四章 たった一人の最愛は(2)
その大きな瞳が、収まり出した驚きと変わるように、安堵を覚えた様子で潤い度を増した。沙羅は口を少し開閉させたものの声はなく、びっくりしすぎました、とその表情で語る。
前世での長い付き合いからそれを察した理樹は、「俺だって驚いた」と答えた。少し腰を屈めて腕で支えた彼女を覗きこんだ姿勢のまま、こう続けた。
「俺を避けてくれるのは問題ないが、こうも要注意人物みたいな反応をされて、お前が怪我でもしたら困るんだが」
彼女はかなり運動音痴なのだ。もし本当に階段から落ちたり、段差でつまずいて派手に転倒してしまったら……と考えると肝が冷える。女の身で打ちどころが悪かったら大変だから、やめてくれと言いたい。
遅れてやってきた拓斗は、二人の無事を確認してから、少し離れたところで足を止めて様子を見守っていた。
理樹は少しずつ手から力を抜いて、沙羅が自分で立てるようだと分かったところで、彼女から手を離した。
「……………だって、私ばかりがいつも、ドキドキさせられているの……」
今だってそうよ、と沙羅が俯いてそう呟いた。
話が見えず、訝って顔を顰めたら、沈黙の返答を聞いた彼女が顔を上げた。
その表情は今にも泣き出しそうになっていて、理樹は軽々しく質問の言葉をかけることが出来なくなった。
「こんな風に優しくされたら、余計に意識してしまいます。ドキドキして、いろんな想いがぐるぐるして、うまく話すことも出来ないのがつらくて。……なのにこうして顔を合わせたら、また私だけが勝手にドキドキしてる」
どうしていいのか分からない、混乱しているのだというように、沙羅は揺れる瞳で言葉を続けた。
「向けられる眼差しが柔らかいだなんて感じて、思い返したら余計に意識しちゃってダメなんです。普通にお話し出来なくなったら、もっと胸が苦しくなって、この一週間あなたのことばかり考えて」
理樹は固く唇を閉ざしたまま、正面の沙羅を見下ろしていた。何も言えなかった。
本来であれば告白を続けさせるのではなく、運動場で風紀委員長の西園寺が口にしていたように、理樹は即刻止められる言葉を選んで告白を断っていただろう。
その相手が、彼女でなければ。
「……どうして、私を好きになってくれないんですか?」
いつもの元気の良さを潜め、沙羅がひっそりとそう呟いて、じわりと涙腺を緩ませた。
涙がこぼれ落ちる直前、彼女は堪えるようにきゅっと唇に力を入れたかと思うと、こちらの横を通過してのろのろと走って行ってしまった。
拓斗が戸惑った様子で走り去っていく沙羅を見て、立ち尽くしている親友へと視線を戻した。理樹は背中の向こうで、ただ遠ざかっていく遅い足音を聞いていた。
告白をもっと強く断れる方法がある。
ハッキリと拒絶してしまえばいい。
理樹は、長く生きた前世の経験からそれを知っていた。
リチャードは悪党みたいな貴族で、結婚する前の十代前半の頃から女の扱い方には長けていたし、その知識も経験も豊富だった。
『お前には興味がないんだ』
『俺は、お前が好きじゃない』
けれど『嫌いだ』といったことさえ、理樹は沙羅に対して口にしたことはなかった。
そんなこと、出来る筈がないからだ。
西園寺は多分、こちらが迷って動けないでいることに気付いたのだろう。それを察したうえで、運動場で二回目に顔を合わせた時に、あんなことを言ったのかもしれない。相談があるのなら乗るよ、と。
言えるわけがない。今の俺は冷静ではないのだ。
そうでなければ、誰が眠れない夜を過ごすというのだ。
理樹は、静かに鞄を拾い上げた。それから、拓斗を通り過ぎて部室を目指した。
しばし迷いを見せた拓斗は、ひとまずは労うように「……ナイスな救出劇だったぜ」と声を抑え気味に言って、彼の後を追うように部室に入った。冷房機の電源を入れて、しっかりと扉を閉める。
「なぁ理樹、俺はとやかくいうつもりはなかったんだが……一緒にある程度過ごして、お前も彼女が良い子だってことは分かってるだろ?」
先程から無言を貫いている親友の背中に向かって、拓斗はそう声をかけた。
理樹は足を止めず、中央にある、四つの勉強机が一つの大きなテーブルを作っている席へと足を進める。
「俺としてはさ。沙羅ちゃんがいい子なのを分かっていて、なんであんな可愛くて一途な子の告白を受けてやらないのかなぁ、とか最近は少し思うところもあってさ…………。だってさ、うちの学校じゃ小動物みたいに可愛い美少女で、お前には勿体ないくらい一途で、性格も良いじゃん?」
そう言った拓斗は、ふと「言葉だけ並べると、ホントなんであの子が理樹に惚れたのか分かんなくなってきたな」と悩ましげに眉を寄せた。
テーブルの上の適当な位置に鞄を置いたところで、理樹はそれを見下ろしながら、こう呟いた。
「…………生まれ代わりって、信じるか?」
小さな声でそう口にしたら、後ろにいる拓斗が「はぁ?」と声を上げた。
理樹は構わず、独り言のように、なんとなくそれを口にした。
「……ひでぇ男がいたんだ。奴は成り上がりの貴族で、婚約破棄されると噂されていた伯爵令嬢に近づいて、破棄されるなんて知りもしなかったと彼女を慰めた。そうして結婚を申し込んでお飾りの妻にしようとして、惚れて……女は最後の最後に静かに泣いて『どうして出会ってしまったんだろう』って言って、泣いたまま死んでいったんだ」
最期の言葉は、途切れ途切れだった。けれど、自分が結婚後に彼女に抱いた『結婚までの理由と行動』への罪悪感から、彼女が言わんとする言葉がそれであるような気がした。
他に、どんな文章があるのかは浮かばなかったからだ。
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