第5話

 ミルにコーヒー豆を入れ、ハンドルを回してガリガリと挽いていく。挽き終えてミルを開けると、苦く香ばしい香りが一気に解き放たれる。

 ほのかは香りの流れを目で追うように顔を動かし、ほわ、とかすかに声を上げた。


 粉になったコーヒーをペーパーフィルターに移し、注ぎ口がストローのように長いケトルでお湯を注いでいく。

 抽出されたコーヒーが落ちる、雨が降りはじめたような音が、キッチンに染みこんでいく。


 テーブルにひじをつき、わたしの手つきを食い入るように眺めるほのかが、不意に「ふふん」と笑みをこぼした。


「ミルにドリッパーにケトル……ぜんぶ揃えたんだ。すごいね」


「誰のためだと思ってんの」


「経費ってことで請求できたのにさぁ。何でレシート捨てちゃうかなぁ」


 ほのかは自分の問題でもないくせに、さっきから「もったいないもったいない」とうるさく言ってくる。


 レシートを捨てたというのは嘘だ。

 あえて自腹で買おうと決めたのだ。


 経費で買った場合、文化祭が終わったあと、その道具がどうなってしまうのかが気になった。

 どこかにしまいこまれるのも、いつか掘り出されて誰かに使われるのも嫌な気がした。


 だったら、自費で買ったものがたまたま文化祭で使えた、ということにしてしまえばいい。


 思い出にほこりを被せることも、何者かに上書きを許すこともせずに済むのなら、お小遣い3ヶ月分なんて安いものだ。


 抽出を終えたコーヒーを、ふたつのカップに半々で注ぐ。

 いつもはもったいなくて使えない、お気に入りのカップをほのかに。自分はいつも使っている古びたカップを手に取る。


 ほのかは昨日言っていた通り、放課後にわたしの家へとやって来た。

 両親は仕事中だから、家にはわたしとほのかしかいない。母なんかがいたら、滅多に連れてこない友だちに、わたし以上に浮かれてしまうだろうから、いなくてよかった。


 ほのかは知ったふうな顔でカップを鼻先で揺らし、湯気を顔中に浴びた。

 揺れたコーヒーがカップからこぼれて、指にかかったらしい。あちあち、と言いつつ、人のエプロンに手を伸ばしてくる。紺色の布地でコーヒーを数滴拭かれるくらいなんてことない。黙って貸してやる。


 ほのかは眉を下げて笑うと、今度はゆっくりとカップを口に近づけた。静かにすすり、こくっとのどを鳴らす。


「ど、どう?」


 コーヒーの味が分からない両親の感想は、苦いだの渋いだの眠れなくなりそうだの、参考にならないものばかりだ。

 そう言う自分だって、さっきより苦い、ちょっと酸味が減った、これは好みかもしれない、とそんな感想しか出てこず、一般的に美味しいと言えるのか分からずにいた。


 ほのかはカップを置き、おもむろに口を開いた。


「ねぇ、真凛……」


 うん、とうなずくと、ほのかは肩をすくめてへにゃっと笑った。


「砂糖とミルク入れていい?」


 まじめな感想を期待していたわたしが馬鹿だった。

 カフェをやろうと誘ってきたくせに、100円コーヒーで甘さMAXにするような、コーヒーには造詣のないヤツだった。


「店長なら少しくらいまともな感想を言ってよ」


「えっ、あたしが店長なの!?」


「だって、カフェの発案者はほのかでしょ」


「でもあたし、ブラックコーヒー飲めないし、味わかんないし、コーヒー淹れられないし……」


 わたしは遠慮なく大きなため息をついた。


「そんなんでよくカフェやるとか言ったな」


「じゃあ自分で魚釣らない人は魚屋やっちゃだめなの」


「比較対象がおかしい」


 気を取り直して、わたしもひと口飲んでみる。

 しっかりと苦い……というか、それを通り越して渋い気がする。

 これがエグ味というものなのか……ほのかの感想は論外だけど、自分の感想だって頼りないものだった。


 出涸らしを三角コーナーに捨てて、器具をさっと水で流す。

ほのかはわたしが冷蔵庫から出してやった牛乳を、表面張力が起こるほどカップいっぱいに注いでいる。そして、砂糖が入れられなくなったと騒いでいる。


「今度は試しにほのかが淹れてよ」


「えー、あたしはいいよ。真凛が淹れてるの見て、あたしにはむいてないなって分かったから」


 ほのかはカップをテーブルに置いたまま、コーヒー牛乳をすすった。カップの縁から1センチのところまで減らし、砂糖を投入する。

 コーヒー牛乳の表面は、また縁から張り出して危なっかしく揺れた。


「昨日『あたしもがんばる』って言ってたのは何だったんだよ」


「味見だって大事な仕事でしょ? ……あ、今度は混ぜられなくなった!」


「後先考えないからだ」


 カフェだってきっと、後先考えずにやろうと言い出したに違いない。

 ほのかとわたしの共通点なんて、放課後いっしょに100円コーヒーを飲むことくらいだから。


 2回目の豆を挽こうと準備をしていると、ほのかがそれを手で制してきた。

 鞄をごそごそと探り、青色の缶を取り出した。ちょうど桃の缶詰くらいの大きさだが、受け取ってみると桃缶よりもはるかに軽かった。

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