第5話

 お客様からの評判がいい会社ではあったけれど、社長であり、僕らの上司である彼を好く部下は一人もいなかった。


 彼は普段から日常的に、個人的な苛立ちも躊躇うことなく職場で発散した。冷房の効いた社内で暇をもてあましながら、その時間を潰すために疑い深い眼差しで目敏くも説教のネタを探し、自分が偉い人間なのだと、何度も確認することで優越を楽しむ人間だった。


「困るんだよね、これぐらい気が利いてもらわなくちゃ、さ」


 僕が会社に戻るなり目だけ投げ寄越して、ロッカーに掃除道具をしまい始めた僕を見つめながら、上司は勿体ぶるような吐息と共に切り出した。


「君、もう何年ここで働いていると思っているの。社員の中では、二番目か三番目か、はたまた四番目ぐらいには古いだろう? ここは君の会社でもあり職場でもあるんだから、目につくゴミを拾って、バラけた消耗品の箱をちょいと直すぐらい、そんなに時間がかかることでもないと思うのだが、どうだろうか? 私は、何か間違ったことを言ったかね? ん?」


 ぼくは、すみません、と謝った。汚れの目立つリノリウムに目をやるが、ゴミは見当たらない。


「違うよ、もうちょっと先の、そら、その後ろだ」


 追って投げられた上司の声に、指示の通りに視線を動かせると、ぐしゃりと丸められたメモ用紙があった。いつも彼が電話を受け取った際、手元に引き寄せている灰色の罫線が薄く引かれている用紙だ。


 そういったものが転がっているのは、珍しいことでもない。僕らの上司は、欲望に忠実な人間なので、思い通りにならなかったり、ちょっとしたことでも機嫌を損ねた。


 そういう時は大抵、手元にあるものを、ぐしゃぐしゃにして放り投げたり、消耗品の入ったダンボールを短く太い足で蹴ったりする。部下を叱って鬱憤を晴らし、そうして自宅にはいい顔をして戻る。――いつも柔和な笑顔で彼の機嫌を直させていたのは、亡きカナミ先輩だっけ、と僕はぼんやり思い出した。


「次からは気を使ってくれよ。こんなんだから、いい後輩も育たないんだよ。皆が君の悪影響を受けるとは限らないが、以前は、もっと早くいい社員教育が出来たんだよ。あの頃は、本当にいいメンバーが揃っていた。全く、新時代が来るとか来ないだとかは知らないけど、これで人間まで良くなれば、文句もないんだけどねえ」


 彼は座り心地のいい椅子にゆったりと寛いだ格好のまま、出た腹の上で手を組んで愚痴を続けた。僕は片付け作業に戻りつつ「すみません」と相槌を打ち、それから何度か頷いて「すみません」と返したあと、汚れた雑巾などを抱えて外の水道で洗ってくることを告げた。


 上司は、なんでもないさ、といい加減な具合で片手をひらひらとさせた。


「別に、私は君だけに注意しているわけではないからね。先輩社員として、しっかりやっていくように、という励ましもあるわけだよ。分かるね? 君が真面目で仕事熱心なのは、上司としてちゃあんと知っているつもりだからね」


 大好きな暇を抱えた上司は、僕が扉を閉める直前までそんなことを言っていた。


            ◆◆◆


 同僚のツエマチくんが戻って来たのは、僕がビルの横にある水道で雑巾を洗っている時だった。


 逆立ったオレンジ頭が見えたので振り返ると、彼が無邪気に「やっほー!」と手を振っていた。両手には、掃除道具ではなく袋を抱えている。恐らくは体力が有り余っているので、またしても上司に、ちょっとした小遣いをもらって買い出しにやられていたのだろう。


 小柄で細い体躯をした彼は、まだ二十歳そこそこで、顔にはまだあどけなさが残っている。孤児院の出身で、この仕事を始めて四年。他にもいくつかちょっとした仕事を掛け持っていて、孤児院の上の階にある部屋の一つを賃貸し、現在は十数匹の野良猫と暮らしているのだとか。彼は、まるで子犬か猫のように人懐っこい性格で、誰にでも好かれた。


 ツエマチくんは、ウインクを残して一度社内へと消えた。僕が雑巾を干し始めて間もないうちに、早々と出てきた。


「ふう、おっかねえ上司! 先輩のところに行く前に、あやうく説教を延々と聞かされるところでした」

「何かやったの?」


 手元を見つめながら尋ねた僕に、彼は「いんや」と首を横に振って見せた。


「いつものアレっすよ、人間が出来る出来ないの年頃から意識を持って頑張れば、俺みたいなアホでも、素晴らしい人間になれる、とかいう胡散臭いやつ。ほんと、我らが上司は、嫌なお喋りを極めてますなあ」


 ツエマチくんは、世界の法則が解けたわけでもないのに、そんな顔をして「ふむふむ」と自身の言葉に納得したのように頷いて見せた。けれどすぐ、ふと彼から無邪気さが消える。


「ま、別にいいんですけどね」


 一つの空白が、沈黙となって僕らの間を流れていった。


 雑巾を干し終わった僕は、ツエマチくんに目を向けた。彼の無感情な瞳が、何かを切り捨てるかのように、ゆっくりと宙を横切ってゆく。


「ああ、それにしても、暑いっすねえ」


 年頃の、好奇心が宿った目で、ツエマチくんがこっちを見てそう言った。


 空を見てくださいよ、と指を向けられた僕は、ビルの影から彼と一緒に空を見上げた。薄いヴェールの霧につつまれたような青だ。現実味もはっきりとしないような、曖昧な距離感を覚える空が、そこには広がっている。


「知っていると思いますけど、三日間の夜、ってやつが始まるらしいんスよ。世界が変わるんだとか、なんとか……。でも、なんだかテレビの向こうは、俺達とは違う世界みたいですよね。俺、バカだからうまく言えないんスけど、なんだろ、テレビ画面の向こうに新しいドラマか映画を見ている感じで」


 と、ツエマチ君が僕へ目を戻した。

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