第73話 からっぽの少年

 ―さぁ、目を反らしてはいけないよ。いい子にしていないと・・・・・・・・・・君も、あそこに行く事になるよ―

 富喜来とみいきらいの亡霊のその声に、輝きを失った未来君の目が見開かれ、瞳孔が開いていく。まるでその言葉が魂の奥にまで、深く深く刻まれていくように。


「なんで、なんで・・・・・・未来君が!」

 こうまでぴったりと、あの時の男の子と重なるんや。あの船で富喜来の執事が確保していた、まだ三、四歳くらいの男の子。リカオンに襲われる私の姿を無理矢理に見せられようとしていたあの時の子と・・・・・・

 あれはもう十五~六年も前の話や。そもそもあの当時未来君は、まだ四歳くらいだったはずや・・・・・・ちょっと! 合うやないか!


(あの子ね、四歳の時に一度、行方不明になったことがあったのよ)

 そうや、未来君は幼い時に行方不明になったってお母さんが言っとった。ほなけどその時は東北まで迷い込んどったハズや! 現にその時徘徊しとった動物を恐れて、ほれが彼の動物嫌いの原因に・・・・・・


(動物徘徊してだのは福島の原発のあだりのはずよ・・・・・・宮城でねぁーわ、少なぐども保護施設作られるような、流通の多い所だら)

 東北での門田さんの言葉が頭に響く。そう、未来君は宮城県の施設に保護されていたはずや・・・・・・そんでそこには、徘徊する動物なんか居なかったって。


「未来君・・・・・・まさか、そんな」

 合う。齟齬が生まれない、話が食い違わない。もしあの時の子供が未来君・・・・・・・・・・だとしたら、全ての歯車がぴったりと、がっちりとはまり込んでしまう!


 ―いい子にしていないと・・・・・・・・・・


 頑なまでに真面目な彼の性格。もしそれがあの下衆によって刷り込まれたもんだったとしたら。



 ―君もあそこに―


 彼の余裕のない、少しのプレッシャーでいっぱいいっぱいになるあの繊細さ。それがもし自分の死を示唆する飼い主によるトラウマなんだったとしたら・・・・・・




 ―行くことになるよ猛獣の餌になるよ

 病的なまでに動物を恐れる彼の深層心理に刻まれているのが、獣に食い殺される人間の姿を見ているか感じているか、そんな経験が、物心つくかどうかの時期にあったんだとしたら・・・・・・


 未来君から目を切りたくなかった。でも心の中に渦巻く疑念と不安を確かめたかった。そして、それを否定して欲しかった、単なる偶然だと言ってほしかった。だから、だから私は振り向いて、その人・・・の方に向き直った。

「鐘巻さん・・・・・・まさか、まさか未来君は・・・・・・」


 でも、期待する応えは帰ってこなかった。彼の言葉が、私の嫌な予感を肯定した。

「そうだ・・・・・・Boy天野未来はあの時、あの船に、居た」



 苦悶の表情を浮かべながら、アイン・J・鐘巻は当時のことを邂逅する。最初に思い浮かべたのは、他ならぬ目の前の女性の大人の姿・・・・が、自分に依頼したエージェントとしての最後の願い。

(私の事より、この子たちをお願いします。必ず親元に届けてあげて)

 あの日あの時、人身売買と国際保護動物の密輸をしていた犯罪者どもを撲滅した後、自分は彼女にそうお願いされた。勿論国際警察官としてそれは絶対に果たすべき義務だ、犯罪被害者の救済は犯罪検挙以上に大切な仕事なのだから。


 幸いほとんどの被害者の少年少女はスムーズに親元に返す事が出来た、だがその中で一人だけ、少し手間をかけて親元に返さなければいけない子供が居た。

 天野未来、四歳。日本人である彼はもちろん捜索届が出されていたが、治安の良すぎるかの国で見つかったとなれば、その足取りまで追及されるのは避けられないだろう。日本の警察にしてみれば、この子がどんな犯罪に巻き込まれたか、誰が彼を連れまわしたのかを明確にしておかなければいけないだろうから。


 しかしその誘拐犯は世界的な悪の大人物だ。もし世間に公表でもされたら彼の親類が、富喜来の筋に繋がる悪党にゆすりたかりをされる危険が大きい。

 そしてなにより彼はまだ四歳、物心がつくかつかないかの際どい年齢だ。だったらこんな悪夢のような経験は忘れ、無かったことにして今後の人生を生きて欲しかった。


 だから私の一存で嘘をでっち上げた。当時は東日本大震災の二年後で、あの災害で親御さんが行方不明になった子供たちが保護されている施設が宮城県にある事を知り、これ幸いとそれを利用してその子が迷走の果てにその施設に保護されているというシナリオを描き、その体制が整い次第彼の両親に連絡を取ってもらった。


『少年は迷子になった事と、徘徊する動物を恐れてか自閉症の気配が見られます。どうか心のケアを願います、猫にでも引っかかれたことにすれば時間が解決してくれるでしょう』

 ぬけぬけとそんな手紙を彼の両親に渡してもらった事を思い出す。それもあって今も私は彼の両親に顔向けできない気がしていた、彼の為とは言え警察官の自分が嘘をつき、事実を歪曲した上にさらに別の嘘までつくように勧めていたのだから。


 だがそれも、今この場で全部無駄になってしまった。山頂にいる薄汚れたドッグを睨み上げて、一言吐き出す!

クソ野郎ファーック! あれが日本のゴッドかよ!」



      ◇           ◇           ◇    



『生け贄の少年おのこ天野未来あまのみらいよ。』


 鐘巻さんの雑言に応えるように、再びおおかみさまリカオンの声が響く。心の底に直接落とされるよな言霊が、低く、重く、そして残酷に。


『お主の道は、かの時に定められたのだ、そこにいる悪魔のような男によってな』

 残酷な事実を、心の中から抉るように告げていく。


『お主の実実まめまめしい(真面目な)信条は、お主の意思では無い。その悪によって植え付けられ、動かされていただけの事』

 生き方を否定され、心のよりどころにしていた信条が、魂からずるりと剥がれ落ちる。


『お主の切羽なる心の弱さは、その悪によって害されるのを恐れての事』

 自分の弱さすら、自分の者じゃ無かった。あの鬼のような老人に植え付けられたものでしか無かった。


『お主の畜生を恐れるは、その悪の飼い犬によって引き裂かれるが故の恐怖』

 手のひらに収まるような小さな命でさえ愛でる事は無かった、それすらもあの時に決められた運命。



「あ・・・あああ、ああー」

 おおかみさまからの言葉を聞くたびに、愕然としてその顔を歪め、声にならない嗚咽を吐き出す未来。


『お主の生き様は、お主の意思では無い。お主には、何も無いのだ、生け贄の男子よ』


 ぼくは、だれ? ぼくは、なに?


 真面目に生きて来た。いつもハキハキ返事をし、手を上げる時は真っすぐにヒジを伸ばした。他人を否定する事をせず、何に対しても真剣に向かい合ってきた。それが自分、天野未来の生き方だと信じて。

 でも、どこか心の片隅に怖さがあった。自分の裏側にもうひとりの自分が居て、まるで何かを恐れるように自分に真面目さを強要しているような気がしていた、真面目に生きないと、いつかきっとひどい目に合うような引っかかりを感じて。


 ぜんぶわかった。ぼくはぼくじゃなかった、あの日からもうずっとぼくは、この後ろにいる老人に手を、足を、それを動かすための心を、あやつられ続けていたんだ。

 ぼくは、からっぽの、あやつり人形――



      ◇           ◇           ◇    



「未来君! しっかり、気を確かに持ちぃっ!!」

 結界をばんばんと叩きつけて叫ぶ、もう声にならない声を上げ、虚ろに山の上を見上げる未来君に声をかける。このままじゃ、彼が、彼が壊れてしまう!


 結界を壊そうとしているのは私だけではない。お父さんの流さんや友人の本田君も結界を殴り、蹴飛ばして彼を確保しようとするが、やはりビクともしない。ヤボ君は震える若者の前に立ちはだかって、おおかみさまに「来るなら来てみろ」と威嚇を飛ばす。アフリカ人の彼はあの船の悲劇の後も、リカオンという生き物と無縁ではいられなかったのだろう、だから他の子たちに比べて抵抗する気概を持ってはいた。だけど、それで結界が壊れるわけでもない。

 天仙院白雲てんぜんいんはくうんさんは自らの魔法陣を出し、両手を絡ませて一心不乱に念じている。魔法陣の文字が伸びて結界に届くが、その途端に文字は焼き物のように脆く壊れていく。


 誰もが、目の前で壊されていく未来君を救おうとして、何も出来ないでいた。


 

 その時だった。未来君の前に、スゥッ、とふたつの影が現れたのは。


「え?」

「何だ・・・・・・あ、ああ!」


 全員がその二人を見て驚きの声を上げる。未来君を含めてそれはこの場の全員が知っている人間・・・・・・・、そして同一人物・・・・だったのだから。

「トキ、ちゃん?」

「沼田女史、か!」

 ななみんと鐘巻さんがふたりの名を呼ぶ。並んで立っていたのは二人の女性、ひとりは真紅のドレスを纏った二十歳過ぎの美しい姿、だがそのドレスは腰から下がズタズタに引き裂かれ、下半身がほぼ露わになっている。その美しい脚は血で彩られ、手にした杖を颯爽と構えて立っていた。

 もうひとりは日本の浴衣を着た少女だった。鮮やかな赤い衣装に橙色の帯が映えるその少女は、白金のかんざしをきらりと光らせてたおやかに微笑む。


 それは、最後の探偵業を終えた時、リカオンに服を食い破られつつも、時遡の不死の力とハンマーで返り討ちにし、その血で下半身を染めた私、沼田早苗の姿と―

 未来君とお付き合いを始めたあの夏、阿波踊りに行く時に彼のお母さんに着付けをして貰った私、神ノ山登紀の浴衣姿―


「「・・・・・・きれい」」


 そう発したのは未来君だった。でも彼は未だに呆然として、指先はおろか唇さえも動かせない。

 言葉を発したのは彼では無かった、いつの間にか彼の両隣に幻覚のように現れた、ふたりの未来君だった。

 幼子の彼が、ドレス姿の私を見て言った言葉と

 高校生の彼が、浴衣姿の私を見て言った言葉が

 ぴたり、重なった。


『お主の神ノ山登紀への恋慕の想い、それもまたあの時に定められたもの、真の恋情ではなきものなのだ』




      ◇           ◇           ◇    




「え・・・・・・あ、ああー」


 僕は登紀さんが好きだった。でも、どうして?


 最初に出会った時から特別な気がしていた。どこか他の女子とは違う、自分にとっての運命の人。すっとそう思っていた。それは間違っていなかった、彼女はもう百四十年もの長い時を生きて来た存在なのだから。


 でも、違った。


 僕が登紀さんに惹かれたのは、あの時僕を、命を救ってくれた人だったからなんだ。だから僕はあの幼い時に見た彼女をきれいだと思った。そして登紀さんが赤い浴衣を着た時、その時と全く同じ言葉が自然に口から出たんだ。


 僕は登起さんを好きなのは、本当の『好き』じゃ、なかったんだ。

 生き死にの境で、僕を助けてくれた人に惹かれてた、ただ、それだけなんだ。


 ぼくは、からっぽだ。

 生き方も、恋も、ぜんぶこのうしろのおじいさんにあやつられた、なかみのない、からっぽの人形。



      ◇           ◇           ◇    



「あ、あああああああ、あ”あ”あ”あ”あ”あ”-」


「未来君っ!」

「天野ー!」

「しっかり、気を確かに!!」


 天を仰いで、嗚咽を絞り出し、魂すら吐き出さんばかりに哭く未来君。赤い月の下で絶望の歌を吐き出す彼の目から流れる涙が、いつの間にか赤く染まっていた。


 その後ろでは醜悪な顔の老人が、まるで人形浄瑠璃の人形師のように両手から伸びた糸で彼の絶望を操りながら、ぐにゃりとしたわらい顔を見せる。そして反対側では、西洋と東洋の赤い服を纏ったふたりの女性、ふたりの神ノ山登紀が、表情なくその人形を眺めていた、まるで人形劇の観客のように。


「くっ! 駄目だ!!」

 白雲さんが力尽きたようにヒザを突き、無念の表情でそう嘆く。結界を殴り続ける流さんと本田君ももう限界が近く、医療班の橘医師とDr.リヒターは結界に張り付いて彼の生命を推し量る。


 誰も、医療班も、呪術班も、友人達も、親も、そして、私も。

 彼を、救えない。


 そして、山頂にいる”おおかみさま”が、それを恍惚の表情で見下ろして、べろり、と舌なめずりをする。まるで仕留めた獲物の、血の味を楽しむかのように。


「もう、やめぇーーーーっ!」

 結界に手を付き、私は叫んだ。長い人生の中で、発したことのない全力の大声で、絶叫した。

「私が代わる! 元々この呪いは私のもんやないか! もう私に戻しないなーーーっ!!」

 おおかみさまに向けて声を張り上げる。


「これ以上、未来君を虐めるんやない、私が、私が生け贄にでもなんでもなるからーーーっ!!!」

 心からそう叫んだ。もう見ていられなかった、あの真っすぐで、でも繊細な彼がここまで心を壊されていくのを見ているくらいなら、私の長い人生なんて全部くれてやる! だから、だから・・・・・・


 結果に手を突き、声を絞り出して懇願する。もう私はどうなってもかまへん、だから、頼むから!




 ぐいっ!

 不意に、私の顔が引き起こされた。誰かが私の髪の毛を無造作に握りしめて、顔を上げさせる。そして――

 ぱしぃっ!


 私の横っ面を、ひっぱたいた。

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