7. 水の幻影

 その夜、私は夢を見た。時々見る、あの大会の夢。

「千早、ほら上がっておいで!」

 仙道先輩はスタート台の横から右腕を目いっぱいに伸ばして私に手を差し伸べている。

「千早!」

 私はプールの底に何かに引っ張られるように沈んでいく。

 会場が騒然となる。

「いけない!」

 大会の審判員が、担架!担架をもってこい!とあわただしくなる。

 仙道先輩はプールに飛び込んで私を抱えて、担架に乗せられる。

 脈が弱い。救急車呼んで、AEDは?閉会式は中止!お客さんを誘導して!


 いろいろ待ってたら、千早が死んじゃう。

 最近の心肺蘇生法では、直接粘膜に触れるのはご法度という教育を受けているが、待っていられない。心臓マッサージを30回。口から息を吹き込む。肺が2回膨らむ。それを繰り返される。

 何度か繰り返されたところで、私は水を吐き出す。

「心肺戻りました!」

「救急車もうすぐ来ます!」

「玄関まで運んで。」

「審判長、そっち持って!イチ、ニ、サン!」

 玄関まで運ばれたところで救急隊員と合流。

 救急隊員が担架からストレッチャーに移す。

「あとよろしくお願いします!」

「わたしも乗っていきます!乗れますか?」

 救急隊員はどうぞ。顧問と仙道先輩も乗って病院に連れていかれる私。

 なんでー、個人だけで勝ったって意味ないんだって。なんで0.02なの。まだ大きい大会は何回かあるけど、先輩に最高の舞台を作ってあげられなくて、悔しくて悔しくて。


 病院で診断を受けて、頭の写真やらいろいろ撮られて、特に問題はなさそう一時的なストレスでショックを受けたのでしょう、命に別状はないですから、別の処置室に意識が戻るまで移しておきましょう、ということになった。

 処置室に移されて、顧問は各方面に連絡があるから、しばらく様子を見ていてほしいと言われて何ができるわけでもなく、ただぼーっと眺めていた。


 私が目を醒まし、状況を理解するのにそれほど時間はかからなかった。

「先輩、ゴメンなさい、迷惑ばかり・・・」

 先輩は目に涙をいっぱい浮かべてこぼしながら、私の肩をきつく抱きしめて、よかった。よかった。と繰り返し言った。

「先輩の記録を台無しにして、本当に―」

「もう、いいから!」

 そう一言だけ言って、先輩は両手で私の頬を押さえて唇を重ねてくる。えっ女子同士なのに・・・と思ったが、不思議とイヤではなかった。体の力が抜けて行って、さっきの窒息の苦しみではなくて、フワっとした気持ちよさが湧いてくる。

 しばらく唇が重なったままだったが。

「あっ、わたし・・・」

 と急に先輩が離れた。

 イヤではなかったけど、コレは何と言ったらいいのかわからなくて、どうなるかわからないけど、とりあえず反射的に出たのは言葉ではなく、逆に先輩に唇を重ね返すという、自分でもよくわからない行動だった。

 先輩はビックリして眼をいっぱいに開いて私を見つめる。

「先輩、先輩ならイヤじゃないです。、、、その、、心配してくれてありがとうございます。」

 もう一度、先輩の唇を奪った。

 日曜日だから外来患者がいないので病院の廊下は静かだった。こちらに近づく足音がする。それを聞いて、私たちはまた元通り離れて、何もなかったかのように元の位置に戻った。

 引き戸がスーっと音を立てて開いた。

「先生、千早が帰ってきた。」

「あら、よかったよかった。二人とも、パンとジュース買ってきたら、食べて休んだら行こうか。永野さんは仕方ないとしても、仙道さん、着替えくらいササっと持って来なさいよ。」

「心肺蘇生法やったの、わたしなんですけど!そんな時間あるわけないじゃないですか!」

「それもそうね。病院でそれ、貸してくれるっていうから、後でプールに一度帰って荷物を取りに行くから、また着替えなおしなさい。」

 私のファーストキスは憧れの先輩にされたようだったが、記憶にないファーストキスになってしまった。先輩はどうだったんだろう。塩素の味になっちゃったのかな・・・。初めて、だったのかな・・・。


 プールに帰って、いろいろ迷惑を掛けたことを詫びた。しかし、大会の審判長が、「あの団体はすごかったよぉ、歴史に残る団体戦だった。素晴らしいって。観客に帰るように誘導したんだけど、冷静に、静粛にするからってほとんどの人が帰らないで、永野さんが運ばれていく担架に、みんな声援を送ってたんだよ。容体は大丈夫って聞いて、みんな帰ったんだけど、一人だけ永野さんが帰ってくるまで帰らないって北高の内村さん、待ってるよ。」と

 事務室の奥の救護所に案内された。


「永野さん、お帰り!すごかったね。ビックリした。審判長に直談判して、居させてもらった。また次の大会、楽しみにしてるから。」


 それだけ告げられて、内村沙也は事務室を後にした。


 この夢には何パターンかあるのだが、今日は良い方の終わりだった。

 この出来事が本当に起こったかどうか、私は家に帰るまでの記憶がすっかり抜け落ちているので、なかったかもしれないし、あったかもしれないし、よくわからないのだが、ただ、事実なのはこの時に着ていた水着は処置の時にハサミで切られたりすることはなく、そのままあって、私の机には、2位の表彰台でボロボロ泣いている私を先輩が抱きしめて苦笑いして、高見さんが表彰状をカメラに向かって掲げて、佐藤さんが私の頭を撫でている写真、顔を上げられない私の代わりに首からぶら下がった、銀色のメダルが正面を向いて輝いている写真が飾られていることだけは事実だ。


 この夢を見るたびに、私が今生きていることが確かであることを証明するいろいろなモノの代わりに、あの日、うちで先輩に甘えたときのあの髪の匂いをふと思い出すと、胸がキュンとなって、体が熱くなってくるのだ。

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