第10話

 文化祭当日。クラス企画のお化け屋敷のシフトをのらりくらりと躱したわたしたちは、購買前から『たんぽぽ珈琲』の営業をはじめることにした。


 開場は9時。

 あと5分もない。


 校舎は高揚と緊張がほどよく混じりあったざわめきに満ちている。

 購買前の廊下をばたばたと慌ただしく駆けていくのは、パンダの着ぐるみだったり、メイド服だったり、似合わない女装姿だったり、もう何でもありだ。どこからか、円陣を組むかけ声まで聞こえてくる。


「あたしたちも円陣組もっか」


 ほのかがにやにやしながら腕を伸ばしてくる。


「ふたりじゃ円陣にならないでしょ。ただのハグだよ」


「じゃあただのハグしようよ」


 人の気も知らないで、ほのかはぷらぷらと手首を揺らしてせがんでくる。

 わたしは動きかけた手を気持ちでねじ伏せ、コーヒー豆をミルに入れていく。


「ハグもしない。変なこと言ってないで、そろそろお湯沸かす準備しといて」


「へーい」


 ほのかは雑な返事をして、ケトルに家庭科室から汲んできた水を注ぎ込む。

 コーヒーを淹れるのには、ミネラルウォーターは適していない。だから、空にした2リットルペットボトルに水道水を汲んで使うことにしたのだ。


 ケトルに電気を使うため、コンセントを頼りに校内のあちこちで営業することにしている。

 そのコンセントもあらかじめ使用申請をしており、予定では5ヶ所を巡ることになっている。


 購買前からは中庭が見える。綺麗に晴れた淡い色の空。池のそばの楓は、枝先から赤く染まりはじめている。

 わざわざ種を撒いたわけではなさそうなコスモスが、あちこちで咲いて風に揺れている。


 校舎を見上げると、窓から中の装飾が少しだけ見える。折り紙で作った輪っか、カラフルな風船、窓から垂れ幕をさげているところもある。

 真っ黒のカーテンはうちのクラスのお化け屋敷だろう。


「ね、ほのか。お客さん……来るかな」


 つい、不安が顔をのぞかせる。猫背のエプロンには、暗い影を落とすシワがついてた。


 ほのかはそんなわたしの目をのぞきこみ、にっこりと笑った。


「大丈夫。絶対来る。だって、真凛のコーヒー美味しいもん。淹れたて本格三ツ星コーヒーだもん」


「ブラックコーヒー飲めないヤツにコーヒー美味しいって言われてもな」


 昇降口の方から、わあっと歓声が上がった。そのざわめきは、波のように各教室に伝わっていく。

 開場され、お客さんが入ってきたみたいだ。呼び込みの声が廊下に響きはじめる。


 まだ現れぬひとり目のお客さまのために、豆を挽きはじめる。

 ほのかはケトルのスイッチに指を置いたり下ろしたりと、見るからにそわそわしている。


 なるべく新鮮な豆を使うために、昨日の帰りに購入したマンデリン。

 保冷ボックスにはホイップクリームと各種フレーバーのソース。


 荷台の正面には、ほのかが作ったたんぽぽ柄のコーヒーカップのロゴを描き、消しゴムで掘ったスタンプで紙コップにもロゴをあしらった。


 たくさん準備してきた。練習もした。


 あとは今日1日営業したら、終わり。


 ずっとここでひとり目のお客さまを待っていたい。

 ほのかとずっといっしょに一生懸命何かをしていたい。


 無気力な帰宅部員だった今までが、急にもったいなく思えてくる。

 ほのかが「真凛と何かがしたい」と言った意味が今なら分かる気がする。


 ポニーテールにしたほのかの髪が、跳ねるように揺れた。


「あ、来たかも」


 ほのかの視線を追ってみると、パンフレットとわたしたちとを交互に見てうなずいている女性ふたり組がいた。

 他の高校の生徒か、OGの大学生だろうか。わたしたちと同じくらいの年齢層だ。


 ほのかは早計なことにケトルのスイッチを押した。

 横顔をちらりとうかがうと、肩をすくめて満面の笑みを見せつけてくる。


 女性2人組は、少し躊躇うような足取りで近づいてきた。

 はじめての客だと自覚しているのだろう。お互いに先を譲りあうような視線のやりとりがあった。


「い、いらっしゃいませ」


 たどたどしく言いつつお辞儀をする。バイトも未経験だから、いらっしゃいませ、なんてはじめて口にする。


「いらっしゃいませ! はじめてのお客さまですよ。ありがとうございます! ご注文は?」


 ほのかは持ち前のフレンドリーな性格が、接客業にあっているのだろう。

 客側の緊張までほぐすような言葉をかけている。手書きのメニュー表を指さす2人組も和らいだ表情を見せている。


 注文はホットコーヒーとキャラメルマキアート。

「かしこまりました」とうなずいたのと同時に、お湯が沸いてケトルのスイッチがぱちんと切れた。


 ここ2週間で身体に叩き込んだ動作で、コーヒーを淹れていく。

 あっさりしすぎないように、濃くなりすぎないように、お湯を注ぐ速度を一定に保つ。


 レジ係のほのかが、100円玉を2枚受け取っているのを見て、手が震えた。

 ケトルから注ぐお湯が少し乱れ、空気を含んでふくらんだコーヒーの山を崩してしまった。


 わたしのコーヒーが売れた。


 ほのかに味見してもらうときとは段違いに緊張してくる。

 お金をいただいた以上、味の評価は当然厳しくなる。たった100円、されど100円。


 わたしのコーヒーの価値は100円に届くのだろうか。

 急に不安になってくる。

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