第十話

 あまりにも必死な松本舞の気迫に俺は寝たふりをやめていたのだが、俺が体を起こすと松本舞はベッドから飛び降りて部屋から出て行ってしまったのだ。

 何が起きたのか状況を飲み込めない俺ではあったが、松本舞が部屋から消えた数秒後に水が流れる音が聞こえてきたので全てを察することが出来たのだ。

 そういう事か。あの子はエッチな気分になったわけではなく、ただ単純にトイレに行きたくてもぞもぞしていたという事なのだな。勘違いして変な気を起こさなくて良かったという思いもあったのだが、俺は心のどこかで違う未来の事も想像してしまっていた。


「寝てるとこ起こしちゃってすいません。どうしても我慢出来なくて河崎さんの事を起こしちゃいました」

「別にそれは良いんだけどさ、トイレに行きたかったら俺の事を気にしないで跨いでいっても良かったのに」

「それは出来ないですよ。寝てる人を跨ぐなんて良くないですからね。そもそも、人を跨ぐなんてはしたないじゃないですか。それと、河崎さん足もとから出ようかとも考えたんですけど、あんまり大きく動いちゃうと起こしちゃうんじゃないかなって思って遠慮しちゃったんです。すいません」

「本当に気にしなくていいからさ。あれだけたくさん飲んでたんだったらトイレにも行きたくなるよね。それは仕方ないさ」

「寝る前にトイレに行ったはずなんですけどね。それでも私の中に溜まっていた分は出し切れなかったみたいですよ。それと、本当に申し訳ないんですが、ちょっとだけ漏らしちゃって借りてたパンツ汚しちゃったんです。ちゃんと洗ってあるんで安心してください」

「それも気にしなくていいよ。じゃあ、今は何も履いてないって事だよね?」

「そうなんです。でも、河崎さんから借りたパンツってやっぱりサイズが合ってないんでブカブカでちょっと気になっちゃうんですよね。僕って普段寝るときはパンツ履かない派なんですけど、朝になったら自分のパンツ履くんでこのまま寝てもいいですか?」

「良いとも悪いとも言いにくいけどさ、君はそれで大丈夫なの?」

「僕は大丈夫なんですよ。というか、その方が寝やすいって言うか、腰のあたりを締め付けられるのってなんか気になっちゃうんですよね。あ、上はさすがに脱いだりしないんで見えたりはしないと思うんで安心してください。寝相も悪くないと思うんで迷惑かけることも無いと思いますよ。って、ベッド借りてるのが既に迷惑かけてるような気もするんですけど、それは許してくれますよね」

「まあ、許すも許さないもないけどさ。本当にパンツ貸さなくて大丈夫?」

「本当に大丈夫です。僕も彼女とお泊りする時はそのままパンツ履かないで寝たりしてますから」

 そのままパンツを履かないってのはどういう意味なんだろうなんて聞くのはやめておくことにしよう。きっとこういう事は聞かない方がいいってものなんだろうな。

「あ、そう言えば、また河崎さんは僕の事君って言いましたよね。もう、ちゃんと名前で呼んでくださいって言ったじゃないですか。河崎さんがそういう態度をとるって言うんだったら、僕はお店で河崎さんの事名前で呼びますからね。みんなの前でも呼び捨てで呼んじゃいますよ。理由を聞かれたら、河崎さんと一緒にお酒を飲んだ後でお泊りしてから名前で呼ぶようになったって言いますからね。何も間違ったことは言ってないつもりですけど、これを聞いたら日野さんは河崎さんの事をどう思うんでしょうかね。ちょっと楽しみです」

「それは良くないと思うよ。何一つ間違ってはいない説明になると思うけどさ、それを聞いた人は何かあったんじゃないかって思っちゃうでしょ。そんなの良くないって」

「まあ、確かにそうかもしれないですけど。僕は名前で呼んで欲しいだけなんですよ。それ以上は何も望んでないですから。せっかくこうして河崎さんといつもより距離を縮められたんで僕は嬉しいって思ってるんですからね。でも、もっと河崎さんと心の距離を近くに出来たらもっと嬉しいなって思ってるんですよ。ほら、その為にも名前で呼んでくださいよ。じゃないと、この状況で自撮りしてみんなに自慢しちゃいますよ」

「それって、俺だけじゃなくて君も誤解されちゃうんじゃないかな?」

「ああ、また君って言った。次君とかお前って言ったら僕は本当に実行しますからね。それでもいいって言うんだったら好きなように呼んでくれてかまいませんからね。日野さんだけじゃなくて大原さんにも相談してみようかなって思ってるんですよ。さすがに今から電話をするのは申し訳ないと思うんでLINEかメールにしちゃうと思いますけど、河崎さんはどっちが良いと思います?」

「さすがにどっちで送っても迷惑なことに変わりはないと思うけどな。でも、別に名前で呼ぶのが嫌だってわけでもないんだよ。何となくさ、距離感を詰めすぎるのはどうかなって思うだけであって、別に深い意味とかはないんだよ。俺は誰に対してもそうだってだけでさ、職場の人とは一定の距離を保ちたいってだけの話なんだよね」

「わかりました。そこまで頑なになるんだったら僕にも考えがあります。職場の人からもう一歩距離を詰めればいいって事ですよね。じゃあ、今から距離を詰めるためにもチューをしましょう。チューなんて外国じゃ挨拶みたいなもんですけど、ここは日本ですし二人の距離を詰めるにはちょうどいいんじゃないですかね。僕は河崎さんだったらチュー位してもいいかなって思うんですけど、河崎さんはどうですか?」

 どうですかと言われてしたいですと素直に言えるはずもないのだが、今ここでチューをしてしまうと立ち止まれなくなってしまうような気もしていた。

 でも、この状況でチューをしたくないというのも逆に失礼になってしまうのではないかという思いもあったりするのだ。

 俺はこういう時にいつも迷ってしまうのだが、今回ばかりは深く考えずに素直に答えを出そうと思う。

「どうします。チューして距離を近付けますか?」

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