13. 長居競技場・東京体育館

 10月16日朝。城崎駅。

 修学旅行と言えば他の学校は飛行機に乗って行くのだが、この高校は伝統で行きも帰りも寝台列車。しかし、近い将来、高速鉄道が通るために、このダイヤもなくなってしまう。それとも、特別編成を組んでもらって寝台列車を運行してもらうのかどうかはわからない。

 飛行機の旅は目的地に着くまで速くていいが、この狭い国ではベッドがついているものに乗ることなどそうそうないし、これからもどんどん廃止の方向になるに違いない。私たちはとても貴重な「情緒ある旅」の経験をできる世代だと思う。


 集合時間にはだいぶ早いのだが、駅の喫茶店でお茶しながら本を読んでいようと思って、わざと早く来た。

 アールグレイの少し甘めにしたミルクティを持って、線路の見える窓側の対面2人掛けの席に行き、肩掛けのバッグを向かいの席に置いて、もう一方の席に座る。

 本はもしかすると足りないかもしれないので何冊か持ってきたのだが、読み切ってしまうかどうかは道中、同じ班でどう話が盛り上がっていくかによって変わる。

 そういえば私と彩がこういう関係になったのは、修学旅行の班決めの後だったので、基本行動のグループは別々なのだが、最後の2日半の班も人数も制限のない完全自由行動の日は、私は元々誰ともグループを作る予定もなく、ひとりで行動するつもりだったので、ここは都合よく彩と自由行動日を過ごせることになった。

 今日、明日、明後日の辛抱・・・。


 今回の行程は13時にこの駅を出発した団体列車は17時ころに乗り換えの駅に着いて、そこから寝台列車に乗って明日の朝、大阪に着く。2日目は大阪から姫路に移動して、広島泊。3日目は奈良に移動して大阪泊。4日目も大阪だが京都。5日目は東京。6日目に東京から寝台列車に乗って帰ってくる、そういう行程だ。

 自由行動の日は実質2日半。


 紅茶1杯で粘りに粘った女子高生が、そろそろお昼ご飯を食べにハンバーガーショップに移動しようと思ったころ、スマホがメッセージの着信をお知らせしてくる。


 千早~ もう着いてる?

 うん、本を読んでた。

 お昼どうするの?

 ハンバーガーかなー。

 あ、いいね。ウチもそうしようかな。どっちのハンバーガー?

 うーん、気分は”バーガークイーン”だけど、”コアラ”のシェイクも捨てがたい。

 歩くの面倒だからクイーンにしとけば?

 あー、言えてる。

 じゃ、お店の前で待ってるね。


 カップを片づけて店を出る。エスカレーターを降りて1階の待合広場の一角にバーガークイーンはある。

「昨日ぶり~。」

「ずいぶん早く来てたの?」

「うん、2時間くらい前からいるよ。本を読みながらミルクティとかオシャレじゃない?」

「勉強もできんウチには、そんな落ち着いたことは無理だ。」


 彩はパンケーキセットとフライドポテトを注文し、私はホットドッグとミネストローネ。4人掛けの席に隣同士に座る。

「千早、フライドポテト食べる?」

「うん、いいの?」

「いいよ。あーんして~」

「なにそれ。」笑

「ふふっ」


 時間が来たので、集合場所である1階の改札口に移動して、全員集合したのを確認すると、団体用のゲートからホームに移動。少し経つとヘッドマークや行先窓に「団体」と書かれた薄紫色の列車がホームに滑り込んでくる。

 列車に乗り込む。まもなくして発車。

 進行方向右側が山、左側が海となる。この路線は〇〇富士というように成層火山に分類される山や、成層火山が激しい噴火によって山体が吹き飛んだ山、その後に山頂カルデラに溶岩ドームが形成された山々が続き、非常に多くの温泉が存在する。

 私は終盤に見える左右に峰のある弧状の山を久しぶりに見たかったので、左側の窓側席に座った。

「あ、千早~、席は班ごとだよ~」

 あ、ついついいつものクセが。

「ゴメ~ン。」

 あいにく、私の班の席は進行方向右側だったので、通路側に座った。

 1車両に1クラス、私の5組は8両編成の後ろから3両目、列車が入ってきて、私たちの目の前にドアがくる頃には、どんな編成の列車なのかを認識できた。3両目にはかつて車内販売で使われていた車両がついていて、この車両に弁当などの物品が詰め込まれていると思われる。小学生のころにこのタイプの列車に乗ったことがあったので、この車両の窓の下に簡単な椅子が格納されているのを知っている。時機が来たらここであの山の写真を撮ろうと思った。


 しばらくして、班でやっていたトランプもキリが良くなり、ちょっと山の写真を撮ってくるね、とカメラとペットボトルを手に4組の車両を抜けて例の車両へ。

 左の方が少し高く、窪みの先の右の峰が少し低い山、月刀山がっとうさん。この山の大噴火は千年単位で前のことだが、山体の植生は海に面していることもあって、風が強いためにほとんど回復していない。したがって5合目より上はまだ灰色の山肌だ。

 活火山で、この山の周りには温泉や、麓の水はけが悪くなってしまったり溶岩でせき止められたりした影響で大きな沼地がある。大きな窓は二重窓になっている。外側の窓は線路から舞い上がる鉄粉で汚れてしまっていて、いい写真にならないから、乗降ドアのところにレンズをくっつけて、できるだけ反射を抑えて写真を撮り、しばらく眺めていたかったので、例の椅子を引き出してお茶を飲みながら景色を眺めることにした。ここから30分ほど経ったら、乗り換えだ。


 通路のドアが開く音がした。誰か来たようだ。

「あっ、いたいた。」

「うん、この山を見るの、久しぶりなんだ。」

「そうなんだ。」

「そこにもう一つ椅子あるよ。」

「これは知らなかった。」

「でしょ?知っている人しか知らない、隠し機能。」

「班の人たちは?」

「うん、大丈夫。」


「ねぇ、写真撮ろうか。」

「うん、いいよ。」


 カメラをかつて立って飲食用に使っていたと思われる、台の上において、後ろの窓を背景に私と彩の二人きりで肩を寄せ合った写真を撮った。画角がナナメなのと、台が高めなので月刀山は全く入らず、線路わきに生えている草丈の高いものがわずかに写っているだけだが、大事なのはそれではない。


『上城崎高校の修学旅行のみなさま、ご利用ありがとうございます。この列車は、あと15分ほどで箱崎はこざき、箱崎に到着いたします。お忘れ物をなさいませんよう、そろそろお仕度ください。箱崎からは寝台列車へのお乗り換えとなります。ただいまのところ、お乗り換えの列車は降りてすぐ向かい側のホームで皆様をお迎えする予定となっております。本日は、みなさまの思い出に残る旅行の最初のお供をさせていただき、乗務員一同、大変喜ばしく思っております。無事に全ての行程が終わり、良い思い出とともにお戻りになることを心より願っております。本日は、ご乗車ありがとうございました。あと10分少々で、箱崎に到着します。』


「あ、もどらなきゃだね。」

「うん。」


 かなり久しぶりに箱崎に降り立つ。この駅は機関車交換や、この地方の鉄道網の歴史の起点となっているため、様々な路線がここに一度引き込まれ、他方面に繋がる、かつての交通の要衝だった。

 従って、ここで列車はスイッチバックする。

 ホームでみんなでワイワイしていると、群青色に金色の帯の入った列車が推進運転されて、最後尾の窓から係員が無線機でこれから先頭になる機関車にブレーキのタイミングや目視距離を指示している様子が見える。

 やがて、連結器が伸縮する大きめの音を立てて列車は止まり、ドアが開く。

 ウキウキしながら列車に乗り込むと、通路を真ん中にして3段ベッドが壁のようになって、両側にそびえる。

 使うベッドは指定されてはいないが、キャスター付きの荷物を持っている人は優先的に下の段になり、私は天井の高い下の段がよかったのだが、肩掛けで荷物を持って上がれるので、まぁ、仕方ない。現代と昔の移動手段と方法が変わったせいなのだから。

 17時08分、長い汽笛が鳴り響くと、ガタンと列車が大阪に向けて動き出した。

 18時になると、弁当が配られはじめ、下の段に集まって通路を挟んでみんなと食べた。

 20時、ひと通りゲームをし終わり、宴もたけなわ。シャワー設備はないので、顔を洗ったり、体を拭きに行ったり、寝る準備をし始める人がちらほら。

 私は洗面台が空いてからでいいや、と思って、洗面道具だけ出して、寝台のカーテンを閉めてジャージに着替えて本を読むことにした。


 しばらくして、通路が談笑で賑やかになる時はあるが、バタバタと移動する足音が聞こえなくなったので、もう顔を洗ったりしに行っても大丈夫かと、洗面所に向かう。

 引き戸を引くと、小さなテーブル付きの4人掛けスペースが両側に2つあり、先生たちが集まって談笑していた。

 顔を洗って、通路を挟んだ向かい側のトイレのドアの左側を見ると『紙コップ』と書かれたものを発見。なんだこれは、と歯車を縦に回すと、中の折りたたまれた紙コップがカードみたいになって出てくる。

 開くと筒状になって、緑のボタンを押すと冷水が出てくる仕組みだ。これは珍しい。写真を撮らねば。

 トイレを済ませて自分のベッドに戻って、スマホを少しいじって、明日の天気について調べた後、眠くなるまで本を読もうと本を開く。


『修学旅行の皆様、ご利用ありがとうございます。時刻はまもなく22時です。通路の電灯を暗く致します。お手洗いなどで寝台の上り下りの際にはお足もとにお気を付けください。また、車掌は最後部の車掌室にて休憩を取らせていただきます。ご用の際は恐れ入りますが、こちらまでお越しください。それでは、みなさまごゆっくりお休みください。』


 パッとカーテンの外が暗くなる。

 そっとカーテンの隙間から顔を出して外を眺めると、枕元の電灯が点いているところと、もう消えているところ、ベッドから、騒ぐ声も聴こえてくるが、列車の走行音がそれを書き消して、相対的に気にならない程度の音量になる。

 昼間の列車の走行音を聞いていると、眠くなるのがあんなに早いのに、寝台列車は意外と眠くならないものだ。

 毛布を被ってしばらくもぞもぞしていると、いつの間にか眠りに落ちていた。


 天井を叩く何かの音で目が覚める。もう朝だろうか、とスマホを見ると、1時間くらいしか経っていなかった。さっきのテーブルのある所で本を読もうと思って、スマホと本とお茶を持ってハシゴを降りる。

 みんなほとんど寝たようで、ベッドの明かりが点いているところはほとんど見当たらない。

 さっきまで談笑していた先生方もみんな寝たようで、テーブル席には誰もいなかった。窓には雨のナナメ線がついている。さっきの天井を叩く音は雨の音だったようだ。スマホのアプリで気象レーダーの画面を開くと、ちょうど寒冷渦が通過しているようであったが、今のところ落雷による停電や強い風は考慮に入れなくてもよさそうだ。

 今回持ってきた本は、宮内からおススメされたガンアクションもの。珍しくファンタジー小説だ。すごい長い連載の一角らしく、英語版の本も出ているらしい。調べると、英語対訳版もあるらしく、これは英語の勉強になりそうだ。

 英語対訳版の本、今年に入って1冊読んだな。ダニエル・キイスというミステリー作家のアルジャーノンに花束を。きっかけは、障害で発語を自由にできない部分の日本語の表現を原文の英語ではどのようにしているのか、これに興味があったからだ。

 こういう細かい言葉の表現の仕方と言葉が持つ微妙なニュアンス、この選び方のセンスで作品の内容がバタフライ効果で最終的に大きく変わるのが面白い。この考え方を整理してみると、将来、職業として成り立つのかどうかわからないけれども、翻訳家というものを目指すのも面白いのかな、と思う。

 雨雲の下を抜けたようで、空には満月が終わって欠け始めた月が輝き、海に光の筋を描いている。

 ブーンとスマホが鳴る。


 千早、寝ちゃった?

 いや、ちょっと寝たけど前の車両の後ろにあるテーブル席で外を眺めていたところ。

 誰かいる感じ?

 誰もいないよ。

 んじゃ、行こうかな。

 おいでよ。

 うん、待ってて。


 少しして彩がやってきた。

「いらっしゃい。」

「きちゃった。・・・ハイ、おやつ。」

 何かがテーブルの上に置かれた。ポッキーを持ってきたようだ。

「太るよ?」

「いいじゃん、旅行の時くらい。その分、運動すればいいだけの話でしょ。」

 私が袋に手を伸ばすと

「お?食べるの?太るよ?」

「茶化すなら、食べない。」

「あ、怒った?」

 無言で小袋を破って1本

取り出そうとすると、

「ねぇ、ポッキーゲームやろうよ。」

「はぁ?」

「ねぇ、誰もいないじゃん。」

 彩は私が持っている袋から1本取って、隣の席に移ってきて口に咥えてこっちを向く。

「これやらないとポッキーは有料になりまぁす」

「もう・・・」

 端から一口分ずつ顔が近くなっていく。3口目くらいで私が止まると、彩は一気にガブっと来て、私の後頭部を押さえて唇を重ねてきた。あの交差点の時よりずっと長く。心臓が高鳴る。誰かに見られたらどうしよう、通路のドアの取っ手に視線が泳ぐが、彩のふわっとした髪の匂いに体の力が抜けていく。


 彩はようやく手を放して、元の距離に戻った。

「ちょっ、びっくりするじゃない。」

「ゴメン、旅行でこんなに近くにいるのに、壁があるみたいで、ウチ、全然ガマンできなくて。」

「もう・・・。私も・・・だけどさ・・・」

 まだ心臓が鳴っている。私だって、ずっと一緒にいたいよ。

「ああ、スッキリした。」

「もう、私、寝れなくなるよ。どうしてくれるの。」

「じゃぁ、おやすみのチュウする?」

「バカ・・・」

 左の窓の外と月に顔を向ける。

「月がキレイだね。」

「・・・?彩、文学書でも読んだの?」

「は?なにそれ。」

「私の思い違いだったか・・・」

「は?は?気になる。」

「・・・ホントに知らないの?」

「は?」

「月がきれいですね、は夏目漱石がI love youをこうでも訳したらどうだ?っていう話!」

「・・・この状況で使うのは、アレだな!」

「そうだよ、愛の告白だよ。」笑

「・・・愛までは行かないかもしれないけど、千早、好き。」

 後ろから腰に手を回してきて、耳元で囁く彩。

「ちょっとは知的になったのか、と思ったのに。・・・いいけどさ。」

「千早、ココア飲む?」

「・・・チョコにココア?」笑

 紙パックのココアに彩が持ってきたストローをもう1本刺して、2人で飲む。

「ふふっ、おいしいね。」

「おいしいね。」


 角に残ったココアを最後まで2人ですすったころ

「そろそろ寝ようか。」

「そうだね、ここが家だったらよかったのにね。」

「うん。」

「おやすみ」

「おやすみ」


 そんな会話を交わして寝台に戻る。彩のところはもう一つ後ろの車両らしい。

 ふぅ、とため息を一つついて私は目を閉じた。


 外の小さな窓から光が入ってくる。眩しくて目を開けると、左手に大きな海が見える。スマホの時計を見ると7時前。光が入ってくるということは、東向きの窓だが、これが日本海だとすると北側で太陽の光が入ってくることはあり得ない。

 どこだろうと、地図アプリを起動すると、見えているのは琵琶湖らしい。大きい、これが琵琶湖。朝日に湖面がキラキラ光って、とてもキレイだ。だが、写真に収めるにはすこし大きすぎる。

 まもなくして、朝ごはんが配られる。どこで積み込まれたのか、サンドイッチだ。寝ている間にどこかで停車したのだろう。


『みなさま、ご乗車ありがとうございます。この列車は15分ほどで大阪、大阪に到着いたします。お忘れ物のないようにお仕度下さい。寝台の枕の下などを今一度確認願います。今日の近畿地方は一日、晴天の予報です。楽しい旅行となりますよう、心からお祈りいたします。』


 大阪駅に着くと、降りたホームで人数確認が行われ、そのまま移動して新幹線に乗り換え。

 姫路駅に着いたのは約1時間後。ここで旅程に入っているのは姫路城だけなのだ。次の新幹線は14時ころで、姫路城を見学した後は、少しの間自由行動となる。姫路駅の北側には商店街があり、真正面には真っ白な城が建つ。

 姫路城も本丸の広場や城の中に作られた様々な戦略上の工夫、どれも見事で、見どころはいっぱいだったのだが、全部とも半分でもなく、結構近くに彩がいるのにとても遠く、どこか上の空になって修学旅行ではない自分がいる。同じグループだったらよかったのになぁ。明日いっぱい、何とかガマンすれば・・・。

 でも、大丈夫か私。

 今日、あとは広島に移動すれば終わりだから・・・。


 14時過ぎの下りの新幹線に乗って広島へ。およそ1時間。普通、修学旅行と言えば鉄道とバスなのだが、今回の姫路・広島は今年の修学旅行からのコースで限界まで足を延ばしたため強行軍になってしまったらしい。夕方前に広島に入って、明日は原爆資料館と宮島を見た後、そのまま大阪へ。バスが手配されているらしい。

 ホテルと駅はそれほど離れていないとはいえ、荷物の問題があるし。


 左手に見え、傾きかけている陽に反射してキラキラ光る海を眺めながら、うつらうつら。暖かくて、天気も良くて、中国地方はいいなぁ。と思っている間に広島駅に着いた。

 駅近くのホテルに、ゾロゾロと団体が入っていき、部屋のカードキーが配られ、あとは夕食までの数時間、自由行動を宣告される。同室の他の3人はそれぞれ別の予定がすでにあるらしく、私はヒマなのでカメラと本を持って街の中を歩くことにした。

 別に仲間外れにされているとか、そういうのではなく、同じクラスでも、たまたま同じグループの関係がドライなだけだ。途中で班行動がなし崩し的にほかのグループと入れ替わったりすることって、あるでしょう?


 さてと、と思ってスマホで地図を見ていると、江波というところに気象館があるのを見つけた。これは、気象マニアの血が騒ぐ。16時半までに入らなければダメらしい。ナビ通りの時間で行っても、かなりギリギリだが、ダメでも建物だけは見ておこうと急ぐことにした。

 バスの方が速いとナビでは出るが、路面電車にするかどうするか。

 いや、路面電車だ。

 ホテルからは広島電鉄の稲荷町駅が近く、目的の6号線の出発まであまり時間がない。


 慌ててホテルを出て、電停へ。

 電停に着くと、電車が接近しているというアナウンスが流れていた。おーヤバいヤバい。運賃の支払いには全国の交通系ICカードが使えるようで、前に東京に行った時に作ったPASMOがあるので使えそうだ。残金が足りなかったらチャージもできるだろう。

 電車が見えてきたので、乗るぞとベンチから立ち上がると、彩がすごい勢いで走ってくる。さすが陸上部、速いなぁ。と見ているうちにあっという間に、私の目の前に来た。


「はぁ、はぁ、間に合った~。」

「そこのコンビニでお菓子買ってホテルに帰ろうと思ったら、千早が見えてさ。」

「うん、ちょっと出ようと思って。」

「ウチも行っていい?」

「いいけど、グループとかは?あと、つまらないかもよ?」

「うん、そこらへんは、全部大丈夫。」

「カードはある?」

「あー、持ってないや~。現金使う。」

「うん。じゃあ乗ろう。」


 後ろの方の席が空いていたので、後ろの席に座る。

「ねぇ、どこまで行くの?」

「終点までだね。30分くらいだと思うよ。そこから、江波気象館っていうところをたまたま見つけてね。着く時間、閉館近いから、もしかしたら無駄足になるかもしれないんだよね。」

「その時はその時だね。」

 彩はコンビニ袋をごそごそとあさって、ハイとお茶をくれる。

「あ、ありがとう。」

「よかった。少しでも二人きりの時間ができて・・・」

「ねぇ、原爆ドーム。」

「うん。」

「前に、テレビのドキュメンタリー番組で言っていたけど、原爆ドームって年々、広島にとって小さく見えるようになっているって比喩されているらしいよ。」

「小さく?」

「うん。あの日から時が遠ざかって風化していく記憶と、周りの建物が街の発展に合わせて大きくなっていくから、相対的に低い建物は小さく見えてしまうっていう話。どっちも仕方のない話なんだけどね。」

 話し終えると、ギュッとお尻半分くらいあった隙間を詰めてこっちに寄ってきた。それから耳元で、

「ウチらは、そうなったらイヤだな。」

と囁き、

「そうだね。」

と、彩の左手を握る。


 20分ほど流れていく街の景色を見ながら電車に揺られていると、終点の江波に着く。

「あ、今日は起きてるんだね。」

「知らないところの電車で寝られるか!」笑

 時計を見ると16時20分。入館は16時半まで。周辺にタクシーがあるかなと見回すが、なさそう。ナビではバスに乗ってもそれほど変わらないという。

「あちゃー、ホントギリギリだ。ちょっと走っていい?1kmくらいあるんだけど。」

「いいよー。」

「悪いからコンビニの袋預かるよ。」

「ありがとう。」

 彩の袋を私のリュックに入れて南に向かって走り出す。彩が陸上部で良かった。

「はー、ありがとう、もう疲れた!」

 手前の公園のところまで来たところで、私の息が上がった。

「なんだー千早、弱いな~。」

「私、運動部を抜けてどれだけ経ったと思ってるの~。」

 ハァハァ言いながら公園を歩く。ナビでは15分と言われていた時間を、おかげで5分短縮。

 ボロボロになりながら、気象館の入口に行くと、外の物を片付けている職員がいた。


「す、すみません、もうダメですかね?」

「あら、この辺じゃ見ない制服の子だね。」

「え、ええ、ちょっと修学旅行で自由行動の時間ができたもんですから、私の興味のあるところが閉まると思って、慌てて来たんですけど。」

「へぇ、わざわざありがとう。本当はダメだけどいいよ。入りなさい。5時までだけど、ま、足りなかったら困るから6時くらいまで待ってあげるね。出るとき、誰かに声をかけてね。」

「あ、彩の入館料いいよ、私、払う。」

 100円払って入館。

 私たちが入ると、職員さんは、入口のドアの鍵を閉めた。

 さっそく2階に上がると、いくつかの展示コーナーがあるのだが雲の中を再現できるというところに入ってみた。ボタンを押すと、あっという間に雲が部屋の中に充満する。

「おお~。これは。」

「すごいね、雲の中みたい。」

「いや、これは雲だよ。」

 やがて、雲は回転し始めて真ん中にぽっかりと空洞ができる。

「ねぇ、写真撮ろう?写真。」

 私はスマホを取り出して、彩にくっついて自分たちに画面を向けて撮る。

「ブロッケン現象とか白虹も撮れたらいいのにな~。でも距離と光量で無理だよな~。」

「なにそれ?」

「あ、あとでね。」

「うん。」

「にしても、この渦の真ん中で2人でギリシャ神話に出てくるような女神さまのコスプレして写真撮ったら面白いだろうな。」

「なに、千早、そんな趣味があったの?」

「なんかさ、ファンタジーっぽくて良くない?」

「この前、水の底がいいとか言ってたと思ったら、今度は天の上。ははは」


 屋上に行くと、夕日に照らされた広島の景色が北側に広がる。今日の日没は17:31。

「キレイだね。」

「うん。」

「ウチ、思ったんだ。」

「なに、急に。」

「知っている日本語の表現力が足りないなって。」

「?」

「昨日の、月がきれいだねもそうだけど、ウチが千早のことを好きな気持ちは変わらないけど、あれ、本当に意図があって、ツンデレ風に、そうだよ、その通りだよ!って言ったら、きっと千早を悶絶させられてたんだろうな・・・って。」

「バカじゃないの。」笑

「ウチさ、脳みそが筋肉じゃん?だから、教養のないことしかできないわけよ。」

 急にこっちを向いて、私のことを抱き寄せる。背中を強く、ギュっと。

「千早の髪の毛、今日もいい匂い。」

「ずるいなぁ、彩は、いつも・・・」

「あったかい。」

「うん。」

 しばらく私たちはそうして、ふと飛行機の形をした風向計に目をやると、さっきまで南を向いてプロペラをゆっくり回していたのが、西とも北ともつかない方を向いて止まっていた。

「あ、今何時かな?」

「もう5時過ぎたかな。」

「そろそろ行かないと?」

「うん、でも、あの風向計が北を向いて回り始めるところを見たいな。」

「え、何それ。」

「海陸風、って知ってる?・・・わけないよね。」


 日中、太陽が出ている間、表面が温まるのは陸の方が海よりも早く、陸側では上昇気流が発生するために、それを埋めるように海から風が吹いてくる。しかし、太陽が沈むと陸地は海よりも冷えやすいために、今度は相対的に海の方が陸よりも暖かくなるため、風向きが同じ原理で陸からの風になる。しかし、夜は、昼よりも温度変化が当然少ないので、昼よりも風が弱いのだ。

 その転換点をこの瞬間に目撃できる、一日の天気の動きの中での大きく流れが変わる瞬間が訪れているのだ。


 5~6分待っても風が静穏な状態に変化はなく、ダメかもね?ということで、入口に戻って職員さんに声をかける。

「あら、もう帰る?」

「はい。あの、海風っていつくらいから吹き始めますかね?」

「そうだねぇ~。7時か8時くらいじゃないかな~。」

「あー、いま静穏だったので、今にも吹いてくるのかと思いましたけど、見られなくて残念でした。」

「晩御飯を食べ終わったころに吹いてくるんじゃない?」

「そうかもしれませんね。」

「はい、無理言って開けていてもらってすみません。ありがとうございました。」

「いいよ。またゆっくり見に来てね。そこの公園、いつでも見ごろの花とかあるからね。あ、帰りにこれ、食べなさい。」

「え、いいんですか。ありがとうございます。」

 広島名物のもみじ饅頭を4つ受け取って、戦前に建てられ、今みたいに多少カラフルだけど真四角の建物ばかりのものではなく、洋館風のデザインが取り入れられ、原爆で一部、変形したりと被害を受けた建物であったが、素敵な佇まいで今も残っている気象館を後にした。

「広島の街を眺める私たちの後ろ姿、撮りたかったな~。三脚を持ってくれば良かったよ。」

「また来ればいいじゃない。」

「そうだね。いつになることやら。今日、この日の、この瞬間を撮っておきたかったな~。次は制服の後ろ姿じゃないだろうし。」

「大丈夫、制服じゃないかもしれないけど、また来れるよ。」

「うん。私、幸せ。」

 窓側に座った彩に幅寄せする。

「お、珍しいね。」

「たまにはいいじゃない。」


 同室のリーダーからメッセージが入って、夕食は18時半から食べられるそうだ。思い付きでちょっと遠くまで行って帰っている途中だから、遅れても10分前後なので間に合わなかったら、適当に理由をごまかして先に行っててと返信しておいた。

「ふぅ、危ない危ない。じゃぁまた後でね。」

 私と彩は部屋の階が違うので、エレベーターの中でぎゅっと抱き合って、私が先に降りた。

 なんとか同室の人に理由をごまかしてもらわなくても良い時間に戻ることができたが、どこに行ってたのとかいろいろ聞かれた。で、行先を説明すると、気象マニアだから仕方ないね。ということになった。

 この数時間の間にそれぞれがどこに行って何をしてきただとか、そんな話をして食事を摂って、バイキングだったので、デザートを別腹に無理やり押し込んで、苦しい・・・とか言いながら部屋に戻った。

 このあとは就寝時間までは特にすることもなかったので、別のグループの人を部屋に呼んでトランプをして過ごす。飽きたころに、そろそろお風呂に入って寝ようかという話になり、ある者は部屋の風呂を使い、ある者はホテルにある大浴場に行った。

 私はどうするつもりか、と尋ねられたが、今の時間は混んでそうだから、もう少し空いてから大浴場に行くと告げて、部屋で動画サイトを漁ることにした。部屋の風呂からはシャワーの音が聞こえる。

 動画の番組を1本観終わって20分くらい経った頃か、彩からメッセージが来た。


 お風呂どうしたの?

 空いたころに行く~

 え~ まだだったのか。

 そうだよ。大きなお風呂は嫌いじゃないけど、混んでいるのはゆっくりできないからさ。

 私、いまシャワー浴びちゃったよ・・・。

 いいじゃない、別に。笑

 わかった。お風呂入り直すから、行くときに声かけて。

 はいはい。


 ほどなくして、大浴場の先遣隊が帰ってきた。

「千早~、お風呂空いてたよ~。」

「あら、意外。ありがとう。じゃあ私行ってくるわ。」

「ほーい、いってらっしゃ~い」


 彩、大浴場空いてたって。行ってくるわ。


 既読は付いた。


 そんなにすぐには来ないよなと、エレベーターの上ボタンを押すと、下の方からカゴがいくつかの階を経由しながら上がってくる。

 私の階にカゴが着いたとき、無人だった。乗り込んで屋上の一つ下の「大浴場」と書かれた階のボタンを押して、ドアを閉めると上昇を始める。

 2つ上の階で停まり、予想通り、彩が乗ってきた。

「早かったね。」笑

「お陰で、まだ髪が生乾きだ!」

「生乾きの彩を見るのは2回目だ。ふふっ」

「だねぇ~。ずいぶん前のことのような気がするけど、まだちょっとしか経ってないのね。」


 脱衣場に入ると、靴を脱ぐところにはスリッパは一つもなかった。

「誰もいないんだね。」

「そうみたい。」

 別に、そういう関係だし、恥ずかしいものでもないが、全部脱ぐのはちょっと照れるなと思いながら、洗面道具を持って入口の引き戸を引く。


「ホントに誰もいないね。」

「ホントだね。」

 大浴場の窓ガラスから広島中心部の屋上の景色が広がっている。

「この夜景が貸し切りだね。」

「そうだね。」

「ねぇ、千早、頭洗ってあげる。」

「えー。」

「いいからいいから。私、ウマいのよ。・・・たぶん」

「千早、髪伸びたよね。」

 わしゃわしゃされて、頭をマッサージされて、いい気分。

「そうだねぇ。切ろうかなとは思ってるんだけど。」

「えー切っちゃうの?」

「彩、ボブじゃない。お揃いにしたいから、そのくらいにしようかと思ってたんだけど。」

「ウチは逆に、千早くらいまで伸ばして、ポニテにしようかなって思ってたんだけど。」

「あら、意見の相違が。」

「次の大会、千早と同じ髪形で写真を撮って欲しいじゃん?もう高校生活の最後の方だしさ。イメチェンもかねて。暑いからって真夏になったら切るかもしれないけど。」笑

「なるほどね~。わかったよ。切らないわ。」

「楽しみ。」

「彩、シャンプーウマいね。美容師さんみたい。」


「かゆいとこありませんか~?」

「ないです~。」

「流しますね~ お湯の温度は大丈夫ですか?」

「ちょうどいいです~。ああ、とろける・・・。」


 シャンプーを流してもらって、リンスして、一通り洗うところを洗って、夜景の見える横に長いお風呂へ。

「きれいだね。」

「うん。」

「今日、姫路で歩いたし、ここでは走ったし。もう脚がパンパンだよ。」

「ねぇ、千早、あっちの横になれるところに行かない?」

「うん、行く。」


「ほら、うつぶせになって。」

「なんで?」

「いいから。」

 私はうつぶせになると、彩は私のふくらはぎのところに来て、足つぼや筋肉をほぐすマッサージをしてくれる。

「どお?」

「さすが陸上部。筋肉のケアの仕方をよく知ってるね。気持ちいい。」

「寝ちゃってもいいよ?」笑

「溺れるわ。」


 しばらくマッサージされて、とても脚が軽くなった。明日からの移動もがんばれそうな気がする。マッサージが終わって、彩は私の左で仰向けになった。私も仰向けになって、天井を見つめる。

 ふっと、文芸部に入ったころの瞳ちゃんの言葉を思い出して、ふと寂しさが心によぎり、彩の手を握る。

「ん?どうしたの?」

「うん、ちょっと寂しくなって。」

「何かあった?」

「・・・」

「何?気になるよ?言って?」

 彩は顔だけこちらに向けて言う。私も顔を向けて、彩を見る。

「・・・あのね、彩って、陸上の成績がすごいじゃない。」

「うん、まぁ。」

「それでね、高校出たあとの進路ってもう決めてるのかな、”決まってるのかな”って思って。」

「どうして?」

「ちょっと、スポーツ推薦のオファーが来ているっていう噂を聞いたのを思い出して。」

「なんだ、そういう話か。うん、確かに何校かからは来ているよ。体育系の大学のね。」

「そう、、、か・・・じゃあ、そっちに行っちゃうの?」

「進路希望と三者面談はもうちょっと先だから、まだ何も決めてはいないよ。」

「でもさ、、、」

「なに、ウチら付き合ったばかりなのに、もう湿っぽい話?」

 彩の手をもっと強く握って、

「いや、そんなつもりじゃなくて。私も、なにも決めてないんだけど、遠くで離ればなれになってしまうのはイヤだからさ。」

「わかった。そういう話が決まってきたら、千早にも相談するよ。」

 千早は体を起こして、私を抱き寄せた。

「私もさ、そんなに勉強できる方じゃないから、準備をしないと、彩に追いつけない・・・」

「大丈夫、千早はデキる子。千早はデキる。そんな、声をフニャフニャにさせて言うことじゃないって。」

「うん、ゴメン。」

 肩甲骨あたりまで伸びた私の髪と頭を撫でらながら、しばらく彩に身を任せていた。

 それから、どちらからともなく、私たちは見つめあって唇を重ねた。


「千早、そろそろ上がろうか。」

「うん。お風呂、貸し切りでよかったね。」

「そうだね。」

『こんど、うちに泊まりに来て』

 思っていたことを言ったら、言った言葉も同じだった。

 ハモったね。なんて言って、笑いながらお風呂を出る。

「ずいぶん長いお風呂だったね。」

「1時間近くも入ってたみたいね。もう10時近いよ。」

 大浴場を出て、エレベーターに乗って、扉が開くと引率教師御一行様とバッタリ。

「永野と高旗ぁ。もう消灯時間過ぎてるぞ。」

「あ、すみません。広島の夜景がキレイだったので長風呂してしまいました。」

「へぇ~そうなの。」

「いまなら誰もいませんよ。ですけど、先生たち、お酒臭いですから、長風呂はダメですよ。」

「うるさいわ。早く寝ろ!」笑

「おー、こわいこわい。」


 エレベーターに乗って、私たちは別れるまで手をつないでいた。

「千早、明日の大阪からやっと自由行動だね。」

「うん。」

「また明日ね。」

「うん。」


 エレベーターのドアを閉め、カゴは私を下の階に運ぶ。

 もうみんな寝てしまっただろうな。と思って、そーっとドアを開けて中に入ると、まだ電気は点いていた。

「千早、ずいぶん長かったね~。」

「うん、広島の夜景、きれいだったじゃない。それで。」

「確かに。うちらのクソ田舎と違って、電気多いしね。」

「寝台列車もよかったけど、やっと、まともなフカフカのベッドだよ~。」

「そうだね~。明日の目覚ましはセットしてるの?」

「あ、わからない。朝食が、、、?」

「8時じゃなかったっけ。」

「んじゃ、6時半くらいにセットしておけばいいか。」

「うん。」

「それじゃ、わたし眠いから電気消すね。」

「うん、おやすみ。」


 枕もベッドも最高に良い寝心地とお風呂上がりのポカポカした体で、スマホを握ったまま深い眠りに落ちるまでに、そう長くはかからなかった。


10月18日

 父の出身高校は少し変わったところで、公立校にしては珍しくほとんどと言っていいほど英語を専門にした課程が組まれたところで、3年の時、芸術発表会のようなところで、この原爆の被害に遭った、ある少女の話を舞台化したものをやったらしい。

 で、その主人公の役を演じた子がとても可愛かったとか、なんとか、どうでもいい話もあった。

 戦争体験の話が予定の時刻よりも、少し長引いて、急ぎ足でそんな原爆の子の像を眺めながら原爆ドームに移動し、全体写真を撮ってバスに乗り込み、広島駅に移動して新幹線に乗り換えて大阪に移動。大阪での自由行動を早くしたい同級生たちは残念なことに、各自、一度ホテルに荷物を置いて極短い時間のうちにバスに戻って奈良へ移動。

 ダメだ。気持ちがソワソワしてそれどころじゃない。

 東大寺と法隆寺、平城京の跡地を見た。写真はたくさん撮った。でも、こんなに集中力に欠ける旅行はいけないとはわかっている。チャンスがあったら、彩と二人きりでまた、同じ旅行をしたい。

 早く二人きりの時間が欲しい。

 早く、早く。

 せんべいを持ってないのか、コイツはと、鹿に残念そうな顔をされても知らない。鹿と戯れているような心の余裕は私にはない。

 私は、どうして、つい何か月か前までは完全に他人だった彩にこれほどまでに心を乱され、夢中になってしまっているのだろう。いったいなぜ。なんとなく一緒にいるのがイヤではない、乗り物でいつも先に寝てしまう彩が私に寄りかかるとき、私よりも少し体温が高く、そのぬくもりを感じる幸せ。

 最初は恋愛なんてこんなものか、という程度だったのだが、日を追うごとに加速度的に沼に飲み込まれていくような感覚に陥る。


 なんとか奈良観光をクリアして、大阪に戻る。

 大阪のホテルに着くと、この時点から明日からの自由行動についての相談をしたりする時間も含めて班行動の解散が告げられた。事前に、部屋割りを決めるために、今日からどのようなグループを組むのか届けることになっていて、私たちのクラスは他のグループと部屋が共有されてしまうことのない部屋割りが出来上がっていた。きっと、微調整が入ったのだろう。私たちのクラスで単独行動を選んでいるのは10人だった。

 ホテルのロビーで部屋割りを待っていると、学級委員長がカードキーを順序良く配った後に、単独行動の人だけ待機するように指示した。


「ええと、ホテル側の都合で、シングルの部屋を全員分用意することができなかったようで、3組、ツインルームにして欲しいそうなのですが、ツインでもいいよと言ってくれる人はいませんか?」

「ハイ、私、ツインでいいよ~。」

 私のその言葉を聞いてか、すぐに

「ウチも~。千早と一緒でお願いします。」

と、あっさりツイン枠を確保した私たち。これにつられてか、他の2組もあっという間に決まり、カードキーを受け取って部屋に向かう。シングルの部屋でもお互いのところを行き来すればいいだけの話だけど、移動という面倒事のない願ってもないチャンスで、私の心は弾んだ。

 同じツインの階に行く他の2組もエレベーターが一緒で、カゴの中で早く早く、1秒でも早く部屋に入ってしまいたいとソワソワする私。私一人が勝手に盛り上がってバカみたいと思われていないか心配だったので、私は彩に目をやることはできなかった。

 目的の階に着いて、開錠して部屋に入る。

「ちょっと、千早~っ」

 彩が小声で私を諫めながら部屋に入ってくる。

 バタンと重いドアの閉じる音がするやいなや、私のこの数日の感情が大爆発して、もうどうしようもなかった。とにかくギュッとしてほしくて、一方的に彩に抱きついて部屋の奥に引きずり込んでいく。

 そのまま、ベッドに引き倒した。

「千早、ダメだって。」

「いいじゃない、誰も見てないよ。お願い、ずっとガマンしてたんだから付き合って。」

「もう・・・」

 彩が両腕で私を90度転がし、横向きになって、顔を近づけてきたかと思うと、額をくっつけてきた。ニコっと笑って、私の腰に手を回してきて、よくガマンしたね。と言って、私を抱き寄せて、体をくっつけたかと思うと、彩は脚を絡めてきた。

「ちょっと、そこまでする?」

「いいじゃない。ねぇ、今日はこれからどうする?街に出る?それとも出ない?」

「ずっとこうしていたいけど、それももったいないよね。」

「よかった。ウチね、ちょっと行きたいところがあるんだけど、付き合ってくれる?」

「いいよ、彩の行きたいところなら、どこへでもついていく。昨日、付き合わせちゃったし。」

「うん。ちょっと準備する。・・・ねぇ離れてもいい?」

「もう少しだけ、ぎゅっとして。・・・もう少し。」

「うん。」


 少しの間、抱き合って、私もカメラのSDカードのデータを移動させなければならないので、どちらからともなく手をつないでベッドから起き上がった。

 彩はキャリーバッグを開けて、ジャージやウインドブレーカー、スパイクを取り出す。

「え、なんで部活の物を持ってきてるの?」

「ウチが行きたいのは、長居陸上競技場なんだ。」

「プッ ははは」

「なんで笑うんだよ!高校総体とかで使われることがあるけど、一生で何度も走れるところじゃないんだ。」

「ゴメンゴメン、彩らしいなって思って。」

「だってさ、こんなの単独行動しなきゃ、だれもついてこないじゃない。」

「確かに。ねぇ、走っているところの写真撮ってあげる。」

「うん、お願いするね。」

「まさか、東京でもやる気?」

「それはちょっと考え中。」

 四角い大きなリュックに着替えを詰め込んで、私たちはホテルを出た。

 梅田駅から御堂筋線に乗って長居駅まで乗り換えなしで1本。電車に揺られること30分ちょっと。長居駅が近づくにつれて、また、彩のパステルグリーンの風を間近で見られると思うとワクワクしてきた。

 長居駅で降りて、駅を出ると、目の前には長居公園。野球場を右手に、正面に大きなスタジアムの建物が見えてくる。よほど心待ちにしているのか、彩の歩幅が大きくなる。

 競技場の受付で入場料200円を払い、更衣室へ。受付で利用時の注意事項に記載のなかったカメラの使用について尋ねたら、他の人が写りこまないように配慮してくださいと、言われた。

 スターティングブロックを借り受けて、更衣室へ。


「千早は、運動着なんて持ってきてないよね?」

「当たり前じゃないの。修学旅行で競技場で運動する人なんて聞いたことない。」笑

「じゃあこれ、いいよ。」

「いや、ジャージがないから直に着ることになるんだけど・・・」

「いいっていいって。」

「う、うん。」

 制服を脱いでウインドブレーカーに着替える。

「やっぱ、千早、それ似合うよね。」

「そ、そう?」笑

「じゃぁ、行こうか。」


 更衣室を出て陸上競技トラックに出て、彩はスパイクに履き替えようと、靴を地面に放る。

「あ、ちょっと待って。ここから写真撮ってもいい?」

「え~、照れるな~」

「試合前に一番気合入るところじゃないの、ここは。」

「そうだけど。」

「ほら、早く早く」


 カメラをリュックから取り出して、彩と少し距離を取って、しゃがみ込み、ふくらはぎくらいのところでカメラを構える。

「照れるな。」

 今、履いているスニーカーを脱ぎ、ゆっくりとスパイクに履き替えて、靴ひもに手をかけて、蝶結びのようだが靴ひもが解けにくい結び方をする。

 彩の指、きれいだな。

 カメラをちょっと意識してなのか、少し紅潮した頬が試合前の雰囲気を醸し出しているようで、私には、プロの陸上選手になった彩の専属カメラマンをしているように思えて、ならなかった。彩の専属なら、私はカメラマンになりたい。

 こっちを向いてカメラ目線になって連続写真を何枚か撮った時、

「もういい?」笑

「うん、いい写真が撮れたと思うよ。彩、カッコいい。」

「ねぇ、千早、カメラ貸して?千早のこと撮ってあげる。」

「え?いいよ~恥ずかしい。」

「いいから、ウチのを着てる写真、この前のをもらえばいいんだけど、今のところ一つもないし、記念にさ。私のことばっかり撮ってズルいよ。」

「うん、わかった。いいよ。」

「これ、ピって鳴ってまた押せばいいんでしょ?」

「そうそう。」

 オレンジ色のトラックのスタートラインのところに立った。別に何も意識していたわけではないが、私が立ったのは、彩があのとき0.01差で敗れた5レーンだったことに気づいたのは後の話。

「千早、その靴じゃ走れないね~。」

「そりゃそうだ。これはスニーカーであって、ランニングシューズではない。」

「足何センチ?」

「24.5だよ。」

「あー、、、ちょっと私の試してみて?」

「え?走るの?」

「せっかくだもん、最高のトラックを千早にも経験してもらいたい。」

「えー・・・」

「頼むよ~ 一緒に走ろうよ~。」

「しょうがないなぁ・・・」

 さっきまで彩が履いていた、水色のランニングシューズを履いてみる。

「25.5だからちょっと大きいかな・・・」

「彩、足デカいよね。紐をちょっとキツく結べば、まぁ、履けないこともないけど。気を付けるから、これで何とかする。」

「ゴメンよ~ビッグフットで・・・」

 トラック1周、軽く走ってアップは終わり、

「じゃぁ、ウチ100全力で走るね。」

「うん、どこから撮って欲しい?」

「普段、プロカメラマンの特等席の真正面かな。」

「わかったよ~。」

 私は小走りでゴールラインまで移動して、カメラを連続撮影モードに切り替えてから準備ができたことを手を振って知らせる。

 大会の時には撮れない、スターティングブロックに足をかけてから、スタートまでのあの瞬間をカメラに収めるチャンスだ。

 下を向いて地面に両手をついて、走るラインを見通すため、まっすぐ前を向く。また地面を見つめて、set、腰を高く上げる。いつ走るか確証はないが、彩はきっとここで走り出すだろう、という1000分の1秒前を読んでシャッターボタンを押す。

 彩が走り出す。どんどん大きくなっていく。彩のオーラが湧き上がる。今日は緑系でも少しグレーがかった色が見える。ちょっと曇った色に見えたけれども、後で調べてみることにしようと思う。

 あと10m、5m、ゴール。

 額に玉の汗を浮かべて私のところに駆け寄ってくる。

「ねぇ、すごいよ長居競技場。すごい。」

「それは競技選手にしかわからない話だよ。どうすごいの。」

「ねぇ、私、何色に見えた?」

「緑っぽいけど、ちょっとくすんだ色だったかな。あとで見せてあげるよ。」

「うん、スタジアムいっぱいの声援とフラッシュが焚かれているみたいだった。最高だよここ。」

「いつか、ここに立てるといいね。」

「うん!」

 大きく肩を揺らしながら、興奮気味に私に話す彩の姿はイキイキとしていて、たぶん、私は、彩以上に嬉しくなったと思う。彩はやっぱり、風の人だ。向かい風ではなく追い風の。

「ねぇ、もう一つお願いを聞いてもらってもいい?」

「こんどは何。」笑

「リレーしない?」

「200mも走れって?」

「いや100mでいいからさ。お願いっ、お願いっ」

「わかったよ・・・」笑

 彩は嬉しそうに私の手を引いて直線に入る前の曲線部分のところに私を引っ張っていく。

「ここらへんかな~。うん、ここで。私がスタートラインまで行くから、ちょっと待っててね。バトンはないから、私の手にタッチで。」

「わかったよ~。」

 彩は走って、5レーンのスタートラインに向かった。準備ができたようでこちらに向かって大きく手を振った。彩に右手を上げて合図してから、ふぅっと深呼吸して、八分音符1つと符点八分音符1つのタタン、というステップを踏んで勢いをつけて走り出す。

 靴が少し大きいのと、ウインドブレーカーも少し大きいので動作がもたつくが、それでもしっかりと走り出す。

 彩が面白そうに、その辺に置いてあった私のカメラを取り上げて私のことを撮り始めた。おいおい。もういいよ。どうにでもしてくれと思いながら70mくらいまで走ったとき、彩は慌ててカメラを置いてコースに立った。さっきまでの楽しそうな顔が一変して、競技者のいでたちに変わった。

 微笑みとも無表情ともつかない顔でまっすぐ私を見つめる。

 40m前。くるっと後ろに振り返り、左手をこちらに向けて伸ばす。

 20m右からこちらを振り返り、軽く走り始める。助走のスピードが上がっていく。0m、彩はまだ5m先にいる。-10m、ハイッ!と声にならない声を出して彩にタッチ。

 彩の背中にブースターエンジンでもついているかのように、どんどん加速していく。

 ゴールの方に行かないと、と思って休む暇もなくカメラを取って彩を追う。

 彩がゴールして、ゆっくりスピードを落としながらゴールラインを少し過ぎてから、こちらに向かって走ってくる。

「千早、速いね!すごいよ。」

 思いきり私に抱きついてきた。

「もう、私、疲れた。」笑

「ねぇ、ウチが左手で受けるってよく知ってたね!」

「それね、この前のリレーでさ、前の走者がわざわざ持ち替えてパスしてたでしょ。それで。」

「よく見てるねぇ。さすがスナイパー!」

「それにしても、彩、ひどいよ。助走、途中で本気出したでしょ、アレ。」

「バレちゃった?だって、千早、デキるから、つい煽ってしまった。」

「競技場、付き合ってくれてありがとう。」

「うん、、、カメラの水平めちゃくちゃだけど、記念写真撮ろうよ。」

 彩のリュックを横にして、少しでも高さを確保するために、靴を入れて、その上にカメラを置く。下から見上げる形にはなるが、円陣の下から撮るような角度だから、アリといえばアリ。

 私と彩はどちらからともなく、肩を組んで、45°、礼をするような態勢でカメラに向かう。

「撮るよ。3秒後ね。」

「うん。」

 スマホのシャッターボタンを押して、カメラがピピピと言って、パシャっとシャッターが下りる。

「次、膝立ちで。」

 シャッターボタンを押して、シャッターが下りる0.5秒前に、彩が、頬を私の顔にくっつけてきた。私の微妙な表情が写真におさまった。あまりにも微妙だったのでもう1枚撮りなおした。笑

 さて、帰ろうかと荷物を持って更衣室に向かおうとしたとき、3人の女子が駆け寄って声をかけてきた。

「あ、あの人違いだったらごめんなさい、なんですが、高旗さんですか?」

「そうだけど。」

 わー!本物だー!と歓喜の声を上げる3人。

「私、浜岡中学の3年なんですけど、この前の100と200とリレー、カッコよかったです。高旗さんの走り方、大好きです!」

「ありがとう、でも、よくわかったね。」

「その背中の、、、」

「ああ、学校名大きい字だもんね。」笑

「学校の名前だけだったら、他の人かもしれないって思ってたんですが、左手でバトンを受け取る人は、高旗さんのほかにいなかったんじゃないですか?」

「そんなところまで、よく見てるねぇ。」笑

「あの、よかったら写真を一緒に撮ってもらえませんか?」

「うん、いいよ。」

「あ、私撮ってあげる。」

 私は3人のスマホを預かって1枚ずつ写真を撮っていく。

「これでいい?いちおう見てみて。」

 瞳をキラキラさせながら、プロテクトかけます、大事にします。と言う子

「あ、ウチのスマホにも。」

「いいよ。」

 彩のスマホも1枚撮って渡す。

「じゃぁ、そろそろウチら行かないと。」

「ごめんなさい。合宿か何かでしたか?」

「いや、修学旅行で長居競技場に来る、ちょっと変わった人ってことで。じゃぁね!」

 わははは、なんて言いながら私たちは更衣室に向かう。

「彩、有名人じゃない。」

「そうだったね。」

「ここに来てよかったね。私も、よかったな。って思う。」

「ありがと。」

 更衣室で着替えて、30分かけてホテルに戻る。荷物を置いてご飯を食べてから、コンビニで飲み物とちょっとしたお菓子を買って、また部屋に帰ってきた。20時近くなっていた。

「ねぇ、お風呂に入ろうか。」

「うん。一緒に入る?」

「今度は、私が彩の髪を洗ってあげる。」

 彩が向こうを向いて服を脱いで下着姿になったところで、私はたまらず後ろから抱きつく。

「ちょっと、汗臭いからダメだって。」

「いいから・・・」

「ほら、お風呂行くよ」

 彩にくっついたままお風呂に移動する。

 シャワーを出して、そこそこの温度に設定したら、まずは彩の髪に当てる。シャンプーで彩の髪をわしゃわしゃして、泡立てて、昨日、やってもらったように、指に少し力を入れて頭を優しく揉む。

「う~ん、いいねいいね。」

 初めて顔見知りになったころはショートだった髪も、今は肩の上まで伸びた彩の髪。黒くて、私よりも少し太くてしっかりしている。

「ねぇ、彩って髪を染めようとか思ったことないの?」

「ないね~。黒い髪は外国勢の憧れらしいよ。別に、変えたいとか思ったことはない。どうせ黙っててもそのうち銀髪になってくるんだろうし。」

「それ、ずいぶん先の話じゃない?」

「いや~、ウチの親、白髪になるのが早かったから、もしかしたら遺伝するかも。」

「そうなんだ。・・・流すよ~。」

「うん。」

 それから、彩が私の髪を洗ってくれて、体を洗って、ひととおり洗い終えてから、湯船にお湯を張る。ユニットバスのお風呂は、これが不便だ。彩がスマホと飲み物を取りに行くというので、私の分も取ってきてもらうことにした。

 彩はスマホのラジオアプリを動かして、音楽のチャンネルを入れて、時々DJが英語をしゃべっている。

「彩、外国のラジオなんて聴くの?」

「うん、言葉はわからないけどね。勉強とかするにしても知らない言葉だと邪魔にならないでしょ。千早はまさかクラシックとかお上品なのを聴くの?」

「音楽はあんまり聴かないかな~。テレビもそんなに観ないし。」

「そっか、そういえば本を読んでることが多いもんね。あっ、今日の私の色、何色?って話。」

「うーんとねぇ・・・。」

 私はブックマークから色辞典のサイトを呼び出して、緑系のページを開く。

「これが近いかな。千草鼠っていうらしいよ。今日のはちょっと曇っているように見えたけど、着物にも使われる色みたい。・・・色自体には特別な言われとかはないみたいだけど、千草っていう言葉には文字通りの意味と、緑がかった青空っていう意味があるみたい。」

「千草、、、草冠を取ったら千早じゃん。これって、もしかして、千早の色なんじゃないの?」

「さぁ、どうだか?」笑

「さぁ、飲もう飲もう。」

 ペットボトルを開けて、乾杯して、、、。

「ねぇ、千早、明日はどこに行くの?」

「京都は興味ある?」

「うん、行きたいよ~。」

「どこに行くつもりだったの?」

「実は、今日のところ以外はあんまり考えてなかったんだ。このまま1人だったら、明日は1日大阪でボーっとしてたかも。・・・京都だったらねぇ、毬の神様が祀られている白峯神宮に行きたいな~。後は千早に任せるよ~。」

「えー、他人任せかい。」笑

「ウチは、今日、千早と一緒に走れてすごく楽しかった。これ以上の思い出はしばらくないと思う。だから、明日はウチを千早がエスコートしてちょうだい。」

「もー。まさか、東京でも同じ手法を使う気じゃないだろうな?」

「え、バレた~?」

「自分の人生、他人任せにしてると碌なことにならんよ?」

「わかったよぉ、何か考えておく・・・」


 1時間ほどこうしていただろうか。だいぶ体も温まってというかのぼせてきたので、お風呂から上がって、髪を乾かして、ホテル備え付けのパジャマに着替えて寝る準備をする。ベッドは2つあるけれども、壁に近い方のベッドを寄せてくっつけて、同じベッドに入る。

「明日は何時に出るの?」

「そうねぇ、いま電車の時間を調べていたんだけど、京都行の8時の特急に乗りたいな。」

「ちょっと早起きしないとだね。」

「うん」

「ねぇ、もう一つ、今日のお願い、聞いてもらってもいい?」

「何?」

「あのね、ウチの陸上のユニフォーム、千早が着ているところを見せてほしいなって思って…」

「ベッドに入る前に言ってほしかったよ。私、もう動けない。」

「えー……ダメかぁ。」

 彩は掛け布団を巻き込んで、クルッと背中を向ける。

 チラッと枕元の時計を見るとまだ23時前。

「もう、仕方ないなぁ。出して」

 ガバっとこっちを向いて、

「ホント!?」

「わかったから、早くして」

 水着のようなセパレートのユニフォームを持ってきて、キラキラした目線を私に向けてくる。

「これ、そのまま着るの?」

「うん」

 パジャマを脱いで、いわゆる、彩の勝負服に着替える。

「わぁ……」

 私の手を引いて、部屋の入口のところにある大きな鏡の前に私を立たせると、彩は後ろから肩越しに抱きついて満足そうな顔を浮かべる。

「どお?ウチのユニフォームを着てみた感想は」

「これ、けっこう恥ずかしいね」

「慣れればなんてことないよ。千早、よく似合う。陸上部で千早からリレーのバトン、もらいたかったなぁ。」

「ありがとう。陸上部とは縁がなかったみたいで…今日の彩、すごくかっこよかった。」

「うん」

「そろそろ脱いでもいい?」

「このまま着て寝てもいいんだよ?」

「いやーソワソワするから脱ぐ。」笑

「なんだ、残念。ちょっと待って、記念撮影。」

「早くしてよ~。」

 またパジャマに着替えて、布団に入る。

「寝るのはもったいないけど、寝ないとね。おやすみ千早。」

「うん、おやすみ。」


 ここまでの疲れと、大人数の同室で気が少し休まらなかっただけに、深い眠りに落ちるのにそんなに時間はかからなかった。


 ふと暑くて目が覚めた。彩の体温高いな・・・。

 彩を起こさないように静かにベッドから抜け出してトイレと水分補給。

 そっとカーテンを開けて窓際に置かれている椅子に腰かけて大阪の夜景を眺める。私たちの街と違って深夜にもかかわらず、ビルや住居に明かりがついている。高い建物についている航空障害灯が休まず点滅している。

 私たちの街もそうだけど、夜に眠らずに社会を支えている人の数は当たり前だが、圧倒的にこちらの方が多い。

 カーテンを閉じて、ベッドに腰かけて、彩の寝顔を覗き込む。かわいい寝顔。この寝顔からはあのハイテンションな彩の様子なんて想像できない。右手で彩の顔にかかっている髪を避けて、頬を撫で、人差し指で彩の唇をなぞる。

「ふふん」

 びっくりして指を離すと、どうやら寝言だったらしい。

 しばらくうっとり眺めていると、ガバっと起きて、

「千早がいない」と騒ぎ出した。

「いるって、しっかりしろって。」

 しばらく考え込んで、

「よかった・・・。どっかに行っちゃったかと思った。離れないでよぉ。」

「わかったわかった。」

「今何時?」

「3時半くらいかな」

「もうちょっとだね。」

「うん。」

 私がベッドに入ると、すかさず、脚を私の上に乗せてきて抱き枕扱い。

「彩、暑いから。」

「ダメ、少なくとも千早は明日までは私のもの。いっぱいくっつくんだから。」

 しばらくすると、スースーと寝息を立てて寝始めた。寝つきいいなぁ。私はそれからドキドキして浅い眠り程度にしか寝つけなかった。

 空いている手でずっと彩の頭を撫でて、髪を触っていた。

 相変わらず、気持ちよさそうな顔で眠っている。


10月19日

 6時。スマホのアラームが鳴って私たちは目を覚ます。

「おはよ、彩。」

「おはよ、千早。」

 どちらからともなく、軽くキスをして

「じゃぁ、出発の準備をしようか。」

「うん」

 朝ごはんの会場には、所在確認の名簿が置かれていて、自分たちの名前のところにチェックを付けてから、行先の方面を記入、明日のホテルのロビーの集合時刻と東京行きの新幹線の出発時刻が書かれた紙を見て、夜ごはんの必要の有無のチェックをつけた。

 私たちは、それほど帰りが遅い予定ではないために、夜ごはんは有りで申し込み、ご飯を食べてから大阪駅へ向かい、特急料金のかからない、8時発の京都行の新快速に間に合った。

 列車に揺られること45分、京都駅に到着し、地下鉄烏丸線に乗り換えて今出川駅下車。まずは彩の行きたい場所、白峯神宮へ。

 境内に入って本殿にお参りした後、彩がトイレに行っている間に社務所でどんなものがあるのか眺める。ここは球技なのよね~、と思いながら眺めていると、ボールを使用しないスポーツのお守りを見つけた。ヘアバンドもあったが、これはサッカー選手がよく着けているもののようで、これから髪を少し伸ばすという彩のヘアゴムだったら良かったのになと思った。

 これだな、とバッグのファスナーとかにつけられる網紐の輪を2つ初穂料を払って、もらって、また本殿の前に戻って風景をぼんやりと眺めながら、何をするわけでもなくヒヨドリやスズメの鳴き声を聞きながら佇んでいた。

「お待たせーっ ここにいたか~」

「あ、お帰り。ねぇ、彩が陸上でいい記録をだせますように、ってコレ。あげる。」

「いいの~?」

「うん。楽しそうに走るところ、もっと見せてね。」

「うん!大事にする。」

「どこに付けようかな・・・大会に持っていくヤツにしよう。ホテルに帰ってから付けるね!ありがとう。」

「彩は、本殿でなにかお願い事をしたの?中身は言わなくてもいいよ。」

「うん、したした。」

「それが叶った時、ここにお礼参りに来ようね?」

「そうだね。・・・じゃあ、次に行こうか。」

「うん。」

「どこに行くの?」

「私は、学問の神様のところ~。北野天満宮だよ。」

「行ったら、頭よくなるかな!?」

「どうだか。自分の力と、自分の力ではどうにもならないところは、神様に助けてもらう、やっぱりコレに尽きるよね。日本の神様は、基本的に完全に他力本願でも許してくれる場合もあるけどさ。」

「え、何それ。ウチ、お祈りしなおした方がいいかな?」

「彩のお願いしたことに向かって、彩も近づけるように手を尽くせばいいんだよ。」

「千早、教祖様みたい。」笑


 出入口というか、最初の鳥居のところで一礼をして、道路を渡ってすぐ向かいにあるバス停から北野天満宮の近くまで向かう市バスに乗る。約15分。

 南側から入った私たちは左手に、今は時期ではない梅苑を眺め本殿へと歩いていく。きっと梅の花が咲くころはいい香りなんだろうなぁ。またここに来れるといいなぁ。


「東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な 忘れそ」

「なに、千早、優雅に一句思いついたの?」

「おいおい。これはここで祀られている菅原道真がとてもひどい左遷の仕打ちを受けて、京都から福岡の大宰府に立つときに読んだ一句だよ。しかも、一句じゃなくて一首だ」

「で、どういう意味?」

「聞いてなかったんかい。東風が吹いたとき、梅の花の匂いを大宰府まで運んできておくれ、私がいなくても、春を忘れないでおくれ。そういう意味。気象マニアの私が一番好きな一首だよ。」

「ふーん。」

「全然興味ないだろ。」

「うん、ゴメン!」

「梅の花って、小さいけど、いい匂いなんだよね。昔、おじいちゃんの家の植木鉢に植えてあってね、家の中だから、暖かいでしょ、だから1月とか2月になると花を咲かせるの。あの木、どうしちゃったのかな。」

「千早ってさ、ロマンチックだよね。」

「え?そう?」

「そうやってさ、一つの文章から、この世界から脱線して違う世界のことを想像するやつ。こう、どこかさ、この世界から外れて急に消えて行ってしまいそう。」

「でもね、私、本を読んでても中の世界の風景とかは浮かばないんだ。人によっては人物の顔まで鮮明に浮かぶ人がいるみたいなんだけど、私は、文字の上に書かれていること以外は読み取れないし、読んでいるだけで疲れちゃうから、あえて読み取らない。景色も、人物の周りにモヤモヤっとしか浮かばないんだ。本の読み方は人それぞれだから、そこまで映像化できる人は尊敬するけど、別に自分ではそれを改めようとは思っていない。」

「なんかよくわからないけど、大変ね」

「ま、そんなとこ」

 楼門まで来たとき、一つの和歌の札がかかっていた。

「海ならず たたへる水の底までも 清き心は月ぞ てらさむ」

「なんかきれいな響きだね。」

 口語訳に少し自信がなかったので、スマホで調べる。

『海よりもさらに深く清水を湛えた水の底までも清く、澄みきっている私の心底を、ただ月だけが照らしてくれるだろう』

「ウチ、ロマンチックなこと思いついた。」

「なになに。」

「千早は水の底が好きじゃない。でも、これは、澄み切っている海だったら、底までも照らしてくれるってことじゃない。だから、ウチには海の底で空を見上げている千早の姿が浮かんだよ。」

「面白い解釈だね、それ。まぁ、本当は冤罪で大宰府に送られたときに、月は菅原道真の本心にウソや偽りがないことをわかってくれるだろう、っていう願いをかけたものみたいなんだけどね。・・・正直・至誠かぁ・・・。」

 楼門をくぐり、本殿を参拝して、社務所へ行って何かないかなと見て回る。

「ねぇねぇ、千早、学業鉛筆だって。千早は一般入試の予定なんでしょ?」

「うん、そうかもねぇ。」

「わかった、さっきのお礼だよ。千早にコレ買ってあげる。」

「ありがとう。”その時”に使うよ。」

 木の箱に入った6本入りの鉛筆を受け取る。梅の花の匂いではないけど、木の良い匂いがした。


「うわ~もうお昼だ。早いなぁ・・・。」

「千早、何食べたいの?」

「なんでもいいかも。」

「その辺に蕎麦屋さんがあるみたいだよ。」

「じゃぁ、蕎麦にしよう。」

 歩いてその店に向かい、私は鴨南蛮そば、彩は天そばを注文した。

「金閣寺とか銀閣寺とか、清水寺とか、行った方がいいのかな・・・?」

「私、旅行は結構不真面目なほうだからなぁ・・・」


 そう、私の旅行はいつも適当。その土地に住んでいる気分になって楽しむだけ。観光地とかをおろそかにしやすい。

「うへぇ、清水寺、反対側だよ。」笑

「金閣寺は近いっぽいね?」

「そうだねぇ。金閣寺行って、清水寺に行って、京都タワー見て、お土産買ったら、いい時間になりそうだわ。」

 高校生の修学旅行で一番見たいであろう金閣寺、銀閣寺、清水寺、京都御所、二条城、渡月橋、伏見稲荷、人によっては太秦や嵐山、こんなにたくさんの場所が京都にあるのに、私たちはたった2か所で満足し、オプショナルツアーにしてしまった。

 お土産を買いながら、荷物めんどくさいから、送ってしまえばよくない?なんて京都駅を出て、ケラケラ笑いながら北側の京都中央郵便局に行って、段ボールを買って家に送る。あっちに水族館があるんだね、鉄道博物館だって!とか、もう適当な京都観光すぎて、大人になってから、また来たいと言ってすんなり来れて、十分な時間を取れるかどうか、そんな不安もよぎったが、また来ればいいさと、またケラケラ笑って京都駅に戻る。

 もともと私は京都の街の写真を撮りたかったのだけど、その計画も全部どうでもよくなるほどの出来事があった。でも、これでいいんだ。


「ねぇ、彩、どうしよう。大阪に戻る?」

「4時か~微妙な時間だね~。」

「大阪もチラっと見とこうか?お好み焼きとか食べたくない?」

「ホテルでメシ食ってから?」

「お腹いっぱいになったら、そのときはそのとき」笑

「千早、きっと、また京都に来ようね」

「うん、今度はもっと、いろんなものを見に来ようね。」


 17時過ぎの京都から播州赤穂行きの新快速に乗った。特急料金を払って乗るサンダーバードと1分しか変わらないから、安いもんだなぁと思う。新快速はビュンビュンとスピードが出て、とても速い。へたをすれば、私たちのところの特急列車よりも速いんじゃないのかと思う。

10分も経たないうちに、私の左腕を抱いた彩が静かになったなと思って見ると、スヤスヤと寝ていた。相変わらずの寝つきの良さ。降りる駅は終点じゃないんだぞ。起きたら兵庫県でした!はい涙目!っていうのをやってみるかい?


 カメラのプレビューで今日撮った写真を1枚1枚振り返っていく。どうして三脚を持って来なかったんだろうなぁ。と思うくらい、微妙な角度での記念写真がたくさんある。また来ようねと言ったものの、それは「いつか」の話であって、必ず来る日の話ではない。

 それから、この中身を見たときに彩に話しておかなければならないことがあるような気がした。彩はわかっているかどうか、わからないんだけど、今夜話しておかなければならない気もする。

 カメラの電源を切って、彩の右腕をぎゅっと抱いて窓の外をぼんやりと眺める。


 電車は高槻を出発。このあと、新大阪、大阪の順になる。相変わらず彩はスヤスヤと眠っている。このまま放置するのも面白いなと思って、頭を撫でると、ゆっくりと目を開けた。

「次の次だよ。もうちょっと。」

「んあっ!」

「起こさないで放置したほうが面白かったかな?って。」笑

「それはないよ!」


 5分経って大阪駅に着いた。

 ホテルに戻って、食事をする。すでに戻ってきて食べている同級生もちらほら見えるが、大半は出先で食べている感じだ。大人になったら、ここでワインなんかを頼んで、優雅に食事、なんていうのもいいな。

 ほとんどがこのホテルで作られているものではないであろう食事だが、彩は美味しそうにニコニコと食べている。食べ物は田舎の方が当然おいしい。大阪で使われている粉ものの小麦粉だって、大半は、外国から来ているし、国内産だってここで作られているものではない。

 でも、ここで、「2人きり」で食べるから特別なんだ。

「彩、何か飲む?取って来るよ~」

「うん、コーヒーと牛乳お願い~。」

「わかったよ。」

「千早、デザートは?」

「え?外に粉モン食べに行かないの?」

「ん~?別腹でしょ。千早、燃費悪いんだから、食べれるでしょ?」

「まぁ・・・」笑

「私、デザート取って来るから言って。」

「じゃあ~、あそこに杏仁豆腐あったよね。それとクレープのケーキ。」

「うわ。マジで燃費悪いな!」


 デザートを食べながら、この時間でも開いているお店はまだあるらしく、ちょっと行きましょうと、また街に出た。

 全部食べ切れるかどうか自信がなかったので、店のおじさんに、ねーちゃんたち2人で1つか、胃袋そんなにちいさいかー?なんていじられながら、2人で1つのお好み焼きを食べて、部屋に帰ってからつまむたこ焼きを持ち帰り、コンビニで飲み物を買って帰った。

 昨日のように、お互いの髪の毛を洗って、体を洗ってお湯をためて飲み物を飲み始める。


 今日は疲れたね、歩いたね、なんて言いながら、少しの間沈黙の時間が流れる。

 今日は私の方から彩の背中からくっつきながら、さっき電車で頭によぎったことを話そうと思った。向かい合わせで言う勇気が私にはない。

「ねぇ、彩」

 彩の右肩に顎を乗せて

「ん、どうした?」

「あのね、修学旅行の写真って帰ったら親とかに見せるじゃない?」

「そうだね。ウチの親は見せてと言うかはわからないけど、言われたら見せるかな~。」

「それでね、私の親、京都も東京も一人で見て回るって言っておいたのに、彩と写っている写真がいっぱいあるでしょ、だから、もしかして、その・・・」

「ん~?」

 彩がこっちに向き直って、右耳に顔を近づけてきて囁く。

「私たちの関係に気づくかもっていう話?」

「うん、、、」

「ねぇ、千早。私たち、何か悪い事している?」

「そんなつもりは」

「だよね。知られてしまってもウチは構わないし、ウソをつく必要なんてないんじゃないかな。ウチから千早に告白しておいて言うのもなんだけど・・・」

「彩は、いつから自分が同性愛者だって気づいていたの?」

「ん~、わからない。けど、そうだねぇ・・・。千早と初めて逢ったあの雨の時、心の中で何かが割れて、何かの感情がフッと湧いた、と言った方が正しいのかな。中学の時には付き合うことはなかったけど、好きな男の子もいた。けど、その異性が好きだ、というのとは違う何か、これは、まだ整理がついていないんだけど、千早にはその何かがあったような気がする。ただそれだけ、でも、これは、千早を、千早として好きだと思っている、その気持ちには変わらないよ。なんだっけ、「海ならば? たたえる水の~」なんちゃらって、今日の菅原のナントカさんの一首?はきっとソレだよ。だから、隠しても隠しきれないし、隠しても仕方ないことは隠さない方がいい。ウチらはそれでいかない?もし、千早の家が、こういうのがダメなら、それはそのとき考えよう?それからでも遅くない。」

 私は、ぽろぽろと涙をこぼす。

「うん、ありがとう、ありがとう。」


「ねぇ、さっき買ったフルーツジュース、ストロー2本刺して飲もうよ。・・・ほら、泣き止んで。」


 彩は上の洗面台に冷水をためて冷やしていた500mlのフルーツジュースを取り、浴槽の角に置く。私は、ボロボロに泣いて、何も話せなかったけど、ちゃっかりジュースだけは飲んだ。彩はただただ私の頭を撫でてくれていた。


 お風呂って、そんな話ができる特別な何かがあるように思った。


 お風呂から上がって、パジャマに着替えて、今日は私が彩に甘えるように背中を抱かせてもらって眠りに落ちた。彩は本当は先に寝たかったのだろうけど、私が眠るまで、脇腹の下からお腹に回った腕と上から伸びる腕を彩の胸元に持って行って、ずっと抱きしめてくれていた。


10月20日

 昼ご飯を食べてから、新大阪発東京行きの新幹線に乗る。左手には富士山が見えると車内は大盛り上がり。テレビとかアニメでよく見る景色なのに。約3時間後、東京駅に到着。明日は上野駅を出発する列車であるため、今日の宿は上野だ。

 人数が人数なので、距離は短いがバスの移動。上野駅にも比較的近い、浅草やスカイツリーにもアクセスの良い場所である。

 今回はホテル側の都合で希望通りの部屋が確保できなかったことはなく、シングルルームとなった。カードキーを渡され、各自が部屋に向かってここから、明日の上野駅集合まで自由行動となる。放任主義の素晴らしい高校だ。

 エレベーターホールがワイワイ混んでいるので、空くまで待つことにして、何をしようかロビーのソファーに座ってスマホを眺める。うーん、上野動物園、、、お台場、、、TDL、、、横浜、、、なんかパッとしないなぁ~。でも、スカイツリーと東京タワーには行っておきたいかなぁ。正味な話、少なくとも東京は人生で何度でも来れるだろう。


 エレベーターホールが静かになった。

 そういえば、彩は部屋に行っちゃったのかな。部屋はどこなのかな。

 スマホから少し目を離すと、

「おやおや、ウチをお探しですかぁ?」

「い、いたの。」

「いたいた~。ちょっとトイレに行ってた。」

「彩は部屋どこなの?」

「うーんとね。1035だね。千早は?」

「近いっぽいね。1026だ。」

「どっちの部屋で寝る?」

「部屋のサイズを見てからにしない?東京のベッド、すごい小さかったら困るよ?」笑

「そうだね。」

 エレベーターに乗って10階まで。

「東京で自由行動って言っても、明日の夕方までだし、意外と時間ないよねぇ。」

「うん、千早、どこに行きたいの?」

「うーん、東京タワーとスカイツリーくらいしかないかなぁ。なんかさ、日常の景色が溢れすぎてて。あ、隅田川は見たいかも。」

「ねぇ、ちょっと千早にお願いがあるんだけど。」

 エレベーターが10階に着いて、彩の部屋が近かったので、なし崩し的に彩の部屋で話の続きをすることに。

「何、お願いって。」

「千早はさ、私が長居競技場で走ってみたかったように、夢の舞台ってないの?」

「んー、あんまり考えたことはないかも。」

「じゃあさ、東京体育館に行こうよ!千早の泳いでいるところ、見せてよ。」

「水着なんて持ってくるか!」

「ところがね、ここのすぐ近くに売ってるお店があるの。ねぇ、行ってみない?」

 いや、東京体育館こそいつでも行けるんじゃないか・・・でも、高校生のうちに泳げるのはきっとこれが最後・・・。心が揺れた。残りのやりたいことをするにも迷っている時間はそんなにない。

「わかった。行こう。」

「うん。」

 急いで準備して”アメ横”に向かい、時間がない割にはあれこれと選んで、結果、彩とお揃いの水着になった。私たち、修学旅行で何をやってるんだか・・・。


 およそ40分くらいかけて東京体育館に着いた。大きい。見惚れている暇もなく、急いで利用料金を支払ってプールへ2時間半で600円。

「すごいね、雰囲気あるね。」

「ここが、東京オリンピックの。」

「田舎と違って、1レーン占拠して泳げなそうだね。」

「ねぇ、私上のアリーナ席で見てるから、先に千早の泳いでいるところ見せてよ。」

 彩はウインドブレーカーを羽織りなおして行ってしまった。

 長水路のちょっと空いているコースに入って、まずは軽くバタ足から。50ターンして、100。うん、イケそうだなと思って、壁を蹴って、クロール。50 100 150 200。彩はどこから見てるんだろうか?私の泳ぐところ、見てる?どう?

 300で少しバテたので、いったん上がった。

 しばらくして、彩が来て、

「すごいね!速いね。カッコいい。でも、私、あそこでは一緒に泳げない。」笑

「いいよ~25のところ行こう。」

 東京では私は速い方だが、私よりできる人はもっとたくさんいる。だから、別に声をかけられたりとか、そういうことはない。もし、私があのとき辞めなかったら、どうだったんだろう。彩のように、誰かに声をかけられることがあったのだろうか。

 彩に泳ぎを教えているうちに、あっという間に利用時間がなくなってきたので、施設を出ることにした。

 体育館を出たところで記念写真を撮って、東京タワーの方が近かったから東京タワーへ。

 濡れた髪も生乾きのまま出てきたが、まぁ、そのうち乾くでしょう。

「この前行ったあのプール、また行きたいなー。」

「紡績プール?」

「そう。もっとゆっくり千早とデートしたい。」

「そうだね~。帰ったらまた行こうか。東京のプールはちょっとせわしなかったね。」

「千早と、お揃いの水着でまた泳げたらうれしいな。」

「じゃぁ、私は、彩とまた走りたいかも。」

「お、いいね。陸上部の練習においでよ。」

「プロのみんなと一緒はチョット。」

「いや、あのバトンパス良かったと思うよ。うん。みんなに見てもらおうよ。」


 それから、東京タワーに登って、記念メダルを作って。打刻はどうやってやるんだ?なんていいながら。日も暮れてきて、街路灯が点き始め、東京は夜の街へと移り変わってきた。東京タワーからスカイツリーに移動。

 展望階で彩とくっついて夜景を見ていたころ、私のスマホが鳴る。

「あ、ゴメン、親から電話かかってきた。」

「うん、向こうで飲み物飲んでるね~。」

「ごめんね。」


「あ、もしもし。」

「あんた、いまどこさ」

「いま、スカイツリーだよ。」

「大阪も東京も単独行動だって言うから、連絡来るのかなって思ったら全然電話くれないのね。」笑

「あ、忘れてた訳じゃないけど、楽しすぎて。」

「ふ~ん。」

「いや、実は単独行動にしようと思ったんだけど、一緒に行動する人が見つかって、今日もずっと一緒なの。」

「あら、珍しいこと。」

「あ、そうそう、明日あたり京都から郵便局で荷物を送ったから、そっちに届くと思うから受取りよろしくね。」

「わかったよ。うん、楽しそうでよかった。あさって、思い出話聞くのを楽しみにしてるよ。」

「はいは~い。」

「じゃあね~。」


「お待たせ~。」

「ずいぶん早かったね。」

「私の親は東京は何回も旅行しているから、あんまり珍しくなかったんじゃないかな。」

「そうだよね。東京なんて飛行機で飛べばすぐだもんね。」

「あんまり連絡よこさないからって、しびれを切らして電話してきたらしい。あんた、単独行動じゃなかったの?って」笑

「それは、親もびっくりするよね。」


 帰りのエレベーターのところで、記念写真コーナーがあって、プロのカメラマンが撮ってくれるようだ。私たちにはまともな構図の記念写真がないから、ここで撮ってもらおうよということになって、撮ってもらった。

 ニコニコと笑顔の私たち2人の写真。帰ったら額に入れて机の上に飾ろう。


 スカイツリーとつながっている商業施設のフードコートでご飯を食べて、流行の最先端と呼ばれる東京で売られている物を眺めていたが、別にオシャレに興味があるわけでもない私たちは、高いね~、ウチらには無理だね~、なんて冗談を言いながら横目に眺めて通り過ぎた。

 私は、なぜだかわからないけど、ストーンアクセサリーのお店で足が止まった。

「彩、ちょっとココ寄っていってもいい?」

「いいよ~。なに、千早、石に興味あったの?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど、帰ってもこういうお店はあるし。」

「いいんじゃない?寄っていきな~、付き合うから」


 区切られたケースの中に色とりどりの石が並んでいる。記念に作っていこうかな。石を置く皿を持って、店の人が手書きした石の説明の紙を見て、へぇ、と思っていると、奥の方から店員さんが出てきた。

「いらっしゃいませ。お探しですか?」

「はい、えーと、、、私の手首だとこのサイズの石は何個になるのかなって。」

「ちょっと、これをつけてもらえますか?」

 横にあった見本のブレスレットを渡されて、左手首につける。

「うーん、ちょっと小さいですね。この感じだと19個ですね。」

「19個ですか。」


 私は、このブレスレットに、今の自分への思いを込めることにした。

 10月の誕生石はオパール。私と彩の誕生石。ピンクオパールを3時・6時に置いて、左半分を自分のイメージ、右半分を彩のイメージを込めることにした。

 12時にオレンジムーンストーン、6時にサンストーン、9時にラピスラズリ、ピンクオパール、ラリマー、ラピスラズリ。3時にラピスラズリ、ピンクオパール、ターコイズ、ラピスラズリ。これを基本にして、私たちの風と水のイメージを描いた石を選んで配色した。


「きれいに並びましたね~。」

「これでお願いします。」

 店員さんは、石をひとつひとつ読み上げながら電卓を叩く。

「えーと、14000円で今日はセールで3割引きになって9800円です。チョットお値段いきましたけど、いいですか?」

「はい、お願いします。」

「5分ほどお待ちくださいね、できたらお呼びします。」

「はい」


「なんか、千早が作ってるの見てたら、私も欲しくなってきたよ。」

「作れば?」

「ウチ、なんかよくわかんないからさ、センスないし。」

「私も、最終的には色で決めたけど、私と彩のイメージで作ったブレスレットなの。いいでしょ。石の意味とかは、最低限、誕生石だけは決めたけど、あとは名前と色。」


 ブレスレットができたそうなので、お金を払って品物を受け取って、彩に見せる。

「ここの月と太陽を境に、左半分が私、右半分が彩のイメージだよ。」

「まじか、ストーリーがあっていいね。」

「ウチもお揃いがいい~。」

「予算大丈夫なの?」笑

「ちょっと厳しいけど、、、いい。」

 同じように並べて、会計して、店員さんは何かを察したようで東京の、この思い出にと500円ずつ割り引いてくれた。店を後にしようとすると、

「あ、忘れていました。ラピスラズリは水に弱いので、あまり濡らさないでくださいね。お幸せに!またいらしてください。」

 と声をかけられた。

「ありがとうございました。」


「ちょっと遅くなっちゃったね、千早。」

「うん。ホテルに帰ろうか?」

「あ、でもまだ隅田川?見てないんじゃない?」

「でも」

「せっかくだから見よう?」

「ありがとう」

「ちゃんと、ウチを案内してね。」

「うん」


 東京スカイツリー駅から東武伊勢崎線、堀切駅で下車。ここから上野まで歩く。

「デカい川だね。」

「いや、こっちは荒川。私の見たい川はこっちじゃない。」笑

 千住汐入大橋を渡って、汐入公園を南下。川沿いを写真を撮りながら歩く。夜景は露出時間を長くする方がいいが、三脚がないので撮れた写真にノイズが増えるけど、あとでいくらか調節できるのでISO感度を上げて手振れしない程度のシャッタースピードで写真を撮る。浅草駅まで歩いて、いちど上野を通り過ぎるが蔵前橋まで南下。そのまままっすぐ西に向かって歩くと、秋葉原の北側に出る。特に用事はないので秋葉原の街並みを遠目に眺めて北に。

 ホテルを出る前に通ったアメ横商店街を通って、夜の上野恩賜公園を眺めてホテルへ帰る。

 その間、私は左手首に、彩は右手首にさっきのブレスレットを着けて手をつないで歩いた。

 これほどまでに長い時間手をつないで歩いたのは初めてのことだった。

 ホテルに入る前に解いて、手汗がすごかったね、梅雨のジメジメした時期みたいだったね、なんて笑いながら彩の部屋に帰った。

 私の部屋はどんなかな、とドアを開けると、、、


 なんとお風呂のドアの下から水が溢れている。

「ななな、なんで!?」

 彩はお風呂のドアを開けると、天井から水が滝のように落ちてきている。

「千早、フロント!フロント!」

 ハッと我に返って、受話器を取り「6」をダイヤル。


「もしもし、フロントです。」

「すみません、お風呂場の天井から水が降ってきているんですけど!」

「申し訳ございません、ただいま係の者を至急向かわせます。お待ちください。」

 待つこと数分、ホテルの人が駆けつけた。

「もうしわけございません、お客様。このお部屋は使えませんから、別のお部屋を用意しました。ですが、あいにく、シングルのお部屋がご用意できず、ツインのお部屋をお使いいただけないかと思います。」

 おっ?と思って、

「あの、こっちの1人もシングルなんですけど、一緒の部屋にしてもいいですか?」

「ええ、構いませんよ。」

「じゃぁ、取り替えてもらいます、ありがとうございます。」

 彩の部屋のカードキーも返して、エレベーターに乗ってさらに上の階へ。

「彩、ラッキーだったね!」

「うん!」

 部屋を開けると、ベッドが4つもある。

「ねぇ、デカいよこの部屋。ツインじゃない。」笑

「千早、千早、お風呂も広い!」笑

「1泊とかもったいなすぎるね。」

「ねー!」

 21時を過ぎていたが、このお風呂はもったいないということで、もう一度ホテルを出て、カットフルーツや飲み物をコンビニで買い込んで、着替えやら何やらを準備して、急いでお風呂へ。洗い場と湯船が別々なので、お湯を溜めながらいろいろできていい。

 そういえば、プールで使ったものを洗っていなかったことに気づいて、水道水でかるくすすいでとりあえず、手すりのところに掛けておく。

 干してあるお揃いの水着をぼんやり眺めながら、彩がポツリと言う

「千早、泳いでいるところカッコよかったなぁ。ウチもアリーナ席から千早の出る大会、見たかったな。」

「・・・」

「勉強も、そこそこできるし、泳ぐのはブランクがあっても速いし、昨日だって走るのをちょっと練習したら速くなりそうな感じだったし、うらやましいなぁ。」

「やっぱり、私、辞めるべきじゃなかったのかな?」

 フルーツをつまんだり、ジュースを飲んだりしながら

「千早は、ツラい練習とかはあんまり好きじゃない方?」

「うん、熱血指導!みたいのはダメかなぁ。陸上部ってその辺どうなの、言い方悪いけど、罵声とか怒号とかしょっちゅう飛んでそう。」

「瀧川先生はあんまり怒らないな。でも中学の時の陸上クラブはなかなか熱が入ってたね。」

「そうなんだ。彩のトップアスリート目線から、正直に言うとどうなの?何も包み隠さず言って」

「トップアスリートは言い過ぎ。千早はさ、今日のクロールでスイスイ泳ぐのを見てたんだけど、ウチ、上から見てて思った。泳ぐのが楽しくて仕方ないんでしょ、って、体全体が、私を見て?見てるよね?って言っているようだった。」

 私は何か言おうと口を開いたがその前に彩が言葉を被せてくる。

「ハッキリ言わせてもらうと、そんなに体が語るのなら、後悔しているんじゃないの?まだ終わっていないことがあるんじゃないの?」

 さらに畳みかけてくる。語気を強めて、

「千早の中に、閉じ込めて、なかったことにしている感情があるはず。」

 語気を緩めて

「いまさら水泳部には戻れないだろうけど、チャンスはまだどこにでもある。」

 やさしく

「自分の心に問いかけて、鍵をかけた部屋をノックしてみたら?・・・私も力になる。」

 私は何か、何でもいいからこの問いかけに返事をしなきゃと思って、俯いて考えを巡らせるけれども、きちんとした答えになる言葉は一つも見当たらない。喉元でつっかえているのではなく、もっともっと最初の方で。

 彩はふふっと微笑んで、立ち上がって湯船から出ようとする。

 私を置いていくのかと不安になる。

 彩は一度湯船から出て、私の左に来て入りなおす。私の後ろに回って右手を私の胸に回して、左手で頭を撫でてくる。私の言葉ではなく感情の方が溢れてくる。どうしよう、私、また泣いちゃうのかな・・・。

「ほら、ガマンしないで、言ってごらん。話してごらん。辻褄なんて合わせる必要はないよ。ウチ以外はだれも聞いていないから。言ってごらん?」

 私は奥歯をグッと噛みしめるが、顎がカタカタ震える。口元がヘの字に歪んで、肩が小刻みに震えて、ついに、心の容量を超えたモヤが凝結し、溢れてしまった。

「どうして、どうして、私の泳いでいるときの心の声が聴こえたの?わからないだろうって思っていたのに。」

「それは、ウチがトップアスリートだから。」笑

「冗談キツいな~」

「この前の100の決勝の時、ゴールしてウチが千早の方を向いて親指を立てた写真、撮ってくれたよね。100って、ほとんど息を止めて走るから、どんどんツラくなってくるんだけど、おかしな話だけど、それがどんどん楽しくなってくるんだよ。もし、ウチの気持ちが千早と一緒なら、気持ちが千早に通じているなら、千早はきっとアレを逃さずに撮ってくれるって思ったんだ。だから、きっと今日ウチが思ったことに間違いはない。そう思ったんだ。」


 しばらく彩に背中から抱きしめられながら、私は何も言えず、でも彩の心地よい暖かい雨を浴びているようだった。

 それから、お風呂から上がって、私たちはまた一つのベッドに入ってくっついて眠った。いよいよ、この旅行で最後の夜だなと思いながら。


 お風呂から上がった後、水分をあまり摂らなかったこともあって、喉が渇いて目が覚めた。

 冷蔵庫を開けて、炭酸飲料を取り出して、大きな窓のカーテンを半分くらいずつ開けて、未明ながらも電気の点いている建物がたくさんある夜景を眺めながら飲む。

 寝る前に彩がベッドの中で言ってくれたことを思い出す。


”ウチのおじいちゃんはね、けっこう何でもできる頭のいい人で、お父さんとかには、なんでもできるようになれ、と子供のころ、いろんな習い事をさせたり、厳しく教育を受けさせたりしたんだそうだ。ウチのお父さんは何でもできるようになったかは知らないけど、どれもソコソコの成績だったようなんだ。でも、おじさんは違った。いつもお父さん(兄)と比べられて、相対的にできないことのほうが多いと言われていたそうなんだ。中学受験だとか、偏差値だとかにとても世の中が敏感になっていた頃で、この流れについていけない人たちは、高校の段階からすでに転落の人生だと決めつけられていたらしいんだよね。ウチらみたいにたかが高校くらいまでじゃ、せいぜい、視野が向けられるのは、県単位くらいの限りなく狭い範囲の話で、どんなに背伸びしても、いま、自分たちが暮らしている、見えている範囲が世界のすべて。


 おじさんはお父さんととても仲が良くて、何か月かに1回遊びに来るんだけど、今年のゴールデンウイーク頃かな、たまたまお父さんが忙しくて休みが取れなかったもんだから、おじさんの家に招待されて2泊してきたのね。おじさんは、今は富裕層の外国人がたくさん住むようになったリゾート地で仕事をしているんだけど、2日目の昼に、ケーキがおいしいという、ちゃんとした、大手チェーンじゃない喫茶店に連れて行ってもらったんだよ。


「よぉ、マスター忙しいかい?」

「ヒマだね。」

 といいつつも、席はソコソコ埋まっている。お昼で2回転して、ここにいる私たちで3回転してお店の営業は終わるだろうか。

「どこが」笑

「お、今日は、かわいいお客さん付きだね。」

「こんにちは。姪の彩です。」

「清水です。お好きなお席にどうぞ~」

 お店の名前と電話番号、マスターの名前の入ったカードを渡される。

「どうする?」

「カウンターには座ったことあるかい?」

「いや、こういうお店は初めてで、、、」

「スタバにコメダに、都会っ子は違うな~。ほら、カウンターに座った座った。」

 カウンターに座って、ログハウススタイルの店内をぐるっと見回す。天井には大きな扇風機のようなものがついていて、暖色系の明かりがファンの付け根のところに4つ取り付けられている。店の奥にはペレットストーブ。カウンターではお湯が沸いていて、理科の実験道具みたいな器具がいっぱい並んでいる。

 左側にある通路の奥には、大きな本屋さんにあるような本棚がいくつか並んでいて、本がたくさん並んでいる。

「何にしますか?」

 水を2つ、ウチらの前に置いて、マスターが声をかけてくる。

「オレ、いつもの。」

「彩ちゃんは?」

「えー・・・と、オレンジジュース、じゃカッコ悪いから、、、」

「ははは」

「どんな味が好みですか?」

「ええと、、よくわからなくて。」

「それじゃぁ、今日の、今の気分で聞いてみましょうか。今日はコーヒーの匂いで楽しみたいですか、それとも味で楽しみたいですか。」

「香りですね。」

「わかりました、じゃあ、あとはお任せを。」

「ハイ」


 店の奥に入っていって、豆の入った銀色の袋を2つ持ってきて、豆を砕く機械にジャラッと入れて粉になった豆が出てくる。これを2回。豆の香りが漂ってくる。

 理科のアレに水を入れて、チェーンのついている上の部分を入れて、アルコールランプを点ける。少し経つと、下からボコボコと空気とお湯が上がっていって、上のコーヒー豆に触れる。豆をかき混ぜて火を止めると。コーヒーは下に戻っていく。


「ほぉ~」

「彩ちゃん、初めてかい、こういうの。」

「ボタンを押したらだいたい、出てくるじゃないですか。そういうものだと思ってました。」

「ははは。そうかそうか。」


「ハイ、お待たせしました。」

「彩さんのは、今日はエチオピアの中煎り、シティローストです。彩さんにはちょっと苦いかも、なので、クッキーをサービスしておきますよ。」

「わー、ありがとうございます。」


 ちょっと大人になった気分でコーヒーカップを口に近づける。コーヒーの良い香り、街で飲む大手チェーンのコーヒーとは全然違う。一口、口に含むと花の蜜のような香りと紅茶のような香りがほんのり感じられて、むむっ?となった。

「どうですか?」

「これ、コーヒーなんですよね?」

「そうですよ。」

「なんか紅茶っぽい香りが一瞬しました。」

「あー、イイですね。体調によっては感じるときと感じないときがあるそうですが、そういう豆です。」

「こういうところで飲むのも悪くないだろ?」

「そうだね、・・・ってウチのお金じゃないけど。」笑


「さっきの続きの話をしようか。おじさんたちの若いころは、そこそこの大学に入って、いい会社に入って、そこに留まって定年退職までいる間に、まぁまぁの人生と結婚相手と子供を持って、っていう一つの人生のモデルがあってね。それが、いつの間にか変わってしまっていた。今思えば、何でもできなきゃいけないっていうことはなくて、ちょうど、彩ちゃんくらいのころ、お父さんと一緒で、普通科ではない高校に入れてもらったこともあって、得意なことをどんどん伸ばすべきだっていうメッセージに気づくべきだったんだよね。

自分の苦手なことは、必ず周りに得意な人がいて、周りで苦手とすることを自分が得意だったりする。世の中そういう風にできてるんだよ。これに気づいたのは、1つ目の会社を辞めて転職してから、7~8年経った頃だったかな。もう時は遅すぎたね~。

大学も、当時の政策の流れで、これからのトレンドになりそうな産業のことを勉強する学部に入ったけど、それではとても食べていけそうな収入がなさそうで、今の今まで、あんまり役に立ったことはないんだよね。

テレビや新聞で、都会のことは満員電車でストレスが多いとか、狭苦しいという情報が多いけど、大人になって郊外の存在を知って、そこに足を運ぶ用事ができたとき、ここなら住めたな、とかいろんな可能性を見出したけれども、もう時は遅い。

世界は、社会は、思ったより大きい。いろいろな生き方があるし、いろいろな世界がある。あれは、これは、と自分で向いていないと勝手に決めつけないで、いろんな世界を自分からどんどん見に行ってみるといいよ。可能性を諦めた分だけ、道は狭くなっていく。いろんなチャンスやサインを見逃さないこと。これに尽きる。これは、彩ちゃんだけじゃない。

身の回りで、身動きが取れなくなった人、なんかもがいてそうな人を見かけたときに、この人になら、と思える人に出会った時、そっと背中を押すのではなくて、お茶やジュース、コーヒーの一杯を飲みに行こう、って誘うような気分で伝えてあげてほしいなって思うんだ。」

「得意なことを伸ばす方が、新しい能力を身に付けるよりもエネルギーは要らないよね。」

「そうそう。老後の趣味ならともかくだけど、若いうちは好きなものに好きなだけエネルギーを注ぐ方が、速い。苦手なことに構っている時間はないよね。」

 夕方まで、再来年以降、どうやって進路を決めたらいいのか、という話からその喫茶店に連れられて、たとえそれが抽象的な話でも、ウチが思っている以上に見るべき物事はまだたくさんあることに気づかされた。

 偏差値の方はもうどうにもなりそうもないけれど、ある程度は、まだ何とかなる可能性もある。そこに向けてどう動くか。考えないといけないな。

 と、思いながら、衣服に付いたコーヒーの香りを楽しみながら帰ってきた。”


10月21日 日の出は5:52。

 東の空が白々と明けてきた。あと1時間くらいで日が昇ってくるだろう。彩はまだ目覚めないので、私ももう少し寝ようとベッドに潜り込んで、彩を背中からぬいぐるみを抱くように、彩の体の形に合わせてくっついてぎゅっと抱く。彩の髪の匂い、ボディシャンプーの匂い、寝息、寝姿。明日からまたしばらく夜を一緒に過ごせなくなるから、とても名残惜しい。私は毎日こうして過ごせなくなる日々に耐えられるのだろうか。

 肩まで伸びた彩の髪の毛を触りながら目を閉じていると、また短い時間だったが眠りに落ちた。

 9時にチェックアウト時の集合があって人数確認が終わると、私たちはそのまま上野駅に移動し、荷物をコインロッカーに預けた。次の集合はここに15時。時間があるようで、意外と時間がない。

 京浜東北線に乗って横浜へ南下。ベイエリアを見て、中華街で肉まんを買って山下公園で食べて、最近できたロープウェイに乗って、お昼が過ぎ、だいたいいい時間だね、ということでまた列車で上野に戻る。上野ではもう少し時間があったので、とりあえずパンダは見ておくかということで、上野動物園に滑り込んで、パンダとアフリカゾウを見ただけで駅に戻る。

 あとは駅の喫茶店で集合時間まで時間をつぶした。

「ねぇ、疲れたねぇ。」

「そうだねぇ。」

「今日まで、夢のような時間だったね。」

「うん、昨日の天井から水が降ってくるヤツはラッキーだったね。さすが、雨女の千早。上の階から雨を降らすとは驚いた。」

「代わりに用意された部屋も立派だったし。」

「あーあ。千早と一緒に棲みたいなぁ。」

「今は、ガマンするしかないよね・・・。」


 その後、集合場所に向かい、人数確認が行われた後に寝台列車に乗り込んで帰路につく。集合時刻に誰一人遅刻しなかった学年は、ここ10年いなかったらしく、珍しい。と先生方がホクホク顔をしていた。


 付き合い始めて、かなり最初の方に朝から晩まで二人きりでいることの楽しさを知ってしまった私は、これから正気でいられるのだろうかという不安にかられた。


 帰りの寝台は上下の2段。行きと違って天井が広くていい。

 修学旅行でめいっぱい遊んだ人が多く、まだ夜はそれほど更けていないが、かなり静かだ。

 窓の外の景色も、建物が多かったところから、やがて、まばらな農村地帯に変わっていき、ずいぶん街から離れてしまったように見える。

私もそれほど元気が残っていないので、早めに歯を磨いたりしてから、布団をかぶって読書をすることにした。

 22時すぎ、起きていないともったいない気もしたが、眠くて顔に本が落ちてくるようになったので電気を消して眠ることにした。規則正しく列車がレールの継ぎ目を通るときの音が刻まれ、この数日間の布団のぬくもりを思い出しながら、少しずつ眠りに落ちていく。


 どのくらい経ったか、ふわっと風が顔に当たり、ふと目を覚ますとカーテンがそーっと開いて、ただでさえ一人用寝台で狭いのに、彩が口に人差し指を当てて潜り込んできた。ペロっと舌を出して、来ちゃった。とか言って、私の方が寂しくなって彩の顔を両手で押さえて貪るようにキスをして、抱いて、彩の背中をさする。

 

 数十分くらいそんなことをして、彩は「寂しかった?そろそろ帰るね、おやすみ、千早」と耳元で私にささやいて自分の寝床に帰っていった。いつから彩は私の考えていることがわかっているんだろう。


10月22日

 あっという間に朝が来て、みんな眠い目をこすりながら箱崎駅で最後の列車に乗り換えてまた数時間。何日か本州にいるうちに、こちらの季節も確実に進んでいたようで、来たときよりも風がとても冷たく感じた。冬が近くなっていることをとてもよく感じられる。

 昼、箱崎駅に着いて、現地で解散となった。

 昨日・今日が土曜日曜だったので、その振替休日として、明日・あさっては休みだ。荷物を整理したり、写真を整理したりで休みはなくなりそうだけど。

 彩は親が迎えに来ているようなので、私は自分の家方向の列車に乗ることにしたが、少し時間があったので城崎駅の中にある軽食を売っている店でパンとオレンジジュースで時間をつぶす。

「隣いいですか~?」

「はい、どうぞ。」

 左から声をかけられて、そっちを見ると

「よう!」

「おお、宮内じゃん。」

「どさ?」(津軽弁で「どこに行くの?」)

「次の三裟行きの電車待ち~」

「奇遇だ。本の話でもしようか。」

「あ、旅行中に2冊読み終わったから、ついでに電車に乗ったら返すよ。」

「永野、ずいぶん時間あったんだな。」

「だいたい、帰りの列車の中で読んじゃったんだけどね。みんな寝てたじゃない。」

「ああ、確かに。・・・ちょっとわたしもパン買ってくる。」

「はいはい。」

 ホットドッグと抹茶ラテをお盆に乗せて、隣の席に戻ってきた。

 私は行儀はよくないが、テーブルに肘をついて両手でパンを持って、パンくずが下にこぼれないように食べていた。

「あれ、永野、ブレスレットなんて着けるの?」

 私の左手首に着いているブレスレットを見て、少し驚いたように尋ねる。

「う、うん。スカイツリーで作ったの。」

「へぇ、意外だ。ちょっと見せてもらってもいい?」

「いいよ。」

 ブレスレットを外して、ふーん、と言いながら眺める。

「キレイな配色じゃん。ありがとう。」

 私はまた左手首に通してパンを食べる。

 食べ終わって、電車に乗って、京都の話になって、宮内が言うには私たちの世代で知っている京都出身の作家さんには、たとえばCLAMPとか西尾維新とかがいたんだよね。っていう話になって、あとは、綿矢りさの名前も出てきた。西尾維新の作品はおススメらしい。アニメは実はまだ観ていない。

 宮内が降りる駅のひとつ前を列車が出て、

「あ、忘れないうちに返しておくね。」

と、2冊手渡して。

「どうだった?これ」

「これ、連載の中のどの辺の話なの?」

「まだ続いているヤツだけど、大きく分ければ3番目と4番目の話かな。」

「そっか。3番目の話には主人公の彼女さんはほとんど出てこなくて、ヒロインの子が独占しているような状態になっているのを最後の方まで知らなかったみたいだけど、よく、洗いざらい何をゲームの世界でしているのか聞きたがらなかったよね。私なら何日目かで白状させるな~。」

「ほう、それで?」

「それから、悪役メインの男、勘違いしちゃってかわいそうになって。でもさ、VRで物理的に離れていても、それを無視してオンライン上で会ったり、集まったりできるっていうのはいいよね。寂しくなったときにいつも会える。」


『まもなく、鼻崎、鼻崎。お出口は左側です。鼻崎の次は、開実です。We will soon make a brief stop at Hanazaki, Hanazaki. Doors on the left side door will open. After leaving Hanazaki, we will stop at Akebi. Thank you.』


「ねぇ、永野。好きな人でもできた?」

「えっ?」

「・・・ふふん。ま、どっちでもわたしには関係ないけど。わたしのおススメの本だけ読んでくれれば、わたしにはどうでもいい。読書百戦錬磨のわたしにはわかる。わたしの妄想ネタが増えて楽しみだな。じゃあ、また学校でな!」

「う、うん・・・じゃあね。」

 席を立って降り口に向かう。ドアが開いて宮内が降りる。ホームに降りて、私の横の窓のところまで着て、こちらを向いている。ホイッスルの長い音が響く。ドアが閉まる。電車がゆっくりと動き出す。

 宮内が私に手を振る。私も手を振り返す。

 アイツ、鋭いな・・・。ブレスレットか・・・?でも、私は変わっていくのはアクセサリーだけではない。きっと、これから、まだまだ彩の色と交わって変わっていくのだろう。これはまだ始まりにすぎない。

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