第2話
ほのかは猫なで声で、わたしの鼓膜をくすぐってくる。
「ねぇ、真凛、おごってよ」
「100円なんだから自分で出せ」
「だって今、1000円札しかないんだよ? 崩したくない~、ねぇお願い」
プラスチックの扉の向こうで、紙コップに泡立ったミルクが注がれる。
そして、抽出されたコーヒーが、ミルクの泡に穴を穿ち、沈みこむように注がれていく。
「知らん。ぜんぶ100円玉になったら明日からまた買いやすくなるんだからいいじゃん」
「おお、そうか! 一石二鳥だ!」
「一石二鳥の使い方あってない気がするけど」
扉が自動で開き、カプチーノの完成を知らせてくれる。
ミルクとコーヒーがちょうどよく混じりあった、香ばしくなめらかな香りが漂う。
ほのかは意気揚々と1000円札を投入し、カフェモカのコーヒー普通、ミルク多め、甘さMAXにカスタマイズする。
もはや赤い自販機で、唯一の紙パック商品である酪王カフェオレを買った方が手っ取り早い気がする。
ほのかはおつりをじゃらじゃらと財布にしまいながら、「真凛ってさぁ」と輪郭のはっきりしない声で言った。
「コーヒー、好き?」
「嫌いだったら毎日この自販機でコーヒー買ってない」
「だよね! じゃあさ、あたしといっしょにカフェやろう!」
今、カプチーノを口に含んでいなくてよかった。たぶん、吹き出していたと思う。
「カフェ? 何、どいういこと?」
ほのかはマイペースだ。できあがったカフェモカを取り出して、ふぅふぅと冷まして、ひと口飲んだところで、ようやく詳細を話しはじめた。
「文化祭だよ。決まってるじゃん。みんなで盛り上がろーって中で、真凛だけだと思うよ? ぼーっと惰性で学校来てるの」
「まあそりゃあ登校してるのは完全に惰性だけどさ。文化祭……文化祭かぁ」
口をすぼめてカプチーノをすする。
そういえば、来週のホームルームでクラス企画やステージ発表の内容を決めるとか何とか言っていた気がする。
正直、興味がないから短時間で終わる準備作業を請け負い、当日はどこかでこっそり昼寝でもしていたいんだけど……。
「今、どうやったらサボれるか考えてたでしょ」
「い、いちいちうるさいなぁ。で、何で文化祭でほのかとカフェやらなきゃいけないわけ?」
「だって、真凛はコーヒー好きなんでしょ? だったらやるしかないでしょ!」
忘れてた。
ほのかはわたしと同じく無気力な帰宅部員だけど、イベントごとは好きで盛り上がりたいタイプなのだ。
わたしは断りの文句を考えるのも面倒になり、口はカプチーノを飲むためにあるのだというように紙コップから離さず、ほのかに背を向けた。そのまますたすたと歩き出す。
「いやちょっとちょっとちょっと! まだ話は終わってないよ!」
ほのかは手にカフェモカをこぼしたのか「あちっ! あっつ!」と騒ぎながら、ばたばたと追いかけてくる。
あの本のつづきは読めそうにない。犯人がもうちょっとで分かるところだったのに。
「ね、やろうよカフェ。せっかく3年間で1度だけの文化祭なんだしさ」
「文化祭なんて、部活やってる人と陽キャが楽しむもんでしょ。わたし、文化祭はできる限りがんばらない方向でいきたいんだけど」
階段をのぼろうとしたとき、先回りしたほのかに進路を遮られる。
紙コップを持った手には、こぼれたカフェモカの跡が伺えた。
「でもさ、クラスの出し物とか企画には、絶対参加しなきゃいけないじゃん? あたしたち部活に入ってないし、準備も当日もきっとこき使われちゃうよ。それなら、有志で企画やるんでーって言った方が楽じゃない?」
「楽なわけないじゃん。準備も接客も、誰にも押しつけられないんだから」
ほのかを大きく避けて階段をのぼろうとすると、また目の前に回りこまれる。
飲む分がなくなるんじゃないかと心配になるくらい、ほのかの紙コップからどんどんカフェモカがこぼれていく。
「あのさ! その……なんて言うか……」
ほのかがめずらしく言葉を選んでいる。
頭で考えるよりも先に口が動くようなやつなのに。
「あたし……真凛といっしょに何かしたいんだよ。何か……」
「いつもいっしょにお昼食べてるじゃん。放課後だって、ずっとつきまとってくるし」
「そんなんじゃなくて、もっと派手に思い出に残るようなことがしたいの」
ほのかのまじめな顔が、ほこりっぽい光に照らされてまぶしい。
そんなん、か。
ほのかが「そんなん」と言い捨てたできごとを、わたしは一生の思い出にする気があるんだけどな。
そんなこと、本人に向かっては絶対に言えない。
「ねぇ、お願い。一生のお願い」
ほのかの一生のお願いは高校入学して出会ってから、すでに3回はきいている。
課題を写させてほしい。
お小遣いはピンチだけど限定ドーナツが食べたい。
わたしの長い前髪が見ているだけで鬱陶しいから切らせてほしい。
きっとほのかは覚えていない。
わたしがほのかの一生のお願いを3つも叶えてやっていることを。
きっとほのかは気づかない。
わたしがほのかの一生のお願いをいくらでも叶えてしまうおそれがあることに。
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