19. 夢・現
なぜだろう、私はいま、真っ暗な道を車に乗って走っている、誰の車だろう、前には窓ガラスが見えるので助手席のようだ。だれが運転しているのかと思って、運転している人を見ようと思ったが、なぜだかあまりハッキリと見てはいけない気がして、首をすくめて視線だけ右にずらして見ると、髪形は耳がハッキリ出ているが、サイドの毛を肩のあたりまで伸ばしているが、耳はスッキリ出している。黒い髪がキレイ。黒縁の四角い眼鏡を掛けている。暗いので、他に特徴的なところが見当たらない。
そっと視線を前に戻して、この場所がどんなところなのかと考える。
真っ暗だった景色は、本当に真っ暗なのではなく、周りに反射するものが少ないために、そう見えることがわかった。要は両側が森なのだろう。車のライトがハイビームに切り替わると、真っ黒のアスファルトに真っ白な路肩の白い線と点線が浮かび上がり、両脇に生えている、細い白い木、おそらく白樺なのだが、それが肋骨のように浮かび上がって、とても薄気味の悪い道路だ。時々、キツネなのかタヌキなのか、キラキラ光る2つの点がついたり消えたり。
どこなのここ、早く街明かりのあるところに行って・・・
「おおっ!?」
車は急ブレーキではなかったが、やや急な減速をした。
なんだろうと思って、前を見ると道路の右から左に横断するようにそこそこの太さの白樺の木が倒れている。白いライトに照らされて不気味に白く反射する木の幹と黄緑色に反射する葉。
「通れるかな、、、」
ハンドルを左に切って、路側帯の線に車が寄せられ、いつの間にか左の景色は開けているのかと思ったら、崖のようになっているようで、アスファルトの境目もわからないほど真っ暗だ。
「ひっ・・・怖い」
思わず声を上げる私。
「あっ、ゴメンね。起こした?」
私は、知らない人の運転する車で不覚にも寝ていたようだ。顔を運転席の人に向け、車のパネルからの薄明りで反射した顔を伺うも、誰だかわからない。
「・・・、誰・・・?」
「そっか、ウチのことがわからないか。そりゃ、そうか。」
「・・・ごめんなさい。」
しばらく考えても、私の仲のいい知り合いには黒縁眼鏡の人はいないし、まして、運転免許を持っている友達はいない。
いまいる場所だけでも、なんとかわからないかと内装を探すが、カーナビのような画面のついたものはない。そんな車、今どきあるんだろうかと思いながら、気持ちが焦っていることを悟られないように右のポケットに手を突っ込むと、スマホがあった。誰かに連絡しないとと思って画面を開くが、電波はないし、地図アプリを起動してもGPSの信号がないと表示されて、GPSの故障じゃなければ何なんだろう。
「千早、どうしたの?」
え、どうして私の名前を知ってるの?と聞こうとしたときに、唐突にハンドルを握る左手首についているブレスレットに目が行った。あれは、、、私と同じ、、、?
「え、彩?・・・彩なの・・・?」
「よくわかったねぇ。」
「彩、メガネ、どうしたの?」
「あ、そうかこれか。」
「う、うん。」
「どうしようかな、千早は信じないだろうからな~、言おうかな言わないかな~」
「どういうこと・・・?」
「・・・あ、ここも停電しているのか・・・」
車が走ろうとした先にはトンネルの口がぽっかりと空いているが、停電と言う言葉通り、真っ暗だ。
「中は時々、鹿がいるからイヤだなぁ・・・」
話をはぐらかされ、徐行しながらだが車はトンネルの中に進入した。車の走行音がトンネルに響き、暗い分だけ不気味に感じる。上り坂のトンネルを走ること、おそらく数分。T字路に当たり、車は左折した。
また両脇に白樺が生えている白い不気味な森のトンネルを抜けて開けたところに出て、車は駐車場に停まった。
「千早、散歩しない?」
「え、イヤだよ、こんな暗いところ・・・」
「そう?わかった。」
彩のような人は、左手首のブレスレットを外して右手で握りしめて目をつぶると石が一つ割れ、周りの草原が緑色に光る。
「え?なに、なに?」
「これなら、私と一緒に散歩してくれる?あんまり時間ないんだ。」
「う、うん・・・」
シートベルトを外してドアを開けて外に出ると、彼女も外に出る。私は運転席の方に回って彼女の左斜め後ろについて歩く。怖いな。腕を組みたいけど、この人も怖いし。
少し歩くと、目の前に15mくらいの建造物が見えてきた。白と紺色のシマシマだ。てっぺんで明かりが回転していて光線が直線状に照らしている。灯台のようだ。ということは、ここは岬?
「ねぇ、そこのベンチでお話しよう?」
「うん、いいよ。」
ベンチに腰を掛ける。
「・・・」
いつの間にか光っていた草むらの光が弱くなって消えてしまって、あたりはまた真っ暗になった。
「千早は信じないかもしれないけど、ウチは何年後かのウチなのかな。だから、知らなくても当然。帰りたい?高校2年生のウチに会いたい?戻りたい?」
「なに、何を言ってるの?」
「思い出してごらん、こんな不思議な世界?に来るまでのこと。何してた?」
そう言われて、思い出そうとすると頭が割れるように痛くなってきたのと、何かの強い力で背中を押されてベンチから転がり落ちて動けなくなった。
「え、どうしたの、私。動けないよ、苦しいよ。」
「大丈夫、もう少しだよ。もう少し。」
「見てないで、助けてよ!なんとかしてよ!痛いよ。痛いよ!」
出にくい声をふり絞って助けを求める。
彩は私の頭のところに来て上から覗き込むように座って、私の頭を太ももの上に乗せる。
「大丈夫、落ち着いて。」
私の頬を撫でて、私の髪を撫でる。赤いものが頬についているようだ、どうして血なの?少しずつ、眠くなってきた。私、どうなっちゃうんだろう。彩の手、暖かいな。
「千早、よくがんばったね。暗くて怖かったね。大丈夫、つぎに目が覚めたら、ここのことは忘れちゃうかもしれないけど、他のことはいずれ全部思い出すから。」
彩が右手で握っていたブレスレットを私の右の手のひらに置いてその上から握りしめる。
同時に、灯台の回転がどんどん速くなっていく。あたりの景色がオレンジ色に染まって、白くなって明るくなっていく。
「千早、また会おうね。じゃあね。」
ブレスレットの石が全て砕けると、まぶしい光が溢れてきて、ぎゅっと目をつぶるだけの気力はなかったが、暖かい光に包まれて頭の後ろにあった柔らかい感触がどんどん消えていった。
しばらく、暖かい光に包まれていた時の余韻に浸っていると、視界に白い天井が目に入った。右目が見えていないのか、右の視界は真っ暗。左目で部屋の左側に目をやると、何時かわからないけれども、薄暗い空からチラチラと雪が降っているようだ。
喉、乾いたな、、、。右腕が重い。どうして?
体を起こして、右腕をみると胸くらいの高さで固定されていて、動かしたらマズい雰囲気。状況がよく飲み込めず、頭もガンガンするし、よくわからないまま、とりあえず病院の個室にいる雰囲気ということだけはわかった。
しーんとしていて、誰かがくる気配がないので、呼ぶしかないと思って壁から出ている線の先に握り棒のようなものがついていて、看護師さんのマークがついているアレを押すのか、と押す。
スピーカーから、『はーい。起きたね~、今行きますから少し待っててくださいね。』と一言。ガチャっと切れた。
スタスタと歩く音が聞こえると、私の部屋のドアが開いた。
「やっと目を覚ましたね~。お帰りなさい。看護師の日野です。・・・変なことを聞いてゴメンね?自分の名前と生年月日を教えて。頭をケガしちゃっているから、、、意味はわかるよね?」
「あ、はい。永野千早、△△年10月15日生まれです。」
「はい、ありがとう。痛いところはある?」
「頭と腕以外は特に、、、」
「うん、わかった。」
「あの、すみません、喉が渇いたのですが、何かありませんか?」
「あ、ゴメンね~。いま持ってくるから。」
一度、部屋から出て行って、数分後にペットボトルを持って戻ってきた。
「お茶の方が良かったかな?」
「いえ、水でもいいんです。」
「はいよ。」
日野さんはグラスに水を注ぎながら、
「ここに来ることになった理由は覚えてる?」
「・・・ええと、、、、、、よくわかりません。思い出した方がいいですか?」
「ううん、思い出した方がいいこともあるけど、今は、どっちでもいいと思う。無理をしないでね。それから、これは永野さんの?」
「はい、そうですね。」
スマホを渡されて
「・・・電源入るかな、、、」
「充電器、そこの引き出しから出しておいてあげるね。」
電源を長押しすると、電池は15%しかないが電源が入った。起動してホーム画面が立ち上がると、おびただしい数のSMSと着信履歴、メッセンジャーの履歴が通知される。SMSは2つの番号。私の親と彩からだ。今日の日付は12月29日。履歴は3日前に集中していて、昨日と今日は彩のものだけが、何時間かおきに。
”千早、元気?”
”千早、起きた?”
”今は、太陽が出て暖かいね。”
”昼過ぎから少し吹雪いて寒い。”
”千早、喉乾いてない?”
”千早、お茶しにいかない?”
「メッセージ、いっぱい来てるね。笑」
「え、私3日前からここに?」
「うん、正確には4日前の夜からネ~。」
「ご家族には、これから私が連絡してきていい?」
「はい、お願いします。」
日野さんは部屋を後にして、またスマホに目をやる。時刻は15時半すぎ。もう陽が沈みそう。でも、自分の家族よりも先に、彩に会いたい気がして、彩の声を聞きたい気がして、連絡先から彩の番号を呼び出して通話ボタンを押す。
呼び出し音が1コール鳴らないうちに、彩が出る。
「千早?千早なの?」
「う、うん。私、なんか彩に迷惑をかけちゃったみたいで、何て言っていいか・・・」
「そんなのいいから!」
「今から、会えるかな・・・?」
「会いたい!・・・けど、大丈夫なのかな行って。」
「あ、そうか。そういうことか。・・・何があったのか、まだ思い出せてないんだけど。・・・今、彩はどこにいるの?」
「千早のいるところからそんなに遠いところではないけど、会えると信じて、近くまで移動するよ。行ってよかったら教えて。すぐ行くから!」
「う、うん、いま看護師さん、私の親に連絡しているみたいだから、ちょっと時間がかかるかもしれないけど、待ってて。」
「うん!いいよ。よかった・・・、ホントによかった・・・」
「・・・じゃあ、いったん切るね。」
「うん、連絡待ってる。」
切ってホーム画面を見ると、15時半をすぎたところだ。ウィジェットが今日の日没が16時であることを表示している。
スマホの充電器をつなぎたいのだが、コンセントの場所がわからなくてキョロキョロしているところに、日野さんが戻ってきた。
「あ、コンセントね。枕元、というか壁のところだけど、届く?」
後ろを振り返ると、上の方にあった。右腕が使えれば、届きそうだが、左手では体がねじれるためうまく届きそうにない。
「ハイ、貸して。」
ザクっと挿してもらい、スマホもエネルギーを溜め始める。
「さて、永野さん立てるかしら、それから寝てばかりじゃつまらないだろうから、車椅子に乗る練習とか、あるいは、それを外した方が快適だと思うのね。」
日野さんが指をさした管は、排泄物用の管で、導尿カテーテルと呼ばれるもので、言われるまで気づかなかったけれども、言われてみればすごい違和感を感じる。
「あ、私の友達がここに来たがっているんですけど、どうなんでしょう?」
「うーん、ただの友達なら今日じゃなくてもと言いたいけど、そうじゃないんでしょ?」
「ま、まぁ。」
「いいよ、ここ中央病棟の6階だからステーションに話しを通しておくね。何ていう人?」
「高旗彩です。」
「はいよ~。ちょっと車椅子取って来るね~。それから、お母さん、これから来るってさ。それから、年末だから、正面玄関が開いていないから裏手の救急入口のところの守衛さんに話して来てもらってちょうだいね。」
「ありがとうございます。」
日野さんが出て行ったのを見て、電話をかける。
「あ、彩?来てもいいって。」
「うん行く。あと10分くらいで着くと思うよ。」
「ありがとう。」
「うん、待ってて。」
「正面玄関が閉まってるから、救急入口から来てちょうだいって。」
「うん。わかった。」
「うん、待ってる。待ってるから。中央病棟の6階ね。」
ほどなくして、車椅子を押して日野さんが戻ってきた。
「めまいとかはない?」
「はい、ないです。いまのところは。」
「さて、脚と腰と左腕は大丈夫そうだから、これに乗り換えられるかやってみようか。こっちに来れる?いつもベッドから立ち上がるのと同じ要領でいいよ。」
腕とお尻をもぞもぞ動かして移動する。
「どうだろう、立てるかな?立てれば問題ないのだけど。立ったらくるっと回ってここに腰を下ろすだけだからね。」
日野さんは、私の正面の割と近いところに立って、倒れたときの準備をしてくれているようだ。
「ゆっくりね。」
「はい。」
ちゃんと立てるかどうか、息をのむ。なにも覚えていないのに、どうしてこんなに私は消極的になっているんだろう。いつもの通り、一歩踏み出せばいいんだ、そう思ってゆっくり立ち上がって、何秒か体のバランスがどうか、動きを止めてみる。
「大丈夫そうです。」
「うん、まだ歩かなくていいから。ほら、点滴とかいろいろ管があるでしょ。」
「あ、そうでした。」
車椅子の方にゆっくり腰をおろして、また立ち上がってベッドに戻る。この1往復の動作を終えて、とりあえず一安心といったところか。寝ていたのが数日だから普通はないだろうけど、膝がガクガクしたり、筋力が弱っていたりして、カッコ悪いところを見せなくてよかったと思っているのが、実は何よりも正直なところで、きっと自分以外の人が思っていることはコレではないのだろうな、と思った。
「日常生活の動作は大丈夫だから、気持ち悪いと思うけど、もう少しガマンしてね。」
「はい。」
「あとは、何か聞きたいことはある?」
「いえ、特にありません。ありがとうございます。」
「じゃあ、戻ってもいいかな。」
「はい、ありがとうございます。」
日野さんは、何でもいいから用があったら呼んでね、と軽く手を振って引き戸を開ける。開けると別の看護師さんがいたようで、外に出て何か話して静かになった。
お、きたきた。いちおう、面会時間は19時までって決まりはあるけど、この病院はそんなに厳しくないから常識の範囲内でゆっくりしていってね。
引き戸がまた開いて、誰かと、顔を向ける。
「千早!」
私を見るや否やリュックを放り投げて私のところに駆け寄ってきた。
それから、彩は両手で私の頬を押さえて唇を重ねて来た。懐かしい柔らかい感触がして、何か、涙が溢れてきた。
「・・・心配かけてゴメンね。」
「いいって、謝らないで。よかった、本当によかった。」
「ゴメンね、本当は彩のこと、ギュッとしてあげたいんだけど、、、」
「ウチもギュッとしてあげたいんだけど、ダメそうだね。」
「それにしてもヒドい格好だね。」
自分の管が何本か出ている惨めな姿と装具の姿を改めて見ると、なんだか笑えてきて、病室に私たちの笑い声が響く。
思い出した。私は、、、そうか。彩のぬくもりを感じられることが家族に知られることで、特別な秘密から悪い方に変わってしまうことが急に怖くなったような。そんな気がする。
彩は、あっ荷物・・・と言ってさっき放り投げた荷物を近くのソファーに置きなおしてから、私の右隣に腰を掛けて、左腕を私の腰に回して右肩に頭を乗せようとしてから、これはダメだね。と言ってベッドにバタンと仰向けに倒れる。
「私、3日もお風呂に入っていないから、きっとベッド臭いよ?」
「そう?」
彩は枕に寄っていって、顔をうずめる。
「ちょっと~。」
「いいじゃないの。・・・うん、千早の匂いだ。安心する~。」
「ねぇ。」笑
「なんなら、その、黄色い液体のバッグもらっていこうか?」
「バカじゃないの!恥ずかしいから、見るな!」笑
いろいろネタにされて、すこし腹立たしいけど、今の私の気持ちには十分助かる。
そうしていると、病室のドアが開いて、主治医と私の母が入ってきた。
「あら、お揃いね。」
「あ、あ、お邪魔してました。ごめんなさい。じゃ、じゃあ、ウチはこの辺で、、、」
「え、彩、帰っちゃうの?」
「いいよ、いても。」
「そ、そうですか。」
主治医からこの後のスケジュールについて説明を受ける。身体に重大な損傷がないかどうか知らない間に調べられていたらしいが、数日経ってどのように変わったか、あるいは変わらないか、明日検査をしてそれで一安心ということだが、私が水泳を始めたというか、やっていることもあって、記録に絡むような状態の場合、骨をワイヤーで固定したほうが予後がいいこともあって、意識のないうちに手術を受けていたらしい。肩の違和感はこれだったのか。
骨がベストな状態で折れたわけではなかったそうで、退院は年明けになるらしい。
とりあえず、私たちの日常は戻ってくるようだ。
一連の説明が終わった後、今日の夕食はなんとか手配できたそうだから、私の身体につながっている尿路管は取ってもらえることになった。点滴の方は、生理食塩水の瓶からは外され、管だけを手の甲のところで必要最低点の長さにしてまとめられた。まだ必要に応じて静脈注射の可能性があるからのようだ。
お風呂は明日、MRIの検査が終わってから考えるということになった。
「千早の荷物取って来るね。」
「あ、ウチも手伝います。」
「あら、ありがとう。」
そう言って2人は部屋を後にした。
「今は、痛み止めが効いているはずなので、何でもないと思いますが、切れるときっと痛くなってきますから、薬を出しておきます。1日3回までです。なるべく食後がいいと思います。あと、普段は仰向けで寝ていますか?」
「いえ、横向きです。」
「ああ、それはちょっとツラいかもですね。なるべく仰向けで腕が下がらないようにクッションか何かの上に置いて寝るといいです。」
「けっこう、めんどくさい骨折ですね・・・」
「そうかもね。」
「あの、水泳は、、、元通りできるようになりますか?」
「プロの人でも競技に復帰している人はたくさんいるけど、春くらいまではかかるかもね。リハビリとか一生懸命やらないとね。まずは骨がくっついてもらって、中に入っている物が取れてから、の話だね。いろいろ急ぎたいと思うけど、焦らない焦らない。これが大事です。まだ若いから、骨が元通りになるのは早いと思う。回復力を信じましょう。」
私のための寝具や肌着、洗面道具など必要な物が運ばれ、当面のここでの生活用品が揃った。
「今日は、お父様はおいでになりますか?」
「いま、外国の方に出張していまして、現地の交通の便が良くなくて明日の夜にこちらに着くと連絡が入っています。」
「そうでしたか。・・・ええと、明日のMRI検査の予定ですが、午前10時からになっています。お母様は来られそうですか?検査時間は1時間くらいかと思いますが、診断結果まで少しお時間をいただきます。」
「はい、大丈夫です。検査が終わるころまでには何とか。」
「とりあえず、意識が戻って、何でもなさそうでよかったですね。では、私はこの辺で。また明日よろしくお願いします。」
「ありがとうございました。」
そう言うと医者は部屋を出て行った。
「じゃぁ、私はそろそろ帰ってもいい?」
「うん、大丈夫。」
「彩ちゃんはどうする?乗っていく?」
「あ、いえ。大丈夫です。」
「そう、じゃあ、ごゆっくり。来てくれてありがとうね!」
母は運び込んだ荷物の入っていたカバンをまとめて出て行った。
しばらくの間、沈黙が流れて、
彩はスマホを取り出してホーム画面をのぞき込んで、
「あ、もうこんな時間。そろそろ帰ろうかな。駅までちょっと距離あるし。」
「もう帰っちゃうの?」
「ここに泊まったら怒られるよ。」
「うん・・・」
「また明日、来るから。」
「うん。絶対来てね。」
彩は私の正面に立って、左手で右のほほを触り、右手で顎を覆ったかと思うと、ゆっくりと顔を近づけてきた。私は、彩の唇がナナメに見えたところで目を閉じ、唇が重なったところで、
「んっ・・・」
彩の舌が私の唇の間に触れた。私も舌を絡ませる。
しばらく私たちの息が荒くなり、彩の両手のぬくもりを顔で感じながらそうしていた。
ゆっくり彩の唇が離れていったところで、私は目を開ける。
照れくさいようにもみえる、ニコニコした彩の顔があった。
「・・・じゃぁ、今日は帰るね。」
「待って、帰る前に、ギュッとして・・・」
「うん。」
彩は私の頭を抱いて、後ろを上から下にゆっくり撫で下ろす。
彩のお腹のところに額を擦りつけながら
「よくなったら、もっとキツく抱きしめてね。」
「うん。」
「じゃぁね。」
彩は荷物を取って、そっと手を振って「明日ね」ともう一度言って出て行った。
しーん、とした時間が流れる。
帰りたくなかったけど、早足で病棟から建物の外に行けるエレベーターに向かうウチ。ナースステーションの前でエレベーターを待っていると、看護師さんに声をかけられる。
「あっ、永野さんのお友達の」
「高旗です。」
「高旗さんね。もういいの?」
「いつまでも居るわけにはいかないので。」
「そうね。」
後ろにある銀色の大きな箱が目に入り、なにやらいい匂いが漂ってくるので
「それに、そろそろ千早のご飯の時間じゃないですか。」
「あら、わかっちゃった?」
「ウチが帰るまで待っていてくれたんですね?」
「ん~、まぁ、そんなとこ?・・・それとも、あなたが持っていく?」
「いえ、今度こそ、帰りたくなくなっちゃうので、今日は・・・」
「うん、わかったよ~。・・・また来てあげてね!」
「はい、さようなら。」
看護師さんはそのカートの中からご飯が乗ったトレイを取り出して千早の部屋の方に向かって歩いて行った。エレベーターのドアが開き、下に降りて出口を目指す。
18時近くなって、もう外は真っ暗。昼間は弱かった風も、すこし肌を刺すくらいの北風が吹いている。
明日、また明日。そう言い聞かせて病院をあとにした。
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