第4話

 僕が掃除する脇で、半分眠りから覚めたカップルがいちゃつき始めた。以前、僕に仕事を教えてくれた先輩が、廃墟と化した旧市街地には二つの人間がいるんだと言ったことを、僕はなんとなく思い出した。



――ここには、耐えることを拒絶して放棄する奴と、耐えて我慢して生きていく奴がいる。だけど、お前はどうなんだろうなあ……



 あの時、先輩はどこか気にかけるような声で、そう言っていた。


 希望も夢もなくなった時代が悪いのだと言っていた人もいた。いつの間にか喜怒哀楽を胸の奥底にしまい込み過ぎて、己が持っているはずの欲だとか意思だとかも、すっかり忘れてしまうのだそうだ。そうして、次第に思考も鈍くなっていく。


 僕らの職場の最年長だったヨシダさんも、必死で働いていた昔の時代があったのが羨ましいと愚痴っていたことを、僕は手を動かしながら思い出していた。彼は自殺する前、見捨てられたこの町で生きる僕らは、まるで生きた亡霊であると言った。



――お前らは怒りを覚えないのか、ワシは、ワシは奴らの奴隷じゃないんだぞ! ワシらは人間だ。あの机でふんぞり返っている上司と同じ『人間』なんだ!



 僕は、速やかに流し台とトイレの掃除も終えた。その時、若いカップルの男の方が、自分の太腿に乗せている女に向かってこう言った。


「なあ、世界が劇的に変わるってマジ? 楽しくなるって聞いたんだけど」

「えすえふチックだよね~。面白いものが、ゴロゴロ見られるって皆言ってたよ。ゆーふぉーとか、マジウケるんですけど」

「この辺もさ、すげぇ都会に生まれ変わるとかなんとか、そういや誰かが言ってなかったっけ?」

「それ、もうアニメか映画じゃん。チョー笑える」


 そのまま絡められた二人の薄い唇が、開けられた曇りガラスの窓からの日差しに、ぬらりと光った。


 細すぎる女の剥き出しの肩から、大きく反った腰がエロティックな曲線を浮かび上がらせていた。突き出された小さな尻を隠すばかりの短パンは、薄い生地越しに肌を感じさせて、そこを男が撫でるたび彼女が悦ぶのが僕にも分かった。


 ふと、男と目が合った。彼のつり上がった一重の瞳が、嫌悪感に細められる。


「何見てんだよ。さっさと風呂場の掃除に行けよ」


 僕は、すみません、と謝って掃除道具を手に浴室へと向かった。反らせた腰を突き出したまま、懸命にせがんで揺れ動く女の尻を、男が今度は直に手を入れるのがちらりと見えた。


 吐き気が込み上げて、僕は半ば駆けるように浴室に逃げ込んだ。自分のズボンの前チャックを突き上げたそれを見た途端、全身に嫌悪感が走った。


 汚らしい、汚らしい、なんて汚らしいんだろう、僕らは。


 けれど、何も感じないことは確かに楽なのだ。――僕のそこは、その一呼吸で一瞬にして力を失っていった。


             ◆◆◆


「へえ、性欲がないの?」


 昔、この仕事に入りたての頃、僕には指導にあたってくれた誰よりも親身な先輩が一人いた。


 僕より一つ年上で、十六歳の頃からこの会社で働いていたカナミさんだ。愛想が良くて、仕事を片付けていくのも速くて、高い料金を払う顧客を一番多く持っていた社員だった。


 彼は、幼い頃からの小遣い稼ぎの癖が身体に染みているのか、どちらの性別に対しても快楽を与えられる人間だった。彼はあの時、面白半分で僕のものをズボン越しに触ったが、しばらくすると「ごめんよ」と言って手を離していった。


「お前が、『人として何も感じないことが欠点かも』って言うからさ。そんなことないよって証明してやるつもりだったんだけど、出来なかったな……ごめん」


 彼が謝ることは何もなかったのに、カナミさんは同情するような視線を寄越し、どこか寂しげに笑った。


 ああ、彼は心底いい人なんだ、と僕はそれだけで分かってしまった。心が無いなんて寂しいし、悲しいよ――彼はそう言って、はかなげに微笑んだのだ。


「人としての心が何処にあるのか、知ってる?」

「こころ、ですか? ……多分、きっと、僕には分からないと思います」


 僕が、考えてすぐに肩を落としてそう答えたら、カナミさんは「ははっ」と笑って、指を向けてこう教えてきた。


「心ってのは、時には頭だったり、胸だったり、足だったり、手にあったりするんだ」


 いい加減なこと言ってませんか、と僕が疑ってまじまじと見つめながら尋ねると、彼は一瞬きょとんとして、それから子供みたいな気取らない顔で笑った。


「俺はね、今の質問には、もうちょっとリアクションがあってもいいと思うんだよね。そうだなあ、お前ってさ、実はとんでもなく真面目かもしれない。きっと大人として歪んでしまいたくないから、奥底に心をすっかり隠してしまったのじゃあないかなぁ」


 でもね、とカナミさんは別の日に、唐突にこうも言った。


「知らない振りをして隠しておくことも、生きるためには必要だと思うよ。きっと俺達は、優しさや愛と一緒に、心の中にたくさんの悪意だって育て続けているんだ。きっとそいつは、人間として、いつか俺達を耐えられなくするんだろうね」


 先輩は善人過ぎて、そして優しかった。辛さを堪えるような笑みを見せ始めてから、しばらくもしないうちに、彼は自分が担当する八階建てのビルから飛び降りた。耐えられるうちに、とだけ書かれた遺言が、僕のロッカーに残されていた。


 それから、何人もの人間が、同じようにして『死』や『失踪』や『事故』で入れ替わっていったが、僕の勤める清掃会社の業務は大きな変化もなく続いた。上司はずっとタバナさんのままだったし、それぞれの掃除道具が入れられた十八人分のロッカーも変わらなかった。


 ビルの一階にある清掃会社には、相変わらず、上司の机と応接間じみたテーブルとソファのセットが窮屈そうに置かれている。錆び付いた縦長のロッカーが十八個連なっていて、これまでの業務日誌や書類が入れられた茶封筒や、分厚いファイルの棚がスペースを取り、掃除道具の消耗品が箱に入ったまま周囲に積み上げられている。


 旧市街地では珍しいことではないか、この地区にあるのはほとんどが個人企業だ。僕らの上司は、妻と子を持つ『タバナさん』で、頭部中央にはすっかり肌が覗いている。ふっくらとした顔、膨れた鼻の上には、広い額や頭部のてっぺん以上に油がのっていた。


 彼は多分、商の才能があったのだろう。誰かのために指一本動かすことも毛嫌うくせに、他人をこき使うのは上手かった。それでいて、お客を捕まえることにスイッチが切り替わると、途端に人の好きそうな物腰の柔らかい中年男になって「やあ、これはどうも」と饒舌に話しを持ちかけるのだ。


 僕らの清掃のアルバイトなんて給料もたかが知れているが、彼が儲けているのは明らかだった。会社は面積の狭い古いビルの一階のままだったが、上司はいつも皺のない白いシャツを着て、上質なベストを着用し、この地区でなかなか販売店の少ない立派なスーツに身を包む。


 車は錆一つなく走行音も静かで、彼は塵や汗臭い匂いとも無縁だった。強烈な香水の匂いは、社内の古臭い建物や備品の匂いすら曖昧になるほど、僕らの鼻先を痺れさせた。

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