第4話

 帰りのホームルームが終わり、我先にと教室を出ようとしたところを、背後から首に抱きつかれて足止めを食らった。

 わたし相手にそんなことをするのは、ひとりしかいない。


「ちょっと、真凛。最近帰るの早すぎない? どこで何してるわけ?」


 肩にかかる心地よい重さ、背中に押しつけられるやわらかいもの。

 あたたかい吐息が耳にかかる。


 絡みつく腕をほどこうと、ほのかのカーディガンの袖を引っ張る。

 ほのかは「伸びちゃうからやめて」と言って、わたしの首を解放してくれた。これ見よがしに首をさすると、ほのかは「にへへ」と笑って歩き出した。


「ねぇ、最近どうしたのさ。ホームルーム終わるとすぐいなくなってるんだもん。あたしたちが買わなかったら、100円コーヒーの自販機、なくなっちゃうよ?」


「1日2杯の売り上げが減ったところでどうってことないよ」


 ほのかといっしょに昇降口で靴を履き替え、外へ出た。まだ日は高いところにあり、昼と呼べる時間だ。


「わー、まぶし。こんなに明るいうちに帰るなんて、あたしたち、まじめな帰宅部員だなぁ」


 ほのかは目の上に手を翳し、ひつじ雲を見上げている。

 どこからか、金木犀のかおりがほんのりと漂ってくる。


「別にわたしにあわせて早く帰んなくてもいいけど」


「真凛がいなかったらつまんないし」


「ふたりでいたって別に面白いことなんかしないじゃん」


 鼻で笑いながらそう言うが、ほのかは何も答えない。その代わり、じーっとわたしの顔を見つめてくる。

 横目でうかがうまでもなく、視界に入るほのかの顔の向きと、頬にぴりぴりと感じる針のような刺激で分かる。


 隠すようなことじゃない。

 それなのに、どうしてこんなに言い出しにくいのだろう。


 ほのかのためにしていることなのに。


「……コーヒーの練習」


「えっ?」


 ほのかは声を上げ、足を止めた。

 練習着の運動部員が、急に止まったわたしたちを足早に追い抜いていく。


 先に歩き出したわたしに、駆け足のほのかが追いついて並ぶ。


「コーヒーの、練習って」


「ペーパードリップっていう淹れ方。いちばん手軽で簡単に見えて、お湯を注ぐ速度と量で味が変わるんだって。ただお湯注ぐだけじゃなくて、難しいよ、意外と」


 ほのかにカフェをやろうと誘われてから1週間。

 土日のうちに、コーヒーを淹れる道具をひと通り揃え、練習を開始した。


 某コーヒーチェーンの限定フレーバーを我慢して、100円コーヒーで節約してきたかいがあった。

 ケトル、ドリッパー、フィルター、ミル。100円ショップも駆使して、何とかお小遣いを前借りすることなく購入できた。


「真凛……ほんとに……」


「何? 誘ったくせにわたしのこと信用してなかったわけ?」


 ほのかは呆然としていたが、やがて笑みを溢れさせた。

 頬が色づき、瞳には光が差した。


「んーん、信じてた。あたし、世界中で真凛のことしか信じてるない」


「調子のいいやつ」


 苦笑すると、ほのかはぽふっと優しく体当たりしてきた。

 何がそんなにおもしろいのか、にこにこと笑みが抑えきれなくなっているようだ。


「ふふっ、あたしもがんばらなくちゃ」


「そういえば、移動販売の荷車を作るとか言ってたけど、今どんな感じ?」


 ほのかの口もとが少し引きつったようだった。視線も定まらない。

 目をすがめて見つめていると、泣きぼくろが不自然に震えた。


「ちょっと? 誘ってきたくせに自分は何もしてないのかよ」


「してるしてる! 設計図はできてるんだよ、頭の中で! でもさ、家で作ったら、それを引いて学校に来なきゃいけなくなるじゃん? だから、学校で作ろうと思って……真凛にも手伝ってもらえるしさ? それなのに、真凛ぜんぜんつかまらなくて……」


 しおらしく、健気に言って見せているが、つまりは――。


「なーんもしてないってことね」


「なんもじゃないよ! 当日着るおそろいのエプロン探したり、バンダナ探したりしてたよ!」


「カフェなのに服のことしか考えてないじゃん」


 本気になったわたしの方が馬鹿みたいじゃないか。

 いそいそと道具を揃えて、動画を観ながらドリップの練習をして、自分でも飲みきれないからコーヒーがそれほど好きでもない家族に無理やり飲ませたりして。


 ほのかがわたしといっしょに何かがしたいんだと熱く訴えたのと同じくらい……いや、それ以上に、わたしだってほのかと何かがしたかった。

 わたしとほのかだけの時間を少しでも共有したかった。


 浮かれていたんだ。


 ほのかとカフェができる。


 他の誰にもできないことを、わたしだけが許されるのだ。

 浮かれずにいられるわけがない。


 ほのかはわたしの気持ちがどのくらい分かっているのか、真面目な顔をして見せた。わたしのカーディガンの袖をつまみ、つつ、と引っ張ってくる。


「あたしだって、ちゃんとコーヒーのこと考えてるよ。真凛だけに任せっきりじゃダメだって」


 ほのかは殊勝な顔をして、わたしを見上げてくる。大きな瞳に見つめられ、わたしはぶっきらぼうに顔を背けてしまう。


「あたしもがんばる。だから、明日——練習、付き合わせて?」

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