16話 ありがとう
スマートフォンを何度も確認しても、連絡はまだ来ない。人間をやめたときに支給されたスマートフォンは、魔法界でも電波が入る特別なものだ。メッセージアプリも特別なもので、ルナやマリットと撮った自撮りの写真も、買い物帰りに見つけた猫の動画も、サクサク送受信できる。が、まだゲンからの連絡は来ない。
聡子とくれなは、魚屋に隣接する定食屋で、カワタレとゲンを待っていた。ずっと立っているのもなんですから、私が奢りますから入りましょうと店に誘ったのはくれなだった。勇気を出して誘ったはいいものの、なんて話してよいか分からず、喉は乾いていないのに水をちびちびと頻繁に飲んでしまう。
「お嬢さん」
「はっ、はい!」
肩を跳ねさせて返事をする。くれなの小動物のような怯えた瞳に、聡子は目の縦幅を少し広くして、すぐに申し訳なさそうに眉を下げた。
「列車ではごめんなさい。あの、本当に自分でも驚いてるんだけどね、魔法界に来た途端、あなたのこと怖いって思う気持ちが消えたの」
「え?」
「もしよろしければ、あなた、魔力の質を研究機関で見てもらった方がいいかもしれない。あなたからは何だか、人を威圧するほどの魔力を感じるの。お嬢さんは無意識かもしれないけど……なんなら私のツテで、魔法界の詳しい方ご紹介するわ」
聡子は真剣な面持ちだった。
魔力の質なんて、考えたこともなかった。聡子に魔力の質について、よく話を聞きたい、と思ったが、それよりも前に、ひとつの感情が口を動かす。
「あの!」
ゲンのことを誤解しないでほしい、という、感情が。
「あの、私と一緒にいた、化石の頭の人も、あ、今は人の姿に変身してる方なんですけど、あの方も怖くないです。ゲンさんっていうんですけど、優しくて明るくて、あの方は数少ない浮遊魔法の使い手ってだけじゃなく、人として尊敬できるというか、えっと」
上手く言葉が紡げない。必死に頭を回しているのに、軽い音をたてて空回りしているみたいだ。
___どうしよう、また自分が何を言っているか分からなくなってきた。変なこと言ったらどうしよう。
「くれなさん、だったかしら」
「はっ、はひ」
「……うふふ。あなた、おしゃべり下手ねえ」
「うっ、すすすすすすすすすみません……自覚はあります……」
「ううん。でもなぜだか、そこが可愛らしいわね」
唐突な褒め言葉に、たじたじとくれなは頬を染めた。そんなくれなに微笑ましいものを見る温かい目を向ける聡子は、きゅっと透明なコップを皴の多い両手で握る。
「ごめんなさい、やっぱりあの方を見るとね、思い出してしまうの。反魔界と戦争になって、自分の友達が次々死んでいったあの日々のことを」
聡子の瞳は近くを見ているはずなのに、どこか遠くに感じる。聡子の言う「あの方」がゲンを指していることくらい、くれなにも分かった。
聡子は魔法少女として活動していた頃だけでなく、後継者の育成にも携わったと聞いている。つまり、人間界の数少ない生き証人というわけだ。
「あなたは、少し前に起こったクーデターのときは、どこの配属だったの?」
「あ、えっと、クーデターのときはまだ、人間でした。というか、つい数か月前まで人間だったんです」
「あら、そう……。その方が良いわね。クーデターのことなんて、知らない方がずっとずっと、気が楽だもの」
「……そんな。私、まだまだ勉強不足で、お恥ずかしい限りです」
クイーンからクーデターがあったことは聞いていたが、それだけだった。くれなの言葉は謙遜ではなく、心からの己の未熟さの悔しさだった。頭の切れる聡子はそれに気づき、感心するようにこくこくと頷く。
「じゃあ少しだけ教えてあげるわね。クーデターのとき、主勢力に加担した『魔法生物』は、反魔界でもごく僅かしかいない、『幻獣生物族』だったの。あぁそうだ、そもそも反魔界出身で魔法界側の方を、魔法生物っていうのはご存じ?」
「は、はい、以前、雅さ……魔法少女の先輩に教わって知りました。ただ、げんじゅう、せいぶつぞくっていうのは初めて聞きました」
「そう。あなたの言うゲンさんも、本当は骨の姿をしているでしょう? 人間界で普通に見ることができる動物の頭部の方は一般的な魔法生物なんだけど、逆に人間界ではお目にかかれない、童話や昔話の生物やもう絶滅した生物の頭部の方は、幻獣生物族。だから、あの彼も幻獣生物族ね」
くれなは頷いて、刻むように心の中でメモをとる。幻獣生物族。単語は綺麗なのに、もしかしなくてもきっと、この世界ではあまりいい印象を与えない言葉なのだろう。
「私が面倒見た魔法少女のうち何人かも、クーデターで亡くなったの」
聡子の瞳は、誰も責めていなかった。ただただ、哀しんでいる。
今このとき、どんな言葉をかけてよいのか分からない。くれなは思考を必死に巡らす。
大事な人を失った経験のない己が、どんな言葉をかけてもきっと、虚しいだけだろう。でも、もし、自分の大切な人たちが何者かに命を奪われたら。
そんなことを思って真っ先に浮かんだのは、カワタレの顔だった。
「私も、もし大切な人が、人たちが奪われたら、きっと一生、許せないと思います」
同時に、己を虐げた人たちの顔も浮かぶ。
「……どうしても許せない気持ちって、消えてくれやしないし、消そうとも思わないですよね」
口に出して、己に宿る感情に気が付く。そうだ、自分は彼女らを、元チームメイトたちを許せなかったんだと。
「ふふ。あなたが『恨みなんて抱かないで』なんて、薄ら寒い綺麗ごとを言う女じゃなくてよかったわ」
聡子がにっこりと、どこか安堵したように微笑んだ。
「確かに幻獣生物族の方に、ちょっとした恐怖心と不安はある。でもそれも、私の頭が固いからだわ。今この魔法界、そして魔法少女に必要なのは、自分の頭と目で考えられる人かもしれない。綺麗ごとも汚い面も合わせ呑む、あなたのような、ね」
聡子は水をこくりと飲んだ。
くれなは褒められたというのに、申し訳ない気持ちが心にじわじわと溢れ出てきた。
「ご、ごめんなさい、私そんな大層な者ではないんです。だって、元チームメイトにいじめられて、その復讐を糧に生きているような、そんな魔法少女なんですよ、恥ずかしながら」
「あら、いじめと差別は違うでしょう」
聡子は当然のような口ぶりだった。
「私が先ほどまでゲンさんにしてきたのは偏見と先入観による理不尽な差別、あなたが受けてきた仕打ちは暴力よ。……いえ、差別も暴力かしらね」
あなたも大変だったわね、と聡子は眉の端を下げた。そこには、つい先ほどまで抱いていた無意識の差別に対する申し訳なさと、くれなへの気遣い、どちらもが混ざり合っていた。
くれなは慌てて、メニュー表を手に取る。
「お刺身、おさしみ、食べましょう! 美味しいものを食べると、元気が出ますから。わた、私も、カワタレさんとゲンさんといろんなところに外食して、料理上手な先輩のお料理食べて、友達とコンビニで買い食いして、少しずつ、元気を取り戻していったんです」
聡子はきょとんとくれなを見つめる。
____しまった、全然聞かれてもないこと話しちゃった。あんまり相手にとってどうでもいい話をしすぎるなって、コミュニケーション能力が低い人の特徴って本にも書いてあったのに。
くれなの心にどうしよう怪物が生まれる前に、聡子はメニュー表を覗き込んで微笑んだ。
「あなたのそういうところ、嫌いじゃないわ」
それからふたりは、目をキラキラとさせながら、キミドリウオの刺身とクラーケンの足焼きと黄金イクラの海鮮丼を平らげた。
食後のお茶を飲んでいるとゲンから「今どこ?」と連絡が来た。先ほどの魚屋さんが営む定食屋さんにいます、と伝えると、すぐにふたりはやってきた。カワタレはどこで買ったのか分からないがサングラスと帽子をしていた。
「聡子さん、くれなちゃん、私の所為でほんとに迷惑かけちゃったな。申し訳ない」
「いいのいいの。おかげでくれなちゃんとお話しできたし、美味しいおさかなも食べられたし。魔法界生活最初の楽しい思い出ができたわ。ありがとう、くれなちゃん」
「そっ、そんな……えへへ」
「はは! 仲良くなってる。よかったよかった。私はくれなちゃんに、魔法少女と魔法界の者以外の人と仲良くなってほしかったんだ。うんうん、素晴らしいことだ」
カワタレは、照れくささと嬉しさでいっぱいになっているくれなの頭を撫でる。
聡子は立ち上がり、そっと、カワタレの斜め後ろにいたゲンに歩み寄る。
「あの、お兄さん」
「は、はい?」
ゲンの声には珍しく、緊張が滲んでいた。
「先ほどはお礼を言いそびれてごめんなさい。それからあなたに対する非礼も謝らせて」
聡子は深々と頭を下げる。店の客たちが視線を向けるが、そんなことはどうでもいいと背中で語るくらいに、綺麗な姿勢で。
「あなたは心優しい温かな方なのに、無礼な態度をとってごめんなさい。楽しく案内してくれて、危ないところを助けてくれて、どうもありがとう」
滑らかな品のいい、真摯な聡子の声がゲンの耳に響く。同時に、いつかの日に言われた、己を呪う言葉も、蘇る。
____幻獣生物族は最悪の一族だ、地獄で醜く腐っていろ! ゴミ共が!
未だにゲンの心に根をはる言葉は、簡単には消えてくれやしない。
でも、聡子の心優しい温かな方、という言葉にどうしようもなく、どうしようもなく、胸が苦しいのだ。
「……あの、下のお名前で呼んでもいいですか」
「えぇ。なんなら敬語もやめて。私なんておばさんだけど、きっとあなたより年下だもの」
聡子の声は変わらず温かだ。
「……ありがとう、聡子さん!」
ゲンは明るく答えた。彼の持ち前の明るさと、昔かけられた呪いを跳ね返す光を携えた、輝かしい声で。
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