が始まるなんて呑気ぶるのは、大間違いじゃないスかね?」


 不意に、彼が形のいい引き締まった唇の角を、くいっと持ち上げて言った。


「新しい時代が始まるなんて言っているけど、どうせ俺らを除くってところでしょ。ここの連中は、誰一人そう思っちゃいないです、本当は世界なんて次こそ終わっちまうんだ。テレビの向こうはどうか知らないけど、俺達にしてみれば、あっちは何もかも夢物語っスよ。繰り返し見せつけられる、ドラマや映画なんかの延長線だ。ここに立って辺りを見回すと、まるで朽ちた世界の中心にいるような気がしませんか? 平面のテレビ画面ではなく、やっぱりこの目に映るものこそが、俺達の現実なんです」


 ツエマチくんは、皮肉に歪んだ笑みを浮かべた。けれど、今にも泣きそうな顔がそこにはあった。


「だって、そうでしょう? こんなの理不尽ですよ。誰が俺達を守ってくれるんですか? どうして、テレビの向こうの連中は何もしてくれないんですか? 必死に生きて、足掻いて、頑張って、それでいつか幸せになれるなんて保証してくれるような希望すら俺達からは遠いのに、テレビに映る世界は、皆で助け合おうって微笑んで、幸せな家庭がいくつもあって、捨てられる子供なんていなくて……」


 彼は声を震わせ、言葉を切った。


 込み上げる激しい感情を抑えているのだろう。ツエマチ君の顔に浮かんでいたのは、強がる笑顔と、隠しきれない困惑、そして絶望を受けとめなければならなくなった人間の眼差しだった。


 それは僕が、これまで考えたこともなかった『未来』の話だった。けれど僕は彼の言葉の中で、一つだけ、自然と受け入れられる考えがあった。


 そうか、これまでの僕と同じように、みんなテレビに映る世界に違和感を覚えていたのか。画面から伝わる全ては、最下層の人間として生きる僕らにとっては、結局のところは全て嘘のような別世界の話で、結局のところ、僕らにとっては『ここ』だけが本物の現実で。


 ああ、僕らは何か大きな秘密を隠されたまま、朽ちていく世界の真ん中に立っているのかもしれない。


 大昔に世間を騒がせたという世紀末も、結局は起こらなくて、いくつもの過去が風化して旧市街地はすっかり寂れてしまったのは事実だった。少し前の都が、大きな計画のもと、莫大な予算を投じて別の土地へ移されたように、災害を見越した政府は旧市街地を残して、新しい土地へと逃げ出していったのだ。


 見捨てられたこの大きな町は、電力をあまり多く使わない旧式タイプの電車が、今も短い路線を残して稼働しているばかりだった。始発から終点まで、代わり映えのない荒廃した土地が続く。稼ぎもないので、僕はその先にある夢物語のような世界を見たことはない。


 テレビに映る自国は、清潔で美しかった。そこには僕らの町にはない全てが、何もかも揃っているかのようだった。


 無法地帯のような旧市街十三区では、これまで流行り病があり、大小様々な暴動もあって、毎日のように犯罪が起こり武器や人間の売買もあった。けれど、そんなことでは生き続けられないと悟った誰かがいて、暗黙のルールのようにして、今の静かな暮らしが定着していったのだ。子供が増えれば食べ物にも困るから、そういったことは次第に謙遜すらされていった。


 僕の母親は、幼い頃に過労と栄養失調で死んだ。


 あの時、僕自身がどういう行動をとったのかは、もうよくは覚えていない。


 当時の記憶はおぼろげで、ほとんど欠けてしまっていた。父親は初めから知らない。孤児院で働かせてもらいながら衣食住の世話になり、外で稼げるようになってから、今の職場近くのアパートの一室を借りたのだ。


 そうやってこれまでを振り返ってみた僕は、もう一つの違和感に気付いた。なんだか、思い出すぼくの過去の残像すら、別の世界の延長線みたいだなあと思う。


 過去の僕の道筋は曖昧で、そうして十八歳から清掃会社で働いてからのことさえも、まるで現実味がないように感じた。


「先輩、世界が本物だとか、偽物だとか、結局はどっちだっていいんですよ……同じように続く毎日に、ようやく一つの変化がやってきて、それだけで皆、もうじゅうぶんなんだと思います」


 ツエマチ君が、ぼんやりと遠くを見やってそう言った。


「果てのない毎日の延長線に、ポンッと終わりがやってくる。いや、もしかしたら本当は世界の終わりが半分は完了してしまっていて、ここが、本来あるべき今の世界の姿なのかもしれない」


 僕は、そうかもしれないな、なんて思った。テレビの向こうは作られた世界で、本当は、もうどこかしこも、ほとんどここと変わらない酷い町々が続いているのかもしれない、と。


「俺達は、終わりかけた世界の真ん中で、モニターの中に儚く消えてしまった未来を見ているんスよ。この世界には、きっともう、素晴らしい場所なんて一つも残っていやしない。誰かが裏で大きな陰謀を引いて、俺達全員を騙しているんだ」

「そうすることで、誰が一体どんな得をするんだろうね」


 僕がそう尋ねてやると、ツエマチ君は「ははっ」と乾いた笑みをもらし、鼻の上にくしゃりと皺を刻んだ。

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