四章 たった一人の最愛は(3)
彼女は心清らかで、小さな幸せの一つ一つを噛み締めて神に感謝するような、そんな女だった。その性格を考えるに、恐らくは初めて父や兄たち以外に知った男性として、幼馴染の婚約者も愛していたのだろうと思った。
それなのに、彼女の一番目の婚約者であった男は、他の美しい女に夢中だった。それを利用して、リチャード・エインワースは、まんまとその婚約破棄後の新たな婚約者に収まったのだ。
リチャードだってすぐに気付いた。結局のところ、サラ・グレイドが悪役令嬢なんていう事実はどこにもなかった。
正規の婚約者を横からぶんどった男爵令嬢は悪くないという、はじめから仕組まれ用意された舞台の中で、相手のろくでもない男は多くの友人に祝福されて結婚した。それを冷静に外から見ていた少数派は、その真実にはとっくに気付いていた。
しばらくの沈黙のあと、拓斗が「あのさ」とぎこちなく口を開いた。
「それ、漫画とかゲームとか、夢の話か……?」
「………………」
理樹は、親友に背を向けたまま黙っていた。
拓斗は悩ましげに視線をそらし「よく分かんねぇけど、俺としてはさ」と鞄を机の上に置いて言葉を続けた。
「本気で好きだと言ってくれてる子には、中途半端な態度を続けるよりも、ハッキリさせてやった方がいいと思うんだ。相手は真剣なんだからさ、お前も、一度くらい真面目に考えた方が――」
真面目に考えろ。
そう告げる言葉が聞こえた瞬間、理樹の中でこれまでずっと我慢していた何かが決壊した。この十一年間、悩まされなかったことはなかった感情が爆発し、気付けば彼は怒りを露わに拓斗を怒鳴りつけていた。
「『真面目に考えろ』だって!? 俺だって真剣に考えてる!」
いつだって真面目に、ずっと真剣に向き合っている。だからこそ、これ以上の態度と言葉でハッキリさせてやることも出来ないでいるのだ。
初めて目の前にする怒り狂う様子に気圧された拓斗が、一歩後退した。理樹だって、これは八つ当たりだと分かっていた。
それでも、何よりも真剣に考えているからこそ、それを否定されるという逆鱗に自分を抑えることが出来なくて、理樹は荒れ狂う心に心臓が切り裂かれるこの痛みを吐き出すように、拓斗の胸倉を乱暴に掴んだ。
「お前に何が分かる!? 愛していたんだッ、俺は夫婦となった彼女を、いつしか妻と彼女を心から愛していたんだよ!」
嫌いだなんて、記憶がないとしても彼女本人に言えるはずがないのだ。
嘘であったとしても、悪党のよう貴族であった彼にも、それだけは口に出来なかった。
同じ魂を持って、同じ顔をして、この世界でようやく手に入れた幸福な家族のもとで生き、苦しみも寂しさも知らずに笑う幸福な娘に、そんなこと言えるはずがない。
「愛する人を失って数十年を生きる絶望が分かるか、これが夢であったらどんなにいいかと、自分の死を願っても数十年も生きた苦しみを知っているか!」
「理樹、お前ちょっと落ち着――」
「泣かせて先に死んだ妻が目の前にいて、前世の記憶が戻って、それで冷静でいられると思うかッ? 俺は妻となった彼女に恋をして、愛して、共に生きて」
喉まで膨れ上がった感情に呑まれ、一瞬言葉が詰まった。
「………………彼女が俺の、全てだったんだ」
どうにか絞り出そうとした声も震えた。理樹は、拓斗の胸倉を掴む手を小さく震わせて、ゆっくりと視線を落とした。
どうして出会ってしまったんだろう?と彼女は言った。
俺だって、どうして彼女を選んでしまったのだろう、と思った。
俺はひどい男だ。あのまま何しなければ、彼女は自分から愛する運命の人を見付けられたかもしれない。
その別の誰かを選んでいれば、彼女はその男と愛する幸せな人生を送って、泣くこともない最高の幸せの中で、最期を迎えることが出来たのではないだろうか。
そんな想いばかりが過ぎった。俺は、彼女の運命ではなかった、と。
俺は自分のことしか考えていなくて、そうやって彼女を選んだのだ。彼女は優しい女性だったから、婚約者となった俺を愛する努力をして、そうやって一番目に想った誰かの次に愛してくれたのだろうか、と考えたりもしてしまう。
どうして前世の記憶なんて戻ったのだろう。
戻るのなら、時間を逆行させて欲しかった。
どうせならゲームでよくある話のように、あのクソみたいな貴族の男が過ごした時間を遡り、記憶がある状態であの日に戻して欲しい。
彼女に初めて声を掛ける前の日から、全てをやり直したい。
そうしたならば、俺は、声なんてかけない選択をするだろう。
今度こそ、彼女が最期に未練のような涙を流さない、幸せな人生を送って欲しいと思った。五歳の頃に記憶が蘇ってすぐ、心からそれを願って、同じ過ちを繰り返してなるものかと心に決めたのだ。
愛してた。今でも愛してる。
たった一人の最愛の女性だった。
忘れられるはずがない、だって彼女は俺の、大切な妻だった――
口の中で呟いたら、思わず涙がこぼれ落ちた。理樹はどうにか堪えようとしたが、熱くなった目頭を押さえても、指の隙間からボロボロとこぼれ出て止まってくれなかった。
既に胸倉を掴んでいる片手は、指先で押すだけで簡単に解けるくらいに緩んでいた。拓斗は、目の前で静かに肩を震わせる理樹を見て、しばらく掛ける言葉が見付けられなかった。
「…………理樹、それ、マジな話なのか?」
拓斗は遅れて我に返ると、ひとまず落ち着けよと慌てて、親友の涙を止めることから始めることにした。
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