第2話
十三区もある僕らの町では、どんなことも仕事になる。
たとえば靴を磨いたり、飼い主のかわりにペットの散歩に行ったり。赤子のオムツやゲロだけを片付ける仕事だけでなく、毎朝の起床を手伝うベル・チルドレンだってあった。
当たり前のように義務教育を受け、住んでいる場所に関係なく大学に進学し、遊ぶ暇もあったなんて時代は、とうに昔のことだ。旧市街区には、確かに政府が救済とする総合学校があるけれど、仕事の合間に顔を出すだけで卒業資格が与えられるというずさんなものだった。
そこには、政府から派遣されるずだった職員なんて一人もいない。教育の専門家達は、今や国にとって貴重で数も少なく――もうそこから既に差別化がされていて、僕らは卒業すると『最下層の人間』という認定を持たされて世に送り出されるようなものだった。
清掃業の勤務歴八年、今年二十六歳になる僕が担当しているアパートD棟は、中央に細長い階段をもった物件だ。狭い階段を挟んで、各階に二つある部屋の玄関が向かい合っている。劣化したコンクリートは黒ずみ、窓枠が残っている階段は、いつも薄暗かった。
僕の仕事は、午前七時三十分に会社へ出勤することから始まる。勤務の行動開始は午前八時ぴったりで、それまでにブラインドを開けたりと社内の整理整頓と軽い掃除を行い、それから時間になると仕事道具をかついで、徒歩五分の場所にある担当物件へと足を運んだ。
アパートD棟には、六台分が停められる駐車場があった。所々錆がある軽自動車が二台停まっているだけで、いつもがらんとして殺風景だ。
まずはそこで、風で運ばれてきた落ち葉や塵を簡単に集める作業にとりかかる。ひび割れたコンクリートにある緑や黒の苔は、月に一回落とすとして階段も同様にスピード感をもって進める。何故なら、お客様の部屋の掃除を丁寧に、時間をかけてしっかり行うことがメインであって、外には体力や時間をかけないものだったからだ。
最近は雨が降らないせいか、駐車場の苔は茶色く黒ずんでいた。過ぎ去った夏の残り熱が立ち込めていて、微量ながら吹く風が汗の浮かんだ全身に涼しく感じられるのが、せめてもの救いだった。
その駐車場と階段の少ないゴミを袋にしまったあと、僕は鬱々と各部屋の掃除にとりかかった。
一階の一号室には、かなり太った婦人と、彼女によく似た息子が一人いる。キッチンと狭いリビング、両親と子供用に二つの寝室兼個室が狭い面積には詰められてあった。
室内の至るところに保存食や食糧が置かれていて、大量の服や私物が積み上げられ整理も付かない部屋だった。けれど、それを脇へ押しやって、どうにか片付いて見えるように工夫して床を掃除するのが、僕の役目だった。
「きちんとやってくれなきゃ困るのよねえ」
その婦人は、古風な三流映画さながらの気取った喋り方をした。盛り上がった頬の間にある小さく膨れた赤い唇は、いつも油が乗ったようにぬめぬめと光っている。
実際、厚い唇を、冷めたフライドホテトや油菓子で照らつかせていたのは、彼女の十歳の息子の方だったが、僕にはその婦人にも強くそんな印象を抱いていた。室内が熱に蒸された食品のような匂いで充満していたせいかもしれない。
彼女は、まあまあいい暮らしをしていた。夫の収入が僕らよりきちんとあるせいか、住みどころや部屋は小さくとも、衣食に関して全く苦労を知らないように見えた。
汚い部屋の中で、体系や年齢に不似合いな上品なワンピースドレスに身を包み、早朝からメイクも耳飾りも真珠のネックレスも忘れなかった。身を着飾ることや十分な食べ物、苦労のない生活がご自慢で、その優越感から毎日僕にあれやこれやと言うを楽しみにしていた。
「安い賃金の仕事なのは分かりますけどね。そりゃあ、次の仕事だって待っているかもしれないけれど、そういう、きちんとやらない、というのが一番困ると思うの。見落としたのかなんなのか、とにかく、虫が群がっているのを見た時は、もう本当に驚いてしまったわ。まだ手を付けていない食べ物の一部もやられてしまって、ほんと、どうしてくれるのかしらねえ」
それは躾のなっていないデブの野ネズミと、ろくでなしの息子が、僕が掃除する横から菓子屑を落としていくのだから仕方がない。彼らはそうやって食べることを止めないまま傍観し続け、掃除する僕のあとを黙々と追い回すのだ。
いつも僕が移動するたびに、先頭から大、中、小の列が出来る。
ぼてぼてに太ったネズミは、本当に元残飯食いのネズミだったのかと疑うほど、もちもちとしたお腹といったふてぶてしい身体付きをしているし、ほんと飼い主である息子にそっくりだった。僕は彼らを見るたび、一度も目にしたことがない、この家の主人をありありと想像したりした。
婦人は今日も、いつも通り柔和な口調で愚痴を言い続け、最後は丸く収めるような暖かい言葉で取り繕った。
「うふふ。あなたがねぇ、いつも頑張ってくれているのは知っているのよぉ? 今日も本当にありがとう。でもね、次からはこんなミスがないようにね」
毎日これの繰り返しだった。いつもなら、これで終了して掃除が終わるまで再びの会話はない。しかし――
「三日間の夜をご存知ですか」
そう僕が珍しく質問すると、彼女は小さな目を丸くして、後ろにいる息子と彼のネズミを見た。僕は世間話はおろか、形式上の少ないやりとりをするばかりで滅多に口をきかない性質だったからだ。
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