第61話 交戦-9



 ティアナの鎖から解放された時、自分の中を通り過ぎて行った魔物の力。それがとても懐かしく、愛おしいものと同じ気配がして、咄嗟に手を伸ばすとその手を引かれた感覚がした。そして、気が付けば、マイオソウティスの咲き誇る庭に立っていた。

 それと同じ景色は、カエルムとして幸せな時を過ごしていた頃の遠い記憶の中に在った。王宮の中庭には、王妃 ルナティクスが好きだからとマイオソウティスが一面に植えられ、春になるとそこは一面の青色に染まるのだ。その中にたたずみ、穏やかに微笑む母の姿は、子供心ながらに美しいと思っていた。


「あぁ、もう春が来るのか」


 口をついて出た言葉が自分でも驚くほどに穏やかであった事に、くすりと笑みが漏れた。何故、自分がこんなところにいるのか分からないが、このままクラヴィスとしての生を終えてもいいのかも知れないと思う。もう何度目かも分からない学生生活は思いのほか楽しく、神子や加護を持つ者たちと過ごした日々の記憶は、きっと次の時の慰めになるだろう。出来る事なら、もう少し、彼らと共に過ごしていたかった。


「約束、守れなかったな」


 生きるための最善を尽くす……なんて、そもそも自分にそんな資格などありはしないのに。


 ざざぁっと音を立てて強い風が吹いた。反射的に目を閉じ、次に見た景色は、酷く踏み荒らされてしまったその場所だった。これは魔王となった父を撃った後、城に入った時に見たものだ。

 あぁ、そうか、ここはカエルムだった頃の記憶の中なのか。


「許さない……ゆるさない」


 踏み荒らされ、枯れてしまった花を握り、そう繰り返す後姿に幼い頃に見た彼女の面影は何処にもなかった。


「あぁ、愛しい私の息子。もう、私にはあなたしかいない」


 草を踏む音に気付いた彼女は、振り返り笑みを浮かべて俺を見た。その目は血走り、とても正気とは思えなかったが、それでも自分を生んだ母には変わりない。


「母様……」


 父へ刃を向けると決めた時、母を連れて行かなかったのは、彼女が拒んだからだ。最後の時まで父と共に在ると、そう告げた凛とした声を、これから先、どれだけ時を重ねたとしても忘れることはないだろう。

 そして、俺は俺の中の信念に基づいて決意をもって父を撃ったことを曲げることは出来ない。どの道、父が禁忌の力を手に入れたことで道を別つ運命だったとしても、彼女の最愛の人を奪った事には変わりない。

 膝を付き、母の手を取る。謝罪は起きたことへの言い訳だ、けれど、何も持たない俺が、今、息子として出来る唯一のことでもある。


「申し訳ございません。母様、それでも、私は……父様を撃ったことを後悔はしておりません」


 ギリっと握った彼女の手に力が入った。何処にそんな力があるのかと思うほどに強く、俺の手に食い込んだ爪が肉を割く。


「っ……母様」


 俯く彼女の表情は分からないが、その身からぶわりと魔力が湧きたった。それは、俺の知る清廉なものではなく、憎しみを形にしたような黒い魔力だった。


「そうよ。あの人も、国も、民も……全てを、私から全てを奪ったカエルム、お前を許さない」


 彼女を覆う魔力は、その背で漆黒の翼となった。


「まさか、あなたも……禁忌に」


「そう、私があの人にこの力を上げたの」


 四方を他国で囲まれ、資源の乏しかったサンクティオは、その立地を生かして流通の要、商人の国として成り立っていた。サルトスの木材、ゲンティアナの鉱石、メディウムの海産物、オレアの畜産物は全てサンクティオに集められ、そして各地へと運ばれていった。しかし、魔物が現れるようになると、徐々に物流は滞り始めた。

 護衛をつけながらも続けていた商人も減り続け、自国での資源を持たないサンクティオは困窮し始める。どの国も魔物に対抗できるようにと武力に力を入れたが、中でもサンクティオは商人の護衛を生業としていた者たちがさらに力をつけて組織化した。最初は無法者の集まりだったそれは、後にサンクティオの誇り高き騎士団となる。周辺諸国からも最強と称賛された騎士団の護衛の下、再び物流は回復し、サンクティオ国内での活気も戻っていた。

 だが、その時の記憶は彼女の心に黒い影を落としていた。


「泥水を啜る様な生活はもう沢山……このままではカエルム、あなたに残すものなんてないと囁いたらあの人はすぐにこの力を欲したわ」


「だから、あなたは魔物の手を取ったというのか……。奴らは、あなたを苦しめた元凶だっただろう! 」


 爪の先で俺の血を掬った彼女は、くすりと笑い、赤く染まったその指を舌で拭う。


「あの人は私が望んだ時にはなんにもしてくれなかったのよ。失意の中で泣く私に手を差し伸べてくれたのは、あの人でも、民でもない……魔物だけだった」


 禁忌の、魔物の力に魅入られたのは父ではなく母だった。その事実に頭を殴られたような強い衝撃を受けて眩暈がする。


「愚かな……」


「何とでも言えばいい。あなただって、女神たちにそそのかされて、親殺しの罪を背負わされるなんて」


「そそのかされてなど……あれは私の意志で」


「結果は同じでしょう? 私も、あなたも、人ならざるモノに力を貰って、人ではなくなってしまった」


 漆黒の翼を羽ばたさせた彼女は詰め寄り、咄嗟に飛びのいた俺の首元へと手を伸ばした。その勢いでギリリと締め上げられる。ぐっと息を詰めて耐えるが、肺に空気を送り込むことが出来ない。


「あなたのその魂を黒い魔力で染め上げて、新しい王に。そして、この国を女神たちから取り戻すの」


 愚かなのは俺も同じかと思う。

 魔物の指揮を執る存在を探ってみれば、最悪の形でそれは現れた。もう、彼女は俺の知る母ではなくなっている。その真実を知り、今まさにその手で殺されそうになっているのに、それでも、俺は彼女に愛されていたし、彼女を愛していたという想いを捨てられない。

 抵抗を止めた俺に、彼女はニヤリと笑うと、血濡れた指先で心臓の上を指した。


「安心して、あなたは私の愛する息子ですもの。苦しまないようにしてあげるわ」


 うっとりと紡がれる言葉に、身体中の血が沸き上がる様な感覚がする。あぁ、これは怒りという感情だ。父を、国を、民を裏切った彼女への怒り、それに気付けなかった、この期に及んでも彼女を母だと思ってしまう自分への怒り。

 自分から黒い魔力が立ち上がるのが分かる。このままでは、彼女の思い通りに俺は魔に飲まれて魔物へとなり果てる。それならばいっそ、そうなってしまえば、女神たちは俺を躊躇なく殺す事が出来るだろうか。


「いい子ね。そう、そのまま私に身を任せて」


 そうだ、このまま怒りのままに身を任せてしまえばいい。ゆらゆらと黒い魔力が俺を包み込んでいく、苦しさはもうなかった。


「なっ……! 」


 混濁した意識の中、驚いたような彼女の声がして喉元にあった手が離れていく、ぼんやりとその姿を俺の目が捉えていた。

 状況を飲み込めないまま、今度は金属の擦れる音と共に細い鎖が俺の身体を捕らえる。それは先程まで俺を拘束していたティアナの鎖だった。黒い魔力に反応するそれは、容赦なく俺を締め上げていく。


「忌々しい女神ども、カエルムまで私から奪うつもりか! 」


 ティエラの鎖に阻まれ俺に近づく事の出来ない彼女は、鎖の伸びている方へと叫んだ。しかし、それに応える者はない。俺から距離を取った彼女は、ふっと口元に笑みを浮かべると、まぁいいと吐き捨てた。


「戦えば戦うほど、あなたの魂は魔物の力で染まっていく。封印石で閉じ込めようともそれは変わらない……せいぜい足掻くといいわ。でも、覚えておいて。きっと、最後にあなたが選ぶのは私の……魔物の王であることだわ」


 彼女は子供の頃に見た優しい笑顔を浮かべると、その顔に似つかわしくない黒い翼を大きく羽ばたかせた。周囲に黒い羽根が舞うと、景色は暗闇に包まれ、黒の中に彼女の姿も吸い込まれていく。完全に彼女の姿も見えなくなると、地の感覚もなくなり、ティエラの鎖に縛られた俺は、暗闇の中で宙吊りになった。


 この鎖は、俺を浄化することは出来ない。ただ、捕らえておくだけだ。

 それでも、これ以上、魔物の力を取り込まずにいられるなら、このまま俺の魂を永遠に捕らたままにしてくれと、そう考えるのはおかしいだろうか。何時までとも分からない生を繰り返すなら、このまま暗闇に捕らわれたまま過ごしても何も変わらない。深紅の剣で殺されるなら本望だが、それは深紅の心に影を落とし続ける。

 業を背負うのは俺だけでいい。


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