11. 風の人のおまじない・水の衝撃

 9月2日。昨日、大陸の方からやってきた移動性高気圧に覆われて、朝からカラッとした青空に覆われている。予想最高気温は27℃、だが乾燥注意報が出ていて、朝から湿度は30%を下回っている。大会開催中は、洗濯したTシャツはもちろん、洗ったタオルケットがあっという間に乾く、そんな湿度であることが予想される。

 今日は予選競技がメインで、彩の出る種目は全て予選。彼女が予選落ちすることはあり得ないだろうし、そもそも決勝に出るような選手は今日は準備運動みたいなものだろう。

 競技場には管内の高校から何百人と関係者が集まっていて、すごい賑わいだ。トラック種目の他に、跳躍・投擲種目も同じ場所で行われている姿を初めて見た。私たちの高校の文芸新聞部のカメラを持った生徒も何人も、ではないが、それぞれの目的に合わせて取材しているようだ。

 私も、カメラはまだ始めたばかりで、全然なので、明日の決勝に向けて練習しなければならないシーンの撮影が山ほどあり、気を抜けない。

 分単位の密度の高いスケジュールの中、短距離競技を中心にあっち行ったりこっち行ったり、忙しく過ごした。

 大会のアナウンスを聞いている暇やスマホで大会主催者が流す速報を見ている時間がなかったので、誰が予選落ちしたり、棄権したりという情報が全くわからない。

 あっという間に初日が終わって、残る人もまばらになった競技場の観客席に座って、長いこと使っているので、電池がヘタって満充電しても1日持たなくなってしまったスマホをモバイルバッテリーにつないで、今日の県大会のサイトを開く。


 やれやれ、取材陣、みんなすごいなぁ。誰一人残ってないよ。

 大会日程のページを開くと、女子100m決勝10:30、女子200m決勝13:30、女子4×100mリレー15:00、となっていて、どの競技にも彩の名前の横には『Q』と書かれていた。

 彩はちゃんと予選を通過していた。そうだよね。総合成績で8位以内に入ればいいのだし。タイムを見ても割と目標タイムよりは遅かった。時にはヨミを外してうっかり落ちてしまう選手もいるのかもしれないけど・・・。

 あ、そういえばと思って名簿を見返して「柳川風鈴」の名前を探すと、当然、『Q』と印字されていた。

 飲み物をカバンから取り出して、一口飲んで、カメラをカバンにしまって、さぁ、帰ろう。と席を立って、段を降りて、降りて、競技場の出口につながる階段室の入口をくぐろうとした角で、上がってきた人にぶつかりそうになる。


「あっ、ごめんなさい」

 相手があっと後ろによろけたので、危ないと思って、とっさに相手の左腕を引っ張った。私も持っていかれそうになったが、なんとか踏ん張って、グイっと引き寄せて、私の左手で背中を抱き寄せ、

「大丈夫でした?」

 と相手を見ると、彩だった。

「あー、ゴメンゴメン。下から、ここにいるのが見えたから何してるのかなって思って来ちゃった。」

「怪我でもさせたら、私、何て言っていいかわからなくなるところだったじゃない。」

 彩は何のつもりか、私の背中に手を回していわゆる、『カップルが抱き合っている、あの構図』に。

 そしてささやく。

「大丈夫。事故は起きなかったんだから。」

「うん、よかった。・・・ところで、このシチュエーションはなに・・・?」

 離れたかと思うと、今度は、両手で私の肩に手を置いて、グイっと私を後ろに押すと、

「決勝に残った~!」

 と嬉しそうに私に言った。

「おめでとう、明日が楽しみだよ。彩は学校のバスに乗っていかないの?」

「ん?千早っちと帰りたくなったから、断ってきた。」

「もったいない。列車、タダじゃないのに。」

「デートはプライスレス、違う?それに、千早っち、ひとりで帰るの寂しいだろうなぁ~って思った、ウチの気持ちの汲み方、現代文の問3あたりで10点もらえてもいいと思うんだけど!」

「ありがとう。でも、割と電車の時間近いよ?」

「そうか、じゃぁ、歩きながら話そうよ。今日の写真、すぐに見れる?」

「タブレット持ってきたから、SDカードをさせばすぐに見れるよ。」

「うん、電車の中とバスの中でじっくり見せてよ。」


 電車の中ではいろんなよく名前が上がってくる選手のことについて熱心に語って、この選手のここに、どういうクセがあるから、これで、どのくらいタイムを損しているだとかそういう細かい話をいろいろ聞いた。

 そこで、彩は自分の走り方や技術にどういう課題を持っているのか、を聞いたら、スパイクを取り出して、地面に刺してそれを前に進むためのエネルギーに換えるのがマッチすれば、もう少し、と。あとは、多分、周りのことを気にしな過ぎて、速すぎるから自分だけが走っている、と思っているのが良くないのかな?と頭を掻きながら言っていたが、結局、全部一般論だから、指摘されているものは全部その人の癖なのだから、それで速くなるのなら苦労はしないよ、と言っていた。最後は、筋力筋力!と太ももをペーン!と叩いて話していた。

 駅からバスに乗り換えてからは30分もかからない距離だが、ちょっと疲れたよ、っていう雰囲気を出していたので、私は明日の天気だとか風だとかそういうのを黙々とスマホでチェックしていたら、私の右肩に何か重みを感じると思って見ると、彩は私にもたれかかって静かに眠っていた。

 今日の汗の匂いがふわっと、香ってくる。

 それが愛おしくて、起こさないようにスマホを眺めていた。


 9月3日、昨日まで移動性高気圧に覆われて続いた秋晴れ。今日で4日目。そろそろ高気圧は通過してしまうから、今度は雨が近いはずだ。天気が崩れるのは今日中なのかそれとも明日なのか。競技場から駅までは歩きだし、それに競技場内には雨宿りできる場所がほとんどないし、雨だからと言ってもよほどでない限りは中止にならないだろう。

 天気予報の資料を眺めていると、日本の南からは大きな台風が近づいてきていて、今日・明日に本体がどうこう、ということはないが、その縁を回る暖かく湿った空気の影響で、遠く離れた場所でも大雨になることがある。

 夕方からは寒気が入ってきて、次第に雲が広がってくる天気で、雨の可能性は高いと思ったので、荷物にはチョットいい、ハイキング用の雨合羽と着替えとビニール袋をリュックに入れて家を出てきた。

 今日の大会は、前の水泳の大会の時と同様に、地元のラジオ局が中継に入っているようなので、競技の進行状態を聴くためにも、FMラジオとイヤホンを持っていくことにした。単4電池2本もバッチリ。

 8時。競技場に着いて今日の私の狙いは全て、直線コースの部分だけ。リレーの出走順は聞いていないので、中距離から長距離を狙える、少し重いズーム幅の広いレンズを持っていく必要がある。明日、二の腕の筋肉痛はキマリだな。と思いながら、レンズについているフィルターに脂汚れがないかをチェックして、掃除する。真っ白な紙にカメラを向けて1枚撮って、センサーや鏡の部分に汚れが付いていないかも確認したが、これは掃除をする必要がないようだ。

 SDカードの残り容量は1000枚以上あることを示す『999』の表示。電池の残量も4ゲージで満充電。準備はバッチリだ。

 9時。荷物が少し大きいので、大会本部のところに広げられている、手荷物置き場と書かれたブルーシートに自分の荷物を置いて、トラックの内側の芝生のところで待機していようと思ったら、スマホが鳴る。

 千早っち、来てる?

 うん、グラウンドにそろそろ行こうかなって思って。

 こっちに来れない?

 行けるけど、入場まで30分くらいしかないじゃない、大丈夫?

 うん、大丈夫だよ。

 わかった。どこ?

 A3ゲートのところ。

 うわ、反対側だ。5分チョットかかるかな。

 うん、待ってる。

 急いでいくね。私もちょっと準備があるから。

 彩からのそんな切り出しのメッセージは珍しいなと思って、競技場のトラックを突っ切るのは、何かダメな気がしたので、急ぎ足でスタジアム下の通路の真西側から反時計回りにぐるっと真東側に向かって、行くと、誰もいない通路のところにポツンと立っている彩がいた。

「ごめん、お待たせ。」

「準備してる時に来てくれてありがとう。会いたかったよ~。」

 と一言言って、私をグイっと抱き寄せる。彩のウインドブレーカーの衣擦れの音がした。

「何これ。」笑

「うん、ちょっと緊張しちゃって。千早っちといると、ホッとするから、試合前の私のおまじないだと思って・・・」

「そう?」

 何も言う必要がないと思って、一言だけ言って抱きしめ返してあげた。

 何分も経っていないと思うけど、何分も経っていたような時間だった。

「・・・あんまり、普段は使いたくない、嫌いな言葉だから言わないんだけど、」

 私は彩の肩を持って、距離を取って、それから彩の両手を握って言う。

「がんばってね。」

 彩も手を握り返して

「うん!ありがと」

 と言って手を切った。

「いい写真、撮るから、彩が駆けた後にできる乱気流の色、見せてね。」

「うん。今日のユニフォーム、新しい勝負服なんだ。楽しみにしてて。」

「うん。じゃあ、そろそろ行こう」

 永遠の別れでもないのに、永遠の別れをするかのように、もう一度ギュッとお互いを抱きしめて、惜しむように手を軽く振りあって別れた。


 時刻は10時00分になりました。ラジオをお聴きの皆さんおはようございます。今日は桑野公園陸上競技場で行われています、陸上競技の県大会の模様を夕方5時ころまで、途中休憩や情報を挟みますが、特別放送を平と山屋でお送りします。どうぞお時間の許す限りお付き合いください。

 山屋さん、いやー大会期間中、いい秋晴れの空でしたねー。

 そうですね、昨日なんか、もう絶好のコンディションだったじゃないですか。

 今日は今のところ、直線競技については追い風ですが1mなので記録認定の範囲内です。気象台発表の天気予報では、今日は夕方までは穏やかな天気が続いて、大会の終わりの方の競技については、若干、曇り空が心配だ、と言っていましたが。

 ええ、湿度が低くてこれは最高ですよ。

 ですね~。さて、まもなく2日目の決勝競技が始まりますが、まずは女子100mの決勝ですね。

『それでは、女子100m決勝を始めます。選手の皆さんは入場してください。』

 選手入場です。女子100m、県記録は11秒83、これもまたずいぶん長いこと更新されていませんね。

 そうですね。これは6年前でしたか。追い風が1.8だったのもあって、好タイムだったんですよね。1位の選手がぶっちぎりで駆け抜けた映像が今も残っていますね。

 さて、選手たちが入ってきました。スタート位置に着きます。

『第1レーン 四条高校1年、田中 有紗ありさ、、、第2レーン 泉高校2年、湯島ゆしま 裕実ひろみ、、、第3レーン 上城崎高校1年、佐藤 めぐみ、、、第4レーン 泉高校2年、柳川 風鈴、、、第5レーン 上城崎高校2年、高旗 彩、、、第6レーン 霧立高校1年、大木 昌子まさこ、、、第7レーン 南高校2年、富士 祐希ゆうき、、、第8レーン 泉高校2年、伊藤 文恵』


 それぞれが名前を呼ばれると後ろを振り返ったり、観客席の方を向いて手を振ったり礼をして8人の選手はスタートダッシュのフォームを調整したり、ストレッチをしたり、スタート前の緊張感が高まる。

 私はゴールラインから後方に少し離れた、レンズのズームを使ってゴールの時に上半身を切り抜ける場所に陣取った。スタートラインの選手の様子を撮ろうとカメラを縦にして一人一人の様子を撮った。

 彩が言っていた勝負ユニフォームは、エメラルドグリーンを基調にと黄色と白の切り返しの入ったトップスとショーツ。これって、もしかしてあの色を意識したのかな。


  10時29分、『On Your Marks』審判が告げ、全員がスターティングブロックに足をかけ、クラウチングスタートの姿勢を取る。大会主催側からの通達では、この大会に関してはSetの合図からスタートのピストル音までは音のするものは全て使用してはいけない決まりになっている。ので、全員が手をついてかがんで下を向いている写真を撮るのはここまでだが、みんな気を使ってか、早めに全ての音が止む。

『Set』

 選手たちの腰が一斉に上がる。

 会場が静まり返る。正面から風を感じるが、風の音すらしない。

『パーン』

 8人の選手が一斉にスタートする。

 各学校の陸上部員や観客が一斉に応援の声を上げる。

 それでも、選手たちのスパイクの地面を突き刺して地面を踏んで、蹴って、前に進む足音がザッザッザッと聞こえる。

 私は夢中でカメラをパンさせて連射機能を使って彩を捉える。見える。エメラルドグリーンの風が。ツラそうな顔をしているが、実は風になってすごい楽しいんでしょ?と思える顔が見える。

 隣のレーンの柳川が追い上げてくる、ファインダーの右側に柳川の肩がチラついてくる。もうすぐゴールだ。逃げ切れるか、抜かれるか。彩は必死に手を振って足を前に出して走る。もう少し、もう少し、がんばれ、がんばれ。あと何歩か。

 一気に前傾姿勢を取って彩は晴れやかな顔をしてゴールラインを越えた。良かった。100m優勝じゃない。ファインダーから眼を離そうとしたら、顔がこちらを向いて右手の親指を立ててやったよ!という笑顔を見せる。いやいや、そんなシャッターの要求ある?と思いながら、10コマ撮った。私がこんなとこにいるのをいつの間に見ていたんだか。


 山屋さん、女子100mでしたが、素晴らしかったですねぇ。

 ええ、高旗と柳川の両選手、同じ高校だったら短距離最強校で、どちらかに陸上が強くなりたい選手ばかり入った人気校になったかもしれませんねぇ。

 さて、記録が出ました。

『女子100m決勝、1位 高旗 彩 上城崎高校2年 11秒81 県大会記録。』

 ワーッという声が会場に響く。両腕を開いてこぶしを突き上げ、ヨッシャー!と言う声が響く。

『2位 柳川 風鈴 泉高校2年 11秒95』

 腰に手を当てて、何とも言えない表情をしていた。お互いライバルだけど、讃えあったりするには、朝イチの競技だし、まだ早いか。

 順に8位まで発表になり、『以上 追い風1m、公式記録です。』のアナウンスで100m決勝は終わった。


 次の彩の出番はお昼休憩の後。私もこの何十分かで撮った写真が数百枚になったので、容量を空けておきたいので、データをパソコンに移動させようと荷物置き場に向かった。

 リュックを取って、歩いていると、上城崎高校控えスペースという貼り紙のある場所をみつけた。そこへ行ってみると、彩が部員や先生たちに囲まれてワイワイ祝福を受けている様子が見える。

 他の文芸部員も何人か集まってその様子を記録している。


「あっ、千早っち遅いよ。」

「ここが控えスペースだったんだね。ごめん、荷物取ってきてた。記録更新の目標達成、おめでとう!」

「ありがとう。」

 彩が私に喜びの様子の写真を撮らせる暇もなく飛びついてきた。

「私も撮りたいんだから、ちょっと離れてよ。」笑

「あっ、悪い悪い」


「瀧川先生、おめでとうございます。」

「ホントね~。しばらく破られてなかった記録、私たちで破れて良かった。でも、まだ夕方まであるから。喜ぶのは全部終わってからね。」

「はい、他の競技も楽しみにしてます。、、、私、ちょっとデータの確認をするのでまた、後ほど。」


 そう言って競技場を出てすぐのテーブルのある4人くらいが座れる場所でパソコンを開いてSDカードからデータの移動を始める。コンセントにつないでいないので、処理速度が遅い。移動には20分くらいかかるようだ。これが終わったらご飯だな~。と思ってお茶を飲んでいると、

「千早っち」

 後ろから声がかかって振り返ると、ウインドブレーカーに着替えた彩だった。

「いいの?アスリートって試合前は精神集中!とか言って瞑想しているもんじゃないの?」

「ウチは、ジッとしてられないからダメなんだ。こうやって話をしているのが一番。」

「部員のみんなはいいの?」

「試合前の過ごし方はいろいろだし、他の競技に出てたりして、人がいないんだ。千早っちはヒマなんだから、少しは相手してよ。」

「いや、確かにヒマだけど。何があっても人のせいにしないでよ。」笑

「しないしな~い。・・・さっきの?」

「うん、移動中であと20分かかるみたい。」

「ずいぶん撮ったのね。」

「私、ヘタだから、数撃たないと当たらない。」

「なるほど。楽しみにしてる~。ところで、お昼ご飯どうするの?」

「来るとき、コンビニでおにぎりとか買ってきたから、ここで食べちゃおうかな、って思ってる。」

「そう。・・・まだここにいる?」

「うん、データの移動が終わらないからね~。」

「じゃあ、ウチもお弁当取ってくる。」

「あいよ。」

 ルンルンと走っていく後姿を見送る。時々、競技場から歓声が響く。今の時間は男子の直線競技だな。イケメンでもいるんだろうか。

 パソコンの画面に目をやると、残り10分。12時20分になっていた。

 ドラムバッグを肩に掛けて彩が戻ってきた。

「お待たせ~。」

「おかえり。」

 彩は弁当の入っているという巾着袋を取り出してテーブルの上に置いて、中身をだした。

「え?それだけ?」

 テーブルの上に並べられたのはゼリー飲料とお茶、容器に入った肉と野菜。

「そうだよ。2回分のうちの一つ。この後、また走るじゃない、だから重たいものを食べておなかに来たら大変だし。」

「なるほどね。」

「気にしないで、普通におにぎりとかを食べる人もいるけど、そういう人は、それなりに時間を考えて食べてるね。」

「さすが、大変だね。」

「千早っちのお弁当は?」

「ツナマヨと昆布と梅の3つ。おかずはサラダだね。和風ドレッシング。」

 テーブルの上に並べる。

「え、3つも食べるの~」

「私、燃費悪いから」笑

「ん、でもまだコンビニの袋の中に入ってるね?」

「あ、これは」

「いいから、見せろー」

 袋を取り上げると、彩は中を覗き込む。

「おー、ウマそうなもん入ってるね。」

「食後のおやつにプチシューだよ。」

「もちろん、くれるんでしょ?」

「もう、しょうがないなー・・・おなか痛くしても知らないよ?」

「大丈夫だって、甘いものは別腹だよ。千早っちのは特別」

「なんじゃそれ。」

 彩はゼリー飲料を手に取り、キャップを開ける。

「あれ、彩は左利きなの?」

「いや、右利きだよ?」

「でもキャップは左で開けるんだ。」

「そうなの。ドアも髪を洗うのも左。だって、この方が便利でしょ。飲み物は右で持って飲むんだから、左で開けた後にすぐ口に持っていける。無駄がないじゃない。」

「へぇ~。もしかして両利き?」

「それはないと思うけど、、、」


 食事を終えて、データの移動が終わったので、電池のこともあってパソコンの電源を落とす。

 向かい合わせではなく、隣同士でお昼を過ごした。

 12時50分。

「そろそろ行こうか。」

「そうだね。」

 彩がなかなか立ち上がらないので、何かなと思って、試しに

「なに、またおまじない要求?」笑

 と聞いたら、

「・・・」

「いいよ。」

「優しい。ありがとう。」

 彩の左隣に座り直して、右腕で抱き寄せると、私に体を預ける彩。

 そよ風で植木の葉が擦れる音がする。

 彩は短い時間目を閉じて、静かに開く。

「ありがとう。行こっか。」

「うん」

 そっと髪の毛に触れてから立ち上がって、競技場に戻る私たち。


 時刻は13時になりました。午後の競技が始まります。午後最初の競技は女子200m決勝です。女子200mはすごいことになりましたね。

 そうですね、大荒れでしたね。決勝の4人が上城崎の選手で独壇場みたいですね。

 上城崎の200、どうして今年はこんなに伸びたんでしょうね。

 3人が2年生ということで、もしかすると今年の2年生は雰囲気がいいのかもしれませんね。

 何にしても、黄金期のようで、後進もこれを受け継いでほしいものですね。

 さあ、選手の入場です。


『それでは、女子200m決勝を始めます。選手の入場です。』

『第2レーン 上城崎高校2年 高旗 彩、、、第3レーン 泉高校2年 柳川 風鈴、、、第4レーン 柏台高校1年 富士 祐希、、、第5レーン 上城崎高校2年 廣田 奈々、、、第6レーン 北高校2年 塚本 梓、、、第7レーン 上城崎高校1年 瀬戸 明日実あすみ、、、第8レーン 泉高校2年 伊藤 文恵、、、第9レーン 上城崎高校2年 神山 紗綾さあや


柳川さんとは、また隣なんだ。カメラに収めるにはいい構図で、私にとっては最高だけど、彩はどうなんだろう。本当はにこやかにおしゃべりしたいのだろうか。


『On Your Marks』

 彩は100mのときより、やや緊張ているのか腹筋が小刻みに動いている様子だが、かがんで、指をスタートラインの手前に置いてトラックの先をまっすぐ見つめてから、顔を真下に向ける。他のレーンは一切見なかった。

 

『Set』


 パーン


 フライングの選手はなく女子200m決勝が始まりました。一斉にスタートを切りました。あっ、7レーンの瀬戸と8レーンの伊藤、少し出遅れたか。曲線部分が終わって横並びになります。一番早いのは誰か。

 非常に際どいが、2レーンの高旗と3レーンの柳川が横並びになっています。両者とも一向に譲らない。ここで、廣田と富士が少し疲れてきたか、

 いえ、足の回転は変わらないですね。これは高旗と柳川の加速がすごいんじゃないですか、面白い200mになりそうですよ。

 おおよそ100mのあたりでタイムは13秒です。県大会記録は24秒49です。もしかすると記録更新の試合になるかもしれません。

 100mで記録を塗り替えた高旗の走りですからね。これは記録は間違いなく記録の出る勝負になりそうです。


 連射機能を使ってシャッターを切り続ける。

 ファインダーから見える彩は変わらず、カッコいい。今は私にだけ見える、パステルグリーンの風をまとって、ぐんぐんスピードが上がってくる。柳川とほとんど並んだまま譲らず直線コースを走り続ける。そのとき、柳川からオレンジ色の風が急に見え始め、彩の風の色を打ち消し始めた。

 それでもなお2人の走りは続く。


 1位2位の座はほとんど決まったか、3番手の富士とは目に見えて差がついている。柳川と高旗が横一線、放送席からではどちらがトップか見分けがつきません。このまま譲らずゴールするのか、真横一線、両者譲らない、両者譲らない。さぁ、ゴールしました。歴史的な200mの決勝になりました!


 どちらが勝つのか、まるでわからないまま、彩と柳川がゴールラインを越える。私のカメラをすぐに確認すれば結果はわかるのだが、それよりも会場のアナウンスを待った方が早いだろう。

 彩は肩を大きく上下に揺らし、膝に手を当て前屈姿勢になっている。まだ顔を上げる余裕はないようだが、1位になった確信もないように見える。一方で柳川も激しく呼吸しているが、笑顔がこぼれる。それはどんな笑顔なのであろうか。


『女子200m決勝 結果発表です。向かい風1.3m、公式記録になります。』

 多くの観客の視線が、大型スクリーンに向く。

『1位 泉高校2年 柳川 風鈴 24秒45 大会新記録。2位 上城崎高校2年 高旗 彩 24秒46、、、』

 スクリーンにはゴールライン横に取り付けられているカメラの画像が映し出される。陸上のルールでは胴体がこのラインを越えたときにゴールとみなされ、24.45と書かれたラインに柳川の胴がある。

 長さにしたら1センチ、いやそれ以下かもしれない。


 彩!と思ってトラックを見ると、客席に向かって深々と頭を下げているところだった。頭を上げた時の顔を覗くと、あー、そうか~、という複雑な顔をしていたが、すぐに柳川のところに駆け寄って行って、何か声を掛け合っている。

 軽く抱き合ったあとに、2人とも笑顔を見せていて、彩がおもむろに柳川の左手をつかんで、勝者!と言わんばかりに上に上げた。

 ちょっと~ 笑 という声が真ん中まで届く。会場からは大きな拍手が沸き起こる。柳川の目からは涙が溢れ、どっちが負けたのか、いまこれを見た人には全く分からない状態になった。

 泉高校の陸上部の生徒が涙をこぼす柳川に駆け寄ってきて、言葉をかけられながら、一緒に歩いていく後ろ姿は何とも美しかった。

 0.01か・・・。

 さっきの0.01差。彩のタイムも県大会記録更新だったが、幻の更新記録になった。おやつを食べたところで、カメラのデータをパソコンに移動されていく様子、紺色の■、%、紙が左から右に飛ぶ絵を呆然と眺めていた。

 14時。

「千早っち、またここにいたんだ。」

「うん。」

「どうしたの、何かあった?」

「いや、別に。」

「そう。」

 彩は私の隣に腰かけて、両手を後ろについて体を反らせて遠く斜め上の方を眺めていた。

「・・・次のリレーは絶対勝つ。」

「うん、彩の嬉しそうな顔をもっと撮りたい。今度は勝利の神様が憑いていると思う。」

「さて、次に備えて、、、」

 巾着袋から、間食を取り出して食べ始めた。私たちは特に何か話すでもなく、最終種目までの時間を過ごした。


 14時30分。

 女子の陸上種目最後の競技、リレー。

『女子400mリレー、選手の入場です。』

 各校の選手が順に紹介されていく。彩がイヤだと言っていた、自己紹介のパフォーマンスをして選手がそれぞれのレーンと場所に走って移動していく。客席からは、カワイイとか、ウケはいいようだが、私もちょっと照れる。

 第6レーンの泉高校は、100m決勝で7位、12秒72を出した伊東文恵、同じく100m決勝で12秒38の湯島裕実、200mの準決勝で敗れた遠藤沙織、そしてアンカーに柳川風鈴。今年の泉高校最強メンバーの布陣だ。1年は遠藤だけ。来年の有望選手ということなのだろう。

『第9レーン 上城崎高校。佐藤 めぐみ、廣田 奈々、瀬戸 明日実、高旗 彩。』

 緑のハチマキを巻いた4人はそれぞれ名前を言われた順に礼をして、観客に手を振って、何かするのかと思ったら、集まって握手をして軽く礼をして、それぞれの場所に向かった。時間が押しているのかな?と思ったが、後になって、彩が直前までどうしてもアレやらなきゃダメ?と言っていたようで、これで競技のパフォーマンスが落ちては、元も子もないとメンバーが思って、じゃあやらないことにしよう。と言ってそれで済ませようという配慮をしたらしい。

 もし200mで勝っていれば、もしかしたら、何かしたのかもしれないが、彩は態度や表情には出さないようだけど、それなりに精神的にダメージを受けていたんだろうし、ずっと一緒に競技をしていたのだから、部員もそれを察したんだろう。と思う。

 上城崎高校の布陣、佐藤めぐみは1年100m決勝で12秒23で3位。廣田奈々は2年、200m決勝で24秒55で4位、瀬戸明日実は1年、200m決勝で24秒77で7位。アンカーの彩はご存じの通り。

 半分が1年という、来年も楽しみなメンバー。


 各校の選手がそれぞれの位置に着く。

『On Your Marks』

『Set』

 パーン

 一斉にスタートを切る。佐藤、伊東はスピードに乗ることに成功し、ぐんぐん加速していく。佐藤は緑のバトンをしっかり握って向こうで待つ2走の廣田のところへ。あっという間に2走のテイクオーバーゾーン手前のチェックマークに到達。

「スタート!」佐藤は廣田に合図を送る。

廣田はスタートを切る。佐藤はラストスパートをかけて30mのゾーンギリギリのところで、バトンパス。

「ハイッ!」

 わずかに遅れて、伊東は2走の湯島にパス。

 廣田から瀬戸、湯島から遠藤、若干追い付かれるも、まだ上城崎はリード。1歩分くらいだろうか。

 瀬戸は右にバトンを持っているが、そういえば彩は左に持つのかな?どうするのかと思っていると、チェックマークを通過した時に、バトンを左手に持ち替えた。それを見た彩が左手を後ろにして走り始めた。彩のパステルグリーンの風が沸き上がる。瀬戸の白い風が見える。

 瀬戸は勝利を確信したのか、「勝て!」と力強く彩の左手にパス。「任せろ!」、と一言言ってゴールめがけて走る彩。

 2番手の泉高校は遠藤も若干バテたか0.5秒くらい遅れてアンカーの柳川にバトンが渡される。

 走り終えた選手たちがゴール付近に集まってくる。

 佐藤と廣田はすでにゴール近くに、瀬戸は中央に移動して、「彩~!」と叫んでいる。彩のペースは落ちない。彩は両手を高く上げて、右人差し指で「1番!」を宣言してゴールする。

 3人はトラックに入ってきて、ゆっくりと速度を緩めて立ち止まった彩に、よくやった!と声をかけて、それぞれの栄誉を讃えあった。

 上城崎高校45秒48。泉高校46秒02。泉高校を制した。

 4人のこの上ない、素晴らしい笑顔を見た。よかった。よかった。私も胸が熱くなった。


 表彰式が終わって、電車の時間を気にしながら観客席で片づけをしていると、彩が階段室を出てこちらに走って向かって来るのが見えた。

「彩、どうしたの?」

「あ~よかった~。まだ帰ってなかった。」

「いま準備を始めたところ。」

「先生が学校のバス、開実駅までだけど乗っていくか?って。みんな、ほかの文芸部の子にも声をかけてるんだ。」

「電車代浮くから助かるかも~。乗ってく。」

「じゃあ、下に行こう。」

「うん、行こう。」

 競技場前には他の学校の陸上部のバスや、送迎の車がズラっと。上城崎高校運動部と書かれた中型のバスがその中に停まっていた。運転するのは誰なんだろうと思ったら、教頭先生だった。教頭先生の世代は運転免許を取って、その後、法改正があったけど自動的に中型免許まで付いてくる世代だったらしい。

 でも、こんなデカい車を運転できる先生って他にいるんだろうか。

「お願いしま~す。」

 教頭先生と陸上部の部員に挨拶をして、私は彩と一緒に後ろの方の席の窓側に座った。

「あら、バスにコンセント付いてるの?」

「そうだよ。運動部の移動って長距離でしょ。だから、いろんな部活と合同でスマホやタブレットの充電ができるように要望したんだよ。タブレットとかパソコンの画面共有があれば、ギリギリまで作戦会議を画面上でできるでしょ?バスケとかバレーとか戦略が必要な部活には必要だよ。こういうの。」

「だよね。」

「ま、私たちはもっぱら、動画サイト観たりするのに使うから、漁夫の利ってやつ?」

「でも、フォームの確認とかには使うでしょ?」

「ま、ね。」

 じゃあ、とコンセントを借りてパソコンをつないで、カメラのデータを転送することにした。

 電源をつなぐとさすが、転送が速い。いつも20分かかっているところ、10分で終わった。

「ねぇ、今日のデータ見せてよ。」

「うん、いいよ。でも、数多いよ?」

「いいよ。」

 カメラをカバンにしまって、今日の写真を順番に開いていく。

 200mのファイル群になって、彩と柳川のゴールラインに達する時の連続写真になった。

「ああ、これは確かに、鈴が速かったね。」

「うん・・・」

 私は思わず俯いた。

「?・・・どうした?別に、千早っちが負けたわけではないでしょ。」

「うん。」

「?じゃあ、なに?」

 スマホをWifiテザリングに切り替えて、パソコンでブラウザを起動させて動画サイトにアクセスする。

 去年のちょうど今頃の水泳の新人戦のタイトルを入力して検索をかける。あれ以来、このことについては自分でほとんど触れなてこなかったから、手汗がすごい。

「あ、やっぱりあるんだ・・・。」

 イヤホンの端子をパソコンのイヤホンジャックに刺して彩に、ハイと渡す。耳に入れたのを見て、

「いくよ。」

 5分弱の動画、再生している間、私は窓の外の街路灯が点き始めて薄暗くなっていく景色を窓に左ひじをついて眺めていた。

「千早、、、これって。」

「うん、観ての通り。」

「今日の、彩の0.01っていうを見て、ちょっと動揺しちゃった。」

「そっか。ウチ以上に、あの数字のことを思っていてくれてたんだ。・・・ありがとう、千早は優しいね。」

 彩は私の頭をそっと撫でた。

 恥ずかしかったから、ちょっと、みんな見てるよ。って言おうと思ったら、周りはみんな疲れて寝ていたようだ。

 そっとパソコンを閉じてリュックにしまう。リュックの中の雨具を見て、そういえば、今日は予報が外れて湿度の急な上昇もなく、急な雨もなかったな。と思った。

 ほどなくしてバスは、開実駅に着いた。

 私と彩と何人かがここで降りた。ここは高校のある場所からはかなり遠いので、通っている生徒の数は多くない。何人かと「またね」、と挨拶を交わして手を振って、駅前のバス停には私と彩2人だけになった。

 日も沈んで、涼しい風が吹いてきた。夏服と薄い羽織ものでは少し寒い。

「寒くない?」

「うん、寒くなってきたね。」

「長袖持ってこなかったの?お天気マニアなのに。」

「今日は夕立になると思って、持ってきたのは雨合羽だったんだ。」

「千早のヨミが外れることなんてあるんだ。」

「そりゃね。私はお天気お姉さんの資格が取れるほど頭は良くないし。」

「ウチの予備、着なよ。風邪引くから。」

 彩はドラムバッグからウインドブレーカーを出してきた。

「今度、返しに行くね。」

「うん。」

 この前借りた黒のウインドブレーカーを着て、ベンチの真ん中に二人、肩をくっつけて、暖かいね、なんて言いながら座ってバスが来るのを待った。

 少し経ってバスが来て、それから、私たちはいつもの”y”字路で「じゃあね」と腰くらいの高さで手を振って別れようとすると、なぜだかわからないが、急に、涙があふれてきた。

「どうしたの?」

「いや、何でもない。」

「何でもないわけないじゃない。・・・ちょっとそこのベンチで休んでいこう?」

 肩を押されて、重い足取りで”y”字路の中央に建っている時計塔を囲むように置かれたベンチの一つに腰掛ける。

「・・・そっか、あの大会、ツラかったね。思い出させてゴメンね。」

「私、乗り越えたと思ってたのに。どうしてだろう。」

「うん、いいよ。そんなこともあるって。大丈夫。ツラかったね。」

「ダメだ、涙止まんない。ゴメン。」

「うん。いいよ。」

「ありがとう。」

「・・・ありがとう。優しいね。・・・ありがとう。」

 気の済むまで彩のウインドブレーカーの両腕を握って私は泣いた。とにかく、涙が止まらなかった。

 今日、急な土砂降りになったのは、私の心だった。

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