20. 味方と前に、前に

12月28日

 日野さんに車椅子を押されながらMRI検査室に向かう。

「検査室に入る前に、金属のものとかはない?」

「はい、持っていません。」

「インプラントとかもないね?」

「ないです。」

「それじゃ、中に入りますよ。立てる?」

「はい。」

「ごめんね、車椅子のまま機械に近づくと、金属だから吸い込まれちゃうの。」

「ここに入っているものは?」

「大丈夫です。MRIには問題ない材質です。」

「そうですか。」

 車椅子から立ち上がって、検査台まで歩いて行って、横になる。耳栓を渡されて耳に入れる。それから、頭を発泡スチロール製のような枠に固定される。

「狭い空間なので、途中で気分が悪くなってしまうことがあるので、気分が悪くなったらガマンしないでこのボタンで知らせてくださいね。検査時間は順調に行って15分くらいです。」

 検査台が上に動いて、トンネルの中に動いていく。


 あ・・・これは思ったよりも狭いな・・・。

 機械が回転するような、音がして、大きい音が鳴り響く。雑音とも取れるが、結構な圧迫感のある音と内部、白い壁が迫ってくるような感覚。

 何分経ったかわからないころ、検査のためには必要なことだから、という精神力よりも、まだかな、早く出たいなという気持ちが勝ってきて、とうとう、冷汗が出てきた。ダメだ気持ち悪い・・・。無理だ。


 もうちょっとなんだろうなぁ・・・。私って弱くてダメなヤツだな・・・。と自分に幻滅しながらボタンを押すと、機械が止まって静かになって、日野さんが検査室のドアを開けて、急いでやってきた。

「いま動かしますよ。」

「ごめんなさい。」

 私はボロボロ涙を流して、

「すみません、ちょっとトイレに・・・」

 抱えられながら、

「横にならなくて大丈夫?」

「いや、そうじゃなくて、吐きそう・・・」

 じゃあ、車椅子、といった感じで車椅子に乗せられる私。日野さんは急ぎ足でトイレに私を運び込む。

「すみません、ちょっと恥ずかしいので、、、」

「うん、大丈夫だよ。スッキリしたら出ておいで。」

 オストメイト用のところに停めてもらって、ウッと胃の中身を全部吐き出してしまった。そのうち、胃が空っぽになって、胃液しか出なくなっても、胃を裏返されるように吐き気が止まらず、しばらくトイレに籠った。

 なんで?なんで?と自分の体が意味の分からない反応をしていることに驚いたのと、意味の分からない悔しさで涙が止まらなかった。

 私にしてみれば何十分か籠っていたつもりだったが、そろそろ出ないと、と顔面蒼白のまま引き戸を開けて車椅子を漕いで出る。看護師さんが出口のところで待っていてくれた。

「この検査、もっと楽になりませんか・・・」

「親御さんからは鎮静剤の使用許可はもらっているけど、永野さんはどうしたいですか。鎮静剤を使うと何時間かは眠ったようになってしまいますが。」

「ハイ、、、自信がないので・・・お願いします。」

 検査技師の人にもごめんなさい、と何度も頭を下げて、気にしない気にしないと優しい言葉をもらって、また検査台に横になる。鎮静剤を持ってきた日野さんは、別の看護師さんと瓶に書かれた薬品名と用量を確認しあって、私の手の甲の管から、それじゃあ注射しますね。と言って鎮静剤を流し込む。

 数分で私の意識は朦朧となって、眠りに落ちた。


 気がついたときには自分の病室のベッドにいた。

 今何時かな?とスマホを探す。左側にある台に手を伸ばすと

「千早、おはよう。おかえり」

「彩」

「気分はどう?」

「うん、最悪・・・」

「センセ曰く、白い内部が雪の中に見えたんじゃないかって。」

「ああ・・・。」

「千早、お昼ご飯どうする?」

「うん・・・要らないかも・・・、それより、彩、そばに来て・・・」

「いいよ。」

 彩は私の枕元に腰かけて、ゆっくり私の頭を撫でる。とても心地がいい。

「検査結果、どうだったのかな」

「今、結果を聞いているらしいよ。自分ではどう思う?」

「なんでもないと思う。」

「なら大丈夫じゃない?」

「私、ダメだね。あの時も今日も。」

 私は左腕で目を隠す。

「大丈夫だって、今回のは、あっちに渡りかけたんだから仕方ないって。」


 それから、しばらく経って父と母と医者が入ってきた。

 医者は検査結果は大丈夫です、問題ありませんと言って、ついでに鎖骨の様子も検査して、整形外科医の方からも順調ですと連絡をもらっていますと言った。そろそろ骨折したところに痛みが出てくるかもしれないらしい。

 これは壊れた組織に血が集まってくることによるもので、異常ではないとのことだ。

 今後の治療方針とスポーツをしているから、リハビリも必要だろうということで、退院が見えてきたら理学療法も受けようという方針も示された。説明が一通り終わって、親たちは仕事がまだあるから、また来るねと言って帰っていった。


 そういえば、1月10日の大会は無理そうだなぁ。連絡しておかなきゃいけない。

「彩、ちょっとスマホを取ってくれる?」

「うん、いいよ。」

 体を起こし、テーブルの上にスマホを置く。

「ちょっと電話するから。」

 右手が使えないと不便だなと思いながら、電話帳を開いて赤磐さんの番号を出して通話ボタンを押してから左耳に当てる。


「ハイ 赤磐です。」

「すみません、年末のお忙しい時に。永野です。」

「いいえ、大丈夫よ。どうかした?」

「あの、10日の大会なんですけど、ちょっと鎖骨を折りまして・・・」

「あらら、大丈夫なの?」

「はい、1月下旬までには泳げるようになるとは思います。それまでちょっとお休みしますので。」

「うん、わかったよ~。どこの病院にいるの?」

「東城崎の赤十字です。」

「あそこか~。わかったよ~。落ち着いたらお見舞いに行くね。」

「いえ、気を使わないでください。」

「いいから、いいから。」

「とりあえず、そんなことでよろしくお願いします。」

「お大事にね。」

「ありがとうございます。良いお年を。」

「うん。それじゃあね。」


 電話を切ってテーブルの上にカタンとスマホを置く。

「そっか。10日復帰戦だったもんね。」

「うん。最悪・・・」

「まだ出るなってことだったのかもよ?」

「彩は?年明けに大会あるんじゃないの?」

「駅伝とかじゃないから、春までないよ。トレーニングのために千早のお見舞いには、隣の駅から走って来てるのさ。」

「そうなんだ。」

「そういえば千早、あの件はどうするの?」

「あの件?」

「ほら、スポーツ推薦あげるかも?みたいなアレ。」

「あー、それか・・・。今度の大会のタイムで決めようと思ってたんだ・・・。1分10秒切れたら受けようって。」

「なんと・・・」

「どうしよう、一度学校に行って、先生に話さないと。」

「明日で公務員は御用納めだよ。わかった。先生にはそれを伝えておくよ。でも、千早の名前は知らせるかどうかっていうのは、どうするの?」

「それも、今度の大会で」

「ダメだよ、後出しは。ケガしたけど見てろよ!っていう気持ちになれない?」


 私はハッとして、太陽が傾き始めた外の景色を眺める。

「だよね、やっぱり後回しはズルいよね。」

「うん。やろう。私、千早と一緒にいたいんだ。ね?」

「でも、あそこ、彩のもらっている推薦枠の学校の中でも一番高いところじゃないでしょ。」

「そうだけど、あそこは、長居競技場やウチらの思い出の場所に一番近いところ。」

「そんなことで決めちゃったら、私、申し訳ないよ・・・」

「いいって。ね?一緒にがんばろうよ。」


 冬至を過ぎて少し経った今日、日の入りは16:12だが、もうすぐ暗くなる。

「明日、学校に寄ってからここに来るね?」

「うん。」

「大丈夫。」


12月29日

 学校に電話をしたら、瀧川先生も佐藤先生も午前中はいる、ということで急いで学校に向かった。

 職員室に入ると、佐藤先生に声をかける。

「佐藤先生、時間を作ってくれてありがとうございます。」

「いいよ~、大阪の大学の件かい?」

「そうなんですけど、瀧川先生と一緒に話がしたくて。」

「そうか。進路指導室にいるかな?ちょっと電話してみる。」

 内線電話を取って、進路指導室にいると返事をもらったようだ。

「それじゃ、行こうか。」

 進路指導室に入ると、奥に瀧川先生と佐藤先生が座って、ウチが手前に座った。

「で、話というのは。」

「千早から、何か返事はもらっていますか?」

「永野からはまだ、だな。瀧川先生、もらってる?」

「いいえ、私もまだです。」

「その、実は千早、この前の落雪事故に巻き込まれていてケガをしてしまったんです」

「あー、あの事故、そうだったのか。」

「それで、千早は西城崎のスイミングチームに入って、来年早々にある大会であの話をどうするか決めるつもりだったらしいんですけど、また千早の気持ちが揺れてしまっているので、どうか、後押しをしてあげて欲しくてお願いしに来ました。ウチは、どうするのか聞いていないんですけど、ウチだったら挑戦してみたい気になると思うんです。」

「なるほどねー。うん、わかった。お見舞いも行かなきゃだし、それに、あの学校はそれほど悪いところではないから、私も入れるなら入った方がいいと思っているんだよね。」

「ぜひ、お願いします。話はこの件でした。」

「うん、ありがとう。」

「お時間取らせました。ありがとうございました。」

 それじゃあ、と席を立って進路指導室を出ようとすると

「高旗、これあげる。」

 佐藤先生が何かを握った手を出してきたので、右手を出すと、一口チョコレートが何個かパラパラと落ちてきた。 

「おやつにどうぞ。」

「わー、ありがとうございます。失礼します。」

 学校に来るときは制服か学校のジャージで来るという決まりがあるので、制服で来たが、病院に行くにはこの格好ではダメなことはないけれども、トレーニングのついでがあるので、陸上部の部室に寄って普段のランニング用のウエアに着替えて、学校を出て千早の病院まで走った。


 年末も押し迫った昼前、大型店の駐車場にはたくさんの車が出入りしていて、賑やかな昼間の街並みを横目に、ウチは海岸線を走る。日光が反射してキラキラしてきれいだ。ついつい砂浜の上を走りたくなるが、砂だらけになってしまうのでガマンしている。

 自動車販売店のある交差点を曲がって、コンビニがあって、千早のいる病院があるという並びになっていて、ウチはそこで食べ物を買ってから病院に行っている。


「千早、きたよー」

「うん。」

「今日はどう?痛くない?」

「ちょっと痛くなってきた。」

「痛み止めは?」

「まだ、そこまでじゃないから飲んでない。」

「そう。」

「・・・学校、行ってきた?」

「うん行ってきたよ。瀧川先生と佐藤先生、たまたま2人ともいた。」

「何か言ってた?」

「昨日のことは話さなかったよ。」

「え?」

「そんな大事なことを他の人の口を借りて言わせる気?」

「そうか、、、そうだよね。」

「ケガしていて、ここに入院しているからと伝えただけで、年明けくらいに、瀧川先生がお見舞いに来るだろうからその時に言いな。」

「うん。そうするよ。ありがとう。」


「早く、千早の勝負で泳いでいるところ見たいなぁ。」

「別に、いいもんでもないよ。」笑

「だって、ウチばっかり試合見られてるから、ズルいじゃん。」

「それはさ・・・」


 廊下からご飯の匂いが漂ってくる。配膳車をエレベーターから降ろすゴロゴロとした低い音が響く。

「ご飯の時間かな?」

「うん、そうだね。」

「取ってきてあげようか?」

「じゃぁ、お願いしようかな。」

「わかったよ~。」

 病室を出てナースステーション向かいに配膳車が止まっていて、ぐるっと名前を見渡してから、千早のお盆を取って戻る。

「取ってきたよ~。」

「ありがとー。」

 テーブルの上に昼ご飯を置いたのを千早が見ると、

「はぁ・・・いつもご飯が足りないんだよ・・・」

「えー、ウチでもちょっと少ない気もするけど、十分じゃない?」

「山盛りのご飯が欲しい。早く帰りたいよぉ。」

「退院いつなの?」

「これを抜くのが10日ころらしいから、経過観察も含めて15日とかそのくらい?って言われているよ。まだわかんない。」

「あと半月か~、長いね。」

「うん、骨の方の経過だけだから、家に帰ってもいいんじゃないかと聞いたんだけど、炎症の経過観察が必要だからということみたい。整形外科のことって、身体のほかの部分が元気だからヒマでヒマで仕方ないよ。外出もまだダメだって言われてるし。散歩くらい行ってもいいじゃないね?」

「そうだねぇ・・・。」

「そうだ、親に財布とタブレットを持ってきてもらうように頼まないと。」

「何を買うの?」

「下にコンビニあるでしょ?あそこで買い物をするのと、こんなだから、電子書籍じゃないと本を読めないし。・・・彩はお昼ご飯、何持ってきたの?」

「ウチはタマゴサンドとレタスサンドだよ。」

「ええっ、そんなのでいいの。」

「走るにしては、ちょっとお肉とかを食べないといけないけど、ウチの晩御飯、今日はハンバーグだっていうし。」

「いいなぁ、ハンバーグ・・・」


 昼ご飯を食べ終えて

「食器下げてきてあげるね。」

 と、お盆を取ってエレベーターホールに向かう。空いている棚に突っ込んで戻ろうとすると、

「食器ありがとう。」と後ろから声をかけられた。誰かと思って振り向くと、

「日野さん、お邪魔してます。」

「いつも遠くから大変ね。」

「いいんです、ウチのトレーニングコースの中に組み込んだだけですから。」

「トレーニング?」

「短距離ですけど陸上部なんです。冬場はすることがないので、自主練をしないと。」

「それでいつも運動着なのね。」笑

「変、ですかね?」

「いや、いいと思うよ。ほら、病院ってヨソじゃない、だから、そういう格好をしている一般の人は珍しくて。」笑

「ごめんなさい、ウチ、格好には無頓着なんです・・・」

「まぁ、あんまりヨソ行きの格好だと、永野さん、落ち着かないから、それはそれでいいんじゃないかな。普段通りで。」

「千早、ひとりぼっちのとき、どうしてますか?」

「さて、どうしてるのかな。ナースコールをほとんど使わない優等生だから、それなりに過ごしているんじゃないかな。」

「そう、よかったです。」

「こっちから声をかけておいてなんだけど、私、仕事に戻るね。いつもありがとう。」

「はい。」

 病室のドアを開けると、電話をしている千早の姿があった。ウチはそーっと戻ってソファーに腰かける。


「はい、大丈夫です。はい、すみません。では失礼します。」

 千早は通話を終えて、フゥーと息を吐いて静かにベッドにもたれる。

「どうかした?」

「さっそく、瀧川先生から電話がかかってきたよ・・・」

「へぇ!何て言ってた?」

「明日、午後から来るってさ。公務員は仕事納まって、明日から休みじゃないのかよ。」

「不安?」

「うん。」

 ウチは千早のベッドの上に乗って、千早の脚を挟むように膝立ちになって顔を近づけて、額をくっつける。それから、小声て

「昨日、自分で決めたんでしょ。」

 千早は視線を逸らしながら

「そうだけど」

「タイム表に名前を載せるチャンスはまだ半年あるんだよ?」

「何回かしかない。」

「手紙の内容、覚えていないの?」

「どの部分・・・」

「最後の部分。将来性が期待できる、って書いていたでしょ。」

「そうだっけ」

「そうだよ。結果を求めてるんじゃない、伸びしろを求めているんだって。」

「・・・」

「あと半年、いや10カ月くらいで、しっかりやったらいい。高校の部活の大会じゃなくてもいい、水泳は個人競技なんだから、一般の大会でも、みんながビックリする記録を、泳ぎを示せばいいじゃない。」

 ここで千早に強く当たる激流に流してしまうわけにはいかない。なんとかして岸までウチが引っ張っていかないと、自信を取り戻していけるように支えないと、そんな思いでいっぱいだ。

 あんまり詰めるといけないと思って千早から離れる。


 しばらくの沈黙が続いて、

「ねぇ、千早、31日はどうするの?」

「31日はさすがに、みんな来るよ。」

「そっか。」


「あー、なんか眠くなってきた。」

「毎日来てくれてありがとう。少し横になったら?」

「いい?」

「うん、いいよ。こっち使う?」

 千早は自分の左側を指して、じゃぁ、と千早の横でゴロンと横になって目を閉じる。

 千早の手がウチの髪に触れる。久しぶりだ、この感じ。


 やがて彩は気持ちよさそうな表情を浮かべて、寝息を立てて寝始めた。

 私のスマホのロック画面が出たかと思うと、通知ランプが点滅している。

 誰からだろう、とスマホを手に取ると国崎さんから写真が2枚送られてきたようだ。開くと1枚は濡れたプール道具の写真、もう1枚は知らない田園風景の写真。まもなく、メッセージが送られてきた。


 今年の泳ぎ納めをしてきました。

 これから、何日かはネットゲームの住人になります。

 5日からまた一緒に泳げるのをとても楽しみにしています。


 ゴメン、ちょっとバタバタしていて言ってなかったんだけど、鎖骨を折ってしまって、年明けの大会をキャンセルしたところで。20日くらいには練習に戻れると思うんだけど。ところで、それ、なんていうゲーム?きれいな景色だね。


 これは、ファンタジー系のゲームで、リヒト・ダ・デメルングっていいます。

 自宅療養ですか?大会のキャンセル、とても残念ですけど、まだまだチャンスはありますね。


 いや、東城崎の赤十字にいるよ。ちょっと折れ方が良くなかったみたいで。

 そうか、ヒマつぶしにネットゲームも悪くないかな。普通のパソコンでもできるのかな。


 年が明けたらお見舞いに行きますね。

 普通のパソコンでもできますけど、画質を気にするなら高いパソコンが欲しくなるかもしれませんね。


 まぁ、とりあえず親に頼んでパソコンも持ってきてもらうよ。

 ここに来るときには前もって連絡をくれると嬉しいな。


 はい、そうします。


 そういえば、背泳ぎのきれいな私の憧れの先輩に会ってみたい?


 会ってみたいですねぇ。じゃあ、連絡を取ってみるよ。国崎さんがここに来るときに会えないか聞いてみるね。


 ありがとうございます。


 会話はこれで終わった。

 それにしても、左手だけでは使いにくい。親に今度来るときにタブレットとノートパソコンを持ってきてほしいとメッセージを入れて、明日の午後か31日にでも持ってきてくれるということになった。病院にはWiFiがあるから、それで問題ないだろう。

 それにしても、彩はよく眠っている。

 このついでだから、仙道先輩に連絡を取ってみようかな。

 メッセージのアイコンの右下に緑色の〇が点いているのでどうやらログイン中のようだ。


 先輩、最近の調子はどうですか


 お、久しぶり~。わたしは指定校決まったから、みんなと違って悠々だね。

 どうした?何か用があった?


 ええ、私、実は今月から城崎のスイミングチームに入ったんです。


 えー!あの千早がね!!


 ちょっと、やめてくださいよ~。笑

 それでですね、先輩みたいに背泳ぎのとてもきれいなコがいて、是非、先輩を紹介したいなぁって思ったんです。


 おおぅ、それは楽しそうだ。 いつ? どこで?


 実は、私、ケガで東城崎に入院してて、年明け早々に来ると言っているんですけど、先輩の都合のいい日を聞いておこうと思って。


 年明けは10日あたりまで都合の悪い用事は今のところないよ。


 入院って大丈夫なの?


 ええ、ちょっとタイムには響くかもしれないですけど、なんとか乗り越えようと思います。


 大変だろうけど、応援してるね。

 引っ越すけど、ここからそんなに遠い場所じゃないから、試合のある日のことを何かのついでにでも言ってくれたら様子を見に来るよ。


 はい、それじゃあまた、近いうちに連絡します。


 お大事にね。


 ふぅ~と息を吐いてスマホを置く。

 

 今日の日の入りは16:13。昨日より1分長くなった。太陽が西に傾き始めた。彩はまだスヤスヤと寝ている。

 起こさないように反対側から降りてトイレに行って、帰ってくると、後ろから抱き枕にしたい衝動に駆られるが、そういうわけにもいかず、ちょっと、ズキズキと痛むのであまり動かす気にもならない。明日になったら、もうちょっと痛くなってたりするのかな。


12月30日

 少しガマンが必要なくらいに傷が痛む。

 そのことを回診で来た主治医に告げると、痛み止めをそろそろ飲んだ方がいいと勧められたのと、炎症の程度を見極めるのに血液検査をすることになった。術後の経過から言って明日かあさってくらいには検査の対象になる数値が下がってくるはずだから、今日を基準に考えることになった。明日はおそらく痛みが強くなるだろうとのこと。

 後で看護師さんが血液を試験管、数本分採って行った。


 瀧川先生から連絡があって、病院の2階にある一般の人向けのレストランで合うことになって、私はそこの向かいの長椅子に腰かけて待っていた。

 中に入ってテーブルの席に通されて、好きなのを頼んでいいよと言われて、私はオレンジジュースを頼んで、瀧川先生はコーヒーを頼んだ。雑談をしている間に飲み物が届いた。


「ねぇ、永野さん」

「あの、瀧川先生」

 同時に口を開いた。

「お、おう、どうぞ。」

「あ、いや、あの、例の大阪の大学から来た話の件なのですが。」

 テーブルの上のグラスを見つめて切り出す私。

「うん」

 顔を上げて、まっすぐ瀧川先生を見つめて。

「あれは、私だということをあちらに伝えてもいい、と思っています。学校さえよければ。」

「そう!よかった。」

 にっこりと瀧川先生は笑顔を見せた。」

「実はね、あの手紙が来てから、本人の意向もあるからと返事を保留にしていて、昨日の昼過ぎに、様子を尋ねる電話が来ていてね。ちょっと急ぎたいみたいで、永野さんがこんな状態だから年明けでもいいかなっていうことにはならなくて、今日、それを聞きに来たんだよ。話を保留にした時点で、状況証拠から、うちの生徒だっていうことになるじゃない。」

「そうですね。でも、これって枠をもらえる条件って何なのですか?」

「うん、枠が出るかどうか、というのはとりあえずわからないけど、いろいろ聞いてみるよ。特待生扱いの話が来たら、がんばれるかな?」

「とりあえず、今度入ったチームでやれるだけやってみようと思います。」

「高校の部活に戻るつもりは?」

「チームで物足りなくなったら・・・」

「そうかい。大きく出たね。」笑

「部活に戻っても、もう時間は残り少ないです。大事な時期を見送ってしまいました。まだチャンスの数があるのは一般のチームしか選択肢はありません。」

「それもそうね。うん、わかった。先方に伝えておくね。」

「よろしくお願いします。」

「じゃぁ、行こうかな。お大事にね。」

「ありがとうございます。」

 病院の玄関まで見送って

「先生、良いお年を。」

「ありがとう、また学校でね。元気そうでよかった。」

「はい、さようなら。」


 自分の病室に帰ると、どーっと疲れてソファーにドカッと腰を下ろす。

 あーあ、言っちゃった・・・。


 それにしても痛いなぁ・・・。今夜寝れるかな・・・。

 

 天井を仰いでボーっとしていると、ドアが開いた。

「千早、頼まれたものを持ってきたよ。」

「ありがとう。暇すぎるから助かったよ・・・」

「それから、毎日味気ない食事なんだろうから、看護師さんの許可をもらって、持ってきたよコレ。」

「なになに」

 袋から漂う、中華料理の香り。

「麻婆茄子だよ。3人前だけど許して。白米は黙って持ち込んだけど大丈夫でしょう。」

「助かる~。少ないんだよ、ごはん・・・」

「病院食ってそうだよねぇ。・・・今日は、彩ちゃん来なかったの?」

「うん、ちょっとさっきまで例の大阪の大学の件で先生と話をしていたから、相手できないからっていう建前で。毎日来てたら疲れちゃうでしょ。昨日なんて夕方まで昼寝して、寝ぼけた顔して帰っていったよ。三が日は家のこととかで忙しいだろうから、きっと来ない。」

「そうなの。・・・で、先生は何て?」

「どういう条件なのか聞いてくれるって。チームでいい記録を作れるようにがんばれって。」

「そう。無理しない程度にやるんだよ。」

「うん。」

 陽が沈んで、食事の配膳が始まる。今日は母が取りに行ってくれた。たくさん食べたごはんのゴミを持って帰らないとということで、持ってきたお弁当を一緒に食べながら談笑した。


 そんな風にして私の年末年始は過ぎて行った。みんなが来てくれる昼間のうちはいいけれども、帰った後の静まり返った部屋がなんとも寂しい。


1月5日

 年明けから筋力回復のためのリハビリが始まった。違和感がたっぷりでツライ。

 スイミングチームの練習が始まる前に、と国崎さんが来てくれた。仙道先輩もこの時間に合わせて来てくれた。彩は昨日から12日まで陸上部の合宿で、しばらくは来れない。

 私は、このまま何もなければ9日に退院して、骨のところに入っている物を15日に取って、病院に2泊3日。またリハビリ通院になるとおととい決まったところだ。

 5月にある大会に間に合わせるように、少し厳しめのトレーニングが必要だ。


「国崎さん、こちらがこの前言っていた、背泳ぎがとてもきれいな先輩、仙道さんです。」

「なんだよ、改まって。燈子ちゃん、よろしくね。仙道香帆です。」

「はい、仙道さんって、私知ってます!中学の時に城崎タイムズで見たことがあります!すごい、永野さんの先輩だっただなんて。」

「なんだ、千早、言ってなかったの?」

「そうですね、先輩が水泳の鬼だっていうのを忘れていました・・・」

「で、チームに入って何カ月になるの?」

「12月1日からだったので、まだ丸1カ月経ったばかりです。」

「種目は鞍替えした?」

「いえ、自由形のままのほうがいいと思って、前のままです。」

「最新の自己ベストは?」

「1分20秒はまだ切ってません。」

「なんだ。まだ1分切れないのか。」

「え、ちょっと待ってください。永野さん、この前10秒くらいって言ってましたよね?」

「あー・・・申し訳ない。私の昔のことを知っている人があまりいないところがよくて、学校の水泳部には戻らなかったんだ。国崎さんは私の過去を知らないみたいで、ちょっと安心して、つい。・・・ウソ言って本当にゴメン・・・」

「本当の自己ベストは、何秒なんですか?」

「100自は58秒88なの。」

 仙道先輩が笑いながら横から入ってくる

「他にも聞きたい?」

「どうして隠してたんですか、そんなすごいタイム!せっかくの吊るし上げの機会ですから全部聞いておきます!」

 仙道先輩はスマホを開いて、何かのファイルを開いたようだ。

「ええとね、わたしもよくないんだけど、あの大会のタイムでいいや。千早は100バタには出てなかったな?出てないな?背泳ぎ200が2分18秒、200平が2分31秒99、200個メが2分24秒88だ。公式記録には載らないけど、学校対抗400のフリーメドレーがあってな?1人100mの4人勝負なんだけど、この時の自由形で58秒46っていう、非公式の自己ベストがある。千早、ダメだよまたコンマ4秒サバ読んだら。」

 ケラケラと笑いながら読み上げていく。

 国崎さんの様子を伺っていたら、顔を真っ赤にしてウソつき呼ばわりされるかと思っていたら、ニコニコして聞いていたので、嫌われてしまうと思って聞いていたけれども、少しホッとした。

「あああ、全部バラされたぁ、先輩、ひどいですよ、もぅ。」

「あと、コイツ、人の泳ぐところをじっくり見たがる、特殊な性癖があるから気をつけな?」

「それは、もう被害に遭いました。」

「千早、お前、手ぇ出すの早ぇな。」

「だって、国崎さんの背泳ぎがとてもきれいで・・・」

「エロいなぁ~。千早、ホントにエロいなぁ。」

「永野さん、いい先輩を持って、いいように引っ張ってもらえたんですね。永野さんがどうしてそんな才能があるのに辞めてしまったのかは知りませんけど、でも、隠したくなるほどイヤになったこと、私は中学で不登校になったのもあって、なんとなく気持ちはわかります。・・・こんな楽しい人たちがいる高校と部活だったら、入ってみたかったなぁ。」

 青空の穏やかな冬空を背にそんなことボソっとつぶやく。

「あ、もうこんな時間。そろそろ練習に行かないと。」

「あれ?練習は夜からじゃないの?」

「2駅戻らないといけないのもありますし、ご飯を食べてから自主練も兼ねて少し早めに行くことにしているんです。大会も近いですし。」

「そっか、ゴメンね大会に行けなくて。」

「手術、うまくいくことを祈っています。お大事に。」

「久しぶりに、水泳の話をしたら何か私も泳ぎたくなってきたなぁ。」

「知りませんって。」笑

「市民プール、水着レンタルやってますよ?」

「先輩、国崎さんに熱血指導したらどうです?」

「じゃあ、千早をここに置き去りにして行っちゃおうかな?」

「どうぞどうぞ。大学決まってる人は余裕だなぁ、私もそんなになりたい。」

「千早、わたしは瀧川先生と仲が良いのだぞ?」

「先生・・・余計なことしゃべってぇぇぇ。」

「そんじゃ、千早、私も泳ぎに行くわ。お大事にね!行こう、燈子ちゃん。」

 2人の相性はバッチリって感じだ。

「千早、回復を焦ったらダメだよ。一歩一歩、大事に大事にだよ。」

「はい。」

 2人は病室を出て行った。

 仙道先輩のことだから、私のいちばんバラして欲しくないところは言わないでくれると思うんだけど。でも、まぁいいか。


1月9日

 昨日のレントゲン検査と今朝の回診で状況に問題ないことで、最終的に退院が決まり、今日出勤の日野さんに見送られて退院となった。今日は1月としては珍しく、南高北低の気圧配置で、よく春一番が吹くころの状態になり、南風が吹く、季節外れの暖かな日となった。

「じゃぁ、また15日に。待ってるからね。」

「はい、ありがとうございました。また。」

 迎えに来た母の車に乗って家に向かう。

「お父さんはまた仕事?」

「うん、出張先に戻ったよ。」

「千早、ご飯食べて帰ろうか。何食べる?」

「ラーメン食べたいけど、左手じゃうまく食べられないからなぁ。」

「じゃぁ、ハンバーグの店にしておこうか。」

「うん。」

 逆方向になるが、街のハンバーグレストランに寄った。

 外のご飯がおいしくて、大根おろしにハンバーグソースのかかった大きなハンバーグと、大盛のごはん、大根サラダを食べ、それでも足りなかったのでチョコパフェも食べて、コーヒーを飲む。

「アンタはよく食べるのがお似合いだわ。」笑

 ニコニコと母は微笑みながら、食べ終わって少し経ったところで店を出て帰路に着いた。

 1時間ほど走って家に着いて、母が大きな荷物を運ぶからということになって、私はパソコンとか、手提げに入っている程度のものだけ運んで家に入る。

 久しぶりのリビング、自分の部屋、自分の布団。外は暖かかったが、自分の部屋は冷え切っていたのでストーブをつけて暖まるまでリビングで過ごすことにした。


 お湯を沸かして紅茶を淹れる。これはこの前、彩と一緒に買いに行った紅茶。左手に持ったマグカップで紅茶の湯気の匂いを嗅ぎながらベランダに通じる窓を開けて、外に出て街を眺める。と言っても、テレビでよく紹介されるような高層マンションではないので、眺めるというよりは、見るといった感じなのだが。

 ここ何年かで気候が温暖化していて、小さかったころに体感した真冬のような寒さではなく、このところは初冬に感じる冬の匂いがいつまでもしているような冬であることが多いような気がする。陽射しがあるので、モコモコのパーカーを羽織っていれば、お茶を飲むくらいであれば、気にならない気温だ。


 冬休みは18日までだが、また15日から病院なので、貴重な長期休みのほとんどを無駄にしてしまった。

 親からは家にいろと怒られるだろうけど、明日、電車に乗ってどこかに行こうかな。


 そろそろ部屋が暖まっただろう。ストーブの火を小さくするために部屋に戻って、そのまま自分の布団に潜り込む。向こう正面に私の勉強机。

 スマホを少し眺めていたが、別に面白いものは見つからなかったので、晩御飯の時間まで少し寝ようと、枕元に置いてしばらくすると、メッセージ通知が来た。


 千早、一時帰国した?

 はい、さっき帰ってきました。

 次のもうまくいくといいね。

 そうですね。

 そうそう、この前燈子ちゃんと泳ぎに行ってきたよ。

 いいなぁ。私も行きたかった。で、どんな感じでした?

 イイね!きっと伸びるよ。千早とリレー種目に出ているところを見てみたいかも。

 今度、3人で泳ぎに行こうよ。

 はい、是非。

 それじゃあ、疲れて眠いだろうから、今日はこれだけ~。おやすみ~。

 はい、寝させていただきます。zz


 プール、ウォーキングもダメって言われたしなぁ。水の上でぼんやりしていたい・・・。


 晩御飯前までのつもりが、目が覚めたら夜更けすぎになっていて、ラップをかけられた食事がテーブルの上に並べられていた。それを食べて、シャワーを浴びて、また布団に潜り込む。

 今度は彩から電話がかかってきた。

「もしもし?」

「千早~ 退院した?」

「うん、した。てか、合宿なのにこんな時間に電話してきて大丈夫なの?」

「大丈夫。ちょっと合宿所の外に出てみたら、星がきれいでさ。電話したくなった。」

「ありがとう。合宿、どこでやってるの?」

「鶴見高原だよ。」

「へー、山奥だね。雪どっさりじゃない?」

「そうそう、2mくらいあるかな。今日は雪中運動会だった。」

「なにそれ。雪の中にミカンでも隠すの?」

「そう、それもある。あと雪合戦とか。」

「脚力つきそうだね。」

「膝までズボォって埋まるから、腿上げで脚が太くなっちゃうわん♪」

「何言ってる・・・」

 ちょっとの沈黙。

「千早、身体動かしたいんでしょ、今。」

「うん、ヒマだし。」

「あと1週間の辛抱だねぇ。」

「もうちょっとなんだけどね。」

「リハビリの方は順調なの?」

「うん、水泳のことも理学療法士さんがちゃんと考えてくれてる。15日までのメニューも、特別に作ってくれたんだ。」

「そうなんだ。みんな千早の味方、応援してくれてるね。」

「そうだね。」

「もう寝る?」

「さっきまで爆睡しちゃってたから、寝れるかわからないけど、寝ようかな。」

「ウチは別に千早が寝落ちして、寝言が聞こえてきてもいいんだけどな。」

「バカじゃないの。」

「ははは。それじゃあ、おやすみ。また連絡するね!」

「うん、おやすみ。」

 私の大切な人たちから生存確認が届いて、少しホッとしていると、鶴見高原の星景写真が送られてきた。きちんとISO感度とシャッタースピードが調整されて撮影されたものだ。彩、こんな機能あるの知ってたんだ。それにしてもきれいな景色だな。

 雪をかぶった山が、雪に反射された光で淡く映し出されて、ぼんやりと映って、山の向こうには縦になった北斗七星のひしゃくの先の部分が映っている。


1月10日

「あら、出かけるの?」

「うん、家にいてもすることないし。本でも読んでくる。城崎の方に行ってくる。」

「そう、気をつけてよ。」

「うん」

 8時過ぎ、バスに乗って駅の方へ。地図アプリでいろいろ調べていたら、ちょっと良さそうな喫茶店を見つけたのだ。アプリ上では11時開店ということになっているから、いろいろ良かったらお昼も食べていこうと思っている。

 10時すぎの電車に乗り換えて城崎駅下車。

 ここから西の方に歩いて15分ほど。

 店の前には11時20分くらいに着いたのだが、開いていない。あれー、臨時休業の貼り紙もないし、年中無休って書いてたんだけどな。周りには何もないしな・・・。しょうがないから駅に戻るか。私の背後に人影を見て、慌てて振り返ると、店主らしき人が立っていた。

「いらっしゃいませ、ごめんなさい。今日はちょっと寝坊しました。寒いですけど、中に入って下さいな。」

「はい、なんかすみません。」

 入口の鍵を開けると、私の右腕を見て、

「あらあら。」

 マスターは左手でドアを開けて、どうぞ、と右腕でそっと私の背中に手をやる。

「ありがとうございます。」

 中に入ると、見かけに似合わず、何かのキャラクターのぬいぐるみがカウンターの上に並べられていて、こちらを向いている。

「どこでも好きな席へどうぞ。メニューを持ってきますから、いろいろちょっと時間をください。」

 と左手のすだれの奥に消えていった。

 私はカウンターの席に座って、右隣の席にリュックを下ろしてタブレットを取り出して、本を読み込ませる。今日持ってきたのは、ちょっとずつ読んではいるのだが、もう1年近くも読み切っていない本なので、できれば、どんどん読み進めたい。

「お待たせしました。」

「あ、ありがとうございます。」

 コップとジャーに入った水をテーブルの上に置いて、小脇に抱えていたメニューのファイルを置いて、コップに水を注いでくれた。

「いろいろ出して来てからなんですが、そこ、寒くないですか?長居をするならあちらがおススメですよ。」

 指をさされたところは、暖炉から近すぎず、遠すぎずの席。

「せっかくなので、、、」

「混んできても、それ以上は混まないので、気にせずゆっくりしてくださいね。」

 とそちらに移動した。

 ミートソースのスパゲティと食後にコーヒーを注文してから本を読んで、食べて、また読んで。昼にかけて全部で20席くらいあるカウンター席とテーブル席は7割くらいは埋まったが、マスターが言っていた通り、それ以上混むことはなく、ピークは過ぎた。

 タブレットの時計に目をやると、15時少し前。おやつ時になって、何組かの入退店があってさらに時は過ぎる。ある程度読んであー疲れた、そろそろ読むのをやめようか。

「すみません、紅茶を追加で欲しいです。」

「はい、かしこまりました。」

 紅茶を飲み終わった頃にはすでに陽が傾き始めて、乗れる電車の時間も近づいてきたので支払いをして店を出る。

「またゆっくりしに来てくださいね。」

「ありがとうございます、必ず来ますね。」

「今度は、もう少しお話ししましょうね。」

「すみません、黙々と本を読んでしまって。」

「いいんです。文字を読む人には好感が持てます。」

「はい、それでは。」


2月1日

 術後の若い体は回復が順調で、ついに、プールでウォーキングまで良いという許可が出た。

 今日は学校帰りに病院に行って、そう言われるだろうと思っていたから、プールに寄って帰ろうと思ってプール道具も一緒に持ってきた。私があまりにも療法士さんの前でプールに行きたいと言いすぎたせいか、固定具も水中で使ってもいいようにマジックテープではなくて、ナイロンのバンドを、プラスチックの四角い部品に通して固定するタイプのを紹介してくれて、着脱には誰かに手伝ってもらえるならと、渡された。

 装具、ちょっと高い。親ゴメンと思いながら会計を済ませて、急いでプールに向かう。ウォーキングだけ良い、それだけでも嬉しくて嬉しくて。

 プールに着いて窓口へ行き、利用者券を見せながら

「あの、今、ちょっと鎖骨の治療中なんですけど、これ、プールで使ってもいいですか?」

「あら、永野さんどうしたの?それ」

「ちょっといろいろ。」

「普通、こういうところには治ってから来るものじゃないの?」笑

「いや、ダメです。もうガマンできませんので。ウォーキングだけでも許可が出たので。」

「うーん、まぁいいわ。行きな。」笑


 ワンピースの水着のような圧迫は要らないので、フィットネス用のセパレートの水着を持ってきて、早速着替えて、と水着になって療法士さんの言葉を思い出した。『装具を着けるときには誰かに手伝ってもらって』・・・あっと思って受付に戻って、

「何かあった?」

「あの、コレ、一人で着けられないので、恥ずかしながらお願いできないかと・・・」

「はいはい。ほれ、後ろ向いた向いた」

「すみませ~ん」

「外すときも手伝いが要るの?」笑

「はい~。またお願いします~」

 背中を丸めながら更衣室に戻ってプールに出る。

 プールにつながる扉を開けると塩素のあの匂いがする。たった1カ月ちょっとくらいだが、とても懐かしい気がするあの香り。大きく深呼吸して反時計回りに水が流れるプールに向かって、スロープからゆっくり水に浸かる。

 水着に水が浸みてきてパツパツになる感触、久しぶりの感触。

 何とかして泳いでやろうと、ビート板を持ってきてみたが、右腕に力が入ってうまく泳げなかったので、やはり泳ぐには早いようだ。1時間ほど宇宙飛行士が月面で跳ねるように、浮いたり沈んだりをして楽しんでいたところで17時になった。

 そろそろ帰ろうとプールから上がって、シャワー室に向かったところで、後ろから声をかけられた。

「永野さんじゃないですか~」

 振り向くと国崎さんの姿があった。

「ああ、久しぶり。この前はお見舞いどうもね。」

「いいえ、プール来てもよくなったんですね?」

「うん、渋い顔をされたけどウォーキングまでの許可は勝ち取った。」

 ブイっと、ピースして見せる。

「片腕がなくても泳ぐ方法とかありそうですけどね。でもよかったです。・・・もう帰っちゃいますか?」

「今日は練習なんだよね?」

「そうですね。8時までです。」

「赤磐さんに挨拶しないとなぁ。許可取れたら見学してようかな。」

「赤磐さん、もう来てると思います。」

「そっか、あ、国崎さん、ちょっとシャワーを浴びたら、ちょっとだけコレ外すの手伝ってくれない?」

「いいですよ。」

「ゴメン、ちょっと待ってて。」

 急いでシャワーを浴びて出る。

「永野さん、体拭くとこまで考えてプールに来ました?」

「いや、全然」

「きっと、水着脱げないですよ??」

 バックルを外してもらってトップスのファスナーを下げるものの、張り付いてなかなか脱げない。

「もー、世話が焼けますね。」

「やば、このトシで要支援だ。」

 国崎さんはチラっと時計に目をやってから

「ほら、手伝ってあげますから、ロッカーのカギ貸してください。」

「はぁい。」

 ファスナーを元に戻して、更衣室へ。

 クラブの団員とすれ違って、永野さんお帰り~と次々と声をかけられる。かなり照れくさい。国崎さんはちょっと遅れるねと言って私の後ろをついてくる。

 水着を上下脱がせてもらって、カバンに入っていたジャージを出してもらって着替えも手伝ってもらった。

「ありがとうね。」

 最後に、プール用の7分丈のパンツと長袖のウインドブレーカーを着て、

「あっ、ちょっと電話にメッセージの着信が。後から行きますので、先にどうぞ。」

「うん。」

 プールサイドに戻って

「あらー永野さん、お帰り~。」

「ご迷惑をおかけしまして、すみません。」

「うん、・・・まだ、大丈夫じゃなさそうだね?」

「はいー。もうちょっとかかります。3月の末くらいにはなんとか。」

「次の大会は5月3日だけど、どうする?」

「はい、チャレンジしようと思います。」

「わかったよ~。・・・で、見ていくかい?」

「はい、何か手伝えることがあれば手伝わせてください。」

 じゃあ、と記録の記入表を手渡されて、記録係をすることになった。

 休憩時間に、ベンチに腰かけて、国崎さんが横に来て

「永野さん、終わった後すぐ帰っちゃいますか?」

「え、どうしたの?」

「仙道さんと城崎でお茶するんですけど、一緒にどうですか?っていう話です。列車の時間まで。」

「うん、行く行く~。」

「良かったー。練習終わった後、楽しみだ~。あと1時間、がんばって泳ぎますね。」

 20時までの時間はあっという間に過ぎた。

 国崎さんとバスに乗って城崎駅前に着いた。駅前の大手チェーンの喫茶店にすでにいるらしく、待ち合わせの4人掛けの席に座った。

「久しぶりだね~千早。」

「この前はありがとうございます。」

「療養中にプールに来るとか、千早らしいわ。」

「永野さんてば、この格好で来て、水着を脱ぐところまで考えていなかったらしいですよ。」

「千早、バカじゃないの。」

「ねー、ホント。で、私が介助してあげたんです。」

「まじか!!」

「ええ、恥ずかしながら。」

「永野さん、肌きれいですよね。嫉妬します」

「ええー、今日、プールに行かなかったのを激しく後悔した。千早、言えよ!」

「先輩のごはんのオカズはこれ以上作らせてあげませんから!」

 電車の時間まで1時間弱。先輩と国崎さん、ずいぶん仲良くなったんだなぁってくらい、いろいろ話している。話せる人ができるって良い事だと思った。

「さて、そろそろ行くかね?」

「はい、私も親がそろそろ着きそうなので。」

「じゃ、またね。」

 そういって私たちは帰路に着いた。

 電車の中で

「そういえば、先輩、いつ引っ越すんですか?」

「ああ、そうだ言ってなかった。3月20日だよ。」

「もう、住むところは決まったんですか?」

「うん、契約も済ませた。親の車で荷物は少しずつ運ばせてもらってるから、当日はリュックと私が電車に乗るだけ。」

「そうなんですね。見送りに行ってもいいですか?」

「うん、おいで。また連絡するね。」

「寂しくなるなぁ~。」

「遠くなるけど、外国に行くわけじゃないから」笑

「休みになったら、帰ってきてくださいよ。彼氏できたーとかバイトで忙しいとか言い訳しないでくださいね。」

「ふふっ、何言ってるの。」

 電車はあっという間に目的地に着いた。

 先輩とは、じゃあまたプールに遊びに行くね、と告げられて別れた。

 私は最終バスに乗って家へ。

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