5話 フレンチトースト


 くれなが人間をやめてから、1週間と2日が経過した。


 人間界魔法少女管理本部の建物は、魔法なんてファンタジーとは程遠い、3階建ての古びた灰色のビルだった。1階は管理本部の6人全員が当番制で管理するコインランドリーで、2階が事務所兼居間で、3階にくれなを含めた6人のそれぞれの寝泊まりする部屋がある。


 ぴぴぴぴぴ、とスマートフォンのアラームの音で、白いスウェットを着たくれなは目を覚ます。ベッドの上をもそもそと動いて、足元のコンセントに繋いだスマートフォンの画面をタップし、アラームを止める。時刻は8時42分。そろそろ起きようか、と眠い目を擦る。


 人間界魔法少女管理本部の1日は自由気ままだ。それぞれが起きたい時間に起きて、仕事が入るまでは自由時間。夕食は全員そろって食べること以外、決まりはない。その分、仕事が入ったら夜中でも就寝中でも出動するものの、くれながこの本部に来てから返納列車の仕事は入ってきてないので、24時間すべて自由時間である。


 くれなは立ち上がり、スウェットの胸元をぎゅっと握りしめ、目を閉じる。脳内でスウェットが花弁のように散って、舞って、ふわりと消えていくイメージを膨らませる。


 数秒後、光とともに、イメージ通りスウェットが消えていく。代わりに白いフリルのドレス、くれなのいつもの魔法装束が光の中から現れ、着替えが完了する。


 魔法界の魔法少女は、永久に魔法装束を脱ぐことができない。魔法装束が肌の一部のようなものだと、くれなは教わった。着替えはすべて魔法で行う必要がある。


 ただその分、どんな服でもイメージさえできれば魔法で生み出せる。だから事務所には、可愛い服が好きな雅が集めたファッションカタログがたくさんあって、魔法で着替える練習をするときに参考にできた。着替える練習のときは、カワタレが「くれなちゃん可愛い! 次これ着てくれ!」だったり、ルナが「王子! 次はこれ!」だったり、リクエストを何度もして、くれなの魔力が尽きるまで軽いファッションショーのようになっていた。


 毛布を整えていると、こんこん、とノックの音がした。


「くれなちゃーん、起きてる? カワタレ様だ」


 扉越しに声がした。


「お、起きてます。おはようございます、今開けます」

「おはよう。あ、このまま開けなくていい。雅の特製フレンチトーストが焼けたから下りてきてって連絡だけだから」


 フレンチトーストは、くれなの好物だった。昔、まだ家族とうまくやれてた頃に、よく母が作ってくれた。前に雅に好きな食べ物を聞かれて、フレンチトーストと答えるくらいには、好きだった。


「や、やった……! わかりました、今行きます」

「オッケー、雅にも伝えとく。ちなみにカワタレ様、実はちょっとしたサプライズを用意してるんだな、これが」


 楽しみにしておいてくれ、と告げて、カワタレは去っていく。


 フレンチトーストとサプライズという言葉に、くれなの胸が弾む。雅は料理が上手で、おまけに毎日作るのも全く苦ではないらしい。この本部の台所は彼女がすべて担っている。朝と昼は各自で簡単な料理やインスタント食品を用意するが、夕食は特に外食の予定がない限りは雅が作ってくれたものを全員で食べていた。


 部屋を出て階段を降りていく。2階の事務所に続くドアを開ける。ドアを開けた瞬間から、甘くて胸が膨らむようなバターの香りが全身を包み始めた。


 長方形のローテーブルを囲む灰色のソファには、マリットがいた。


「くれな、おはよ。先頂いてるよ」

「おはよう。マリットちゃん、今日は早起きなんだね……あ、あの、ごめん、ただ純粋に驚いて、嫌味とかじゃないよ」


 両手を振って慌てて否定しながら、くれなはソファに腰かける。


「ふふ、そんなこと言わなくても分かってるって。残念ながら早起きじゃないの。これ食べ終わったら寝るんだよね。さっき、昨日の深夜からずーっと煮詰まってたページが描き終わってさ」


 マリットはどこか満足げな顔で、フレンチトーストを頬張る。


 彼女は副業で、魔法界の子供向けの絵本を描いている。原作はルナが担当し、マリットは作画担当。一度くれなは絵本を見せてもらったことがある。絵本にはマリットだけが使える特別魔法がかけられていて、不思議できれいな柄のドレスを着たお姫様が本から飛び出して踊りだしたり、カラフルな光の玉がふわふわと出てきたりする。くれなはとても感動した。


 が、ルナの作る話は必ずバッドエンドになるらしく、子供が泣くとのことで絵本界隈では問題作扱いらしい。一部のマニアには大変な人気があり、反魔界にまで作品が広まっているとのことで、ルナは「万人うけしなくても別にいいもん! 天才と馬鹿は紙一重だもん!」と開き直っている。


 マリットと新作の絵本の話をしていると、キッチンと事務所を仕切るのれんから、カワタレが出てくる。両手にはフレンチトーストの乗った皿があった。


「マリット、おかわりは?」

「お腹いっぱいです。あ、カワタレさん、『あれ』、くれなにもやってあげるんですよね?」

「はっはっは。もちのろん。雅がフレンチトースト作ってくれたら、絶対くれなちゃんにもやってあげるって決めてたんだよ」

「ふふ、ここに配属されたとき、私もカレーでやってもらって嬉しかったですもん」


 マリットとカワタレがいたずらっ子のような楽しげな微笑みを浮かべる。


「ふわぁ……それでは寝ます。おやすみなさい、ふたりとも」

「おやすみー」

「お、おやすみなさい」


 空になった皿を片手に、マリットがひらひらと2人に手を振って、キッチンへと向かう。


「お待たせしました、お嬢さん」


 ことん、と黄金色に輝くフレンチトーストが乗った皿が置かれる。フレンチトーストはバターをたっぷり吸って、くたくたになりながら食欲を増進させる香りを放つ。


「わぁ、いただきま……」

「ちょっと待った! カワタレ様に1分だけ時間をくれ!」

「えっ、は、はい!」


 カワタレの大きな声につられて、くれなは大きく返事をする。カワタレはまた、のれんをくぐってキッチンに走り、20秒も経過しないうちに戻ってきた。腕の中には小さめのお高いアイスが3つと、絞り袋に入った生クリームとあんこの袋。片手には大きなスプーンがある。


 カワタレはばらばらと、持ってきたものをテーブルに落とすように置く。くれなの正面にどかっと座り、素早い手つきでバニラアイスの蓋を開け、スプーンですくう。


「魔法少女、トッピングサービス!」


 カワタレが謎の掛け声とともに、くれなの皿にスプーンを乗せる。スプーンからバニラアイスがそっと落ちる。


「いっ、いいんですか?」

「いいに決まっとる。これだけじゃないぜ」


 それだけでは終わらない。次にチョコレートアイス、抹茶アイス、生クリーム、仕上げにあんこ。子供の夢のような甘い光景に、くれなは口を半開きにして目を輝かせる。


「これがサプライズだよ。さぁ、アイスがでろでろになる前に召し上がれ」

「はい……!」


 両手を合わせて「いただきます」と呟き、フォークとナイフを手に取る。

 やわらかなトーストにフォークを刺し、ナイフを入れる。バターをじんわりと広げるトーストにバニラアイスを乗せて、口に運ぶ。じゅわり、と卵の風味と砂糖の甘さ、トーストの熱さとアイスの冷たさが、舌を滑らかに覆う。


「どう?」

「……えへへ。幸せです」

「はは! だろ? 雅、まだあと何枚も焼いてるから、おかわりたくさんしてな」


 カワタレが歯を見せて笑う。


「ここに来た新人はみんな、こういうのでもてなすんだ。ちなみに、くれなちゃんの前に来たマリットのときは、あの子の好きなカレー祭りしたんだ。小さい皿を用意して、いろんな種類のカレーをさ、好きなトッピングを好きなだけ乗せて、好きなだけ食べた」

「す、すごい。楽しそうですね」

「だろ! 今度くれなちゃんもやろう!」


 くれなは頬いっぱいにフレンチトーストをつめて、こくこくと頷いた。


 ひとりで食べるご飯もまずくはない。最近のインスタント食品は美味しい。だけど、誰かと一緒の食事の楽しさは、何物にも代えがたい。人間だったころは毎日ひとりで、母が3日に1度置いていく少ない食事代で、いかに腹を満たすかだけを考えていた。


 飲み込んだ食事の温もりが、心と体を満たしていく。チョコレートアイスのふんわりと漂うカカオの香り、生クリームのなめらかさ。


 次は何をつけて食べようか、ともぐもぐと咀嚼しながら、ナイフを入れたときだった。


 ばん! と勢いよくドアが開かれる。入ってきたのはゲンだった。


「おいゲン、ドア壊れるだろ___」

「カワタレ! くれなちゃん! 今すぐ出発! 仕事のお時間だよ!」

「ふぇ」


 くれなは篭った声とともに、慌てて口の中のトーストを飲み込む。


「えー!? マジかよ。今くれなちゃんが至福のひとときを過ごしていたというのに?」

「残念ながら!」


 不満げにカワタレは、がしがしと後頭部を掻く。


「しゃあないな、くれなちゃん」

「はっ、はい」


 ずい、とカワタレがくれなの方に身を乗り出す。


「あーんして」

「……えっ?」


 思わず声が漏れる。


「ひとりでこの量はすぐ食べられないだろ。それに冷蔵庫に入れても、帰りがいつになるか分からないから、食べそこなう可能性が高い。だからカワタレ様が手伝う」


 カワタレの言い分は、むちゃくちゃなようで筋が通っていた。この本部には座標を指定して瞬間移動できる装置がある。ただし、使えるのは行きだけ。帰りは地道に、空飛ぶ返納列車や交通機関、脚力を活かした徒歩しかない。


 カワタレが期待に満ちた眼差しをくれなに向ける。整った顔立ちから生み出される宝石のような輝く瞳に圧され、くれなは1口大のフレンチトーストを刺したフォークをおずおずと差し出す。


「あ、あーん」

「あ」


 ぱくりと食べて、カワタレは微笑みながら咀嚼する。


「うん、美味い」

「あはは! そこ、いちゃつくな!」

「もう1口くれ。これで最後にするから」

「はっ、はい」


 もう一度フレンチトーストをナイフで切る。あまりにもカワタレが楽しそうなので、くれなも照れくささより、なんだか嬉しさが心に咲いていく。そんな2人を温かい空洞の瞳で見ながら、ゲンが口を開く。


「カワタレ、めちゃくちゃ嬉しそう。てかただ単にあーんしてもらいたかっただけでしょ?」

「うるせぇ。早く転送装置の準備しろ」


 カワタレは立ち上がる。


「くれなちゃん、急がなくていいからな。あ、でもあんまりまったりしすぎるのは堪えてくれ。ちょい急ぎくらいで」


 くれなはフレンチトーストを頬張り、こくこくと頷く。


「先行って準備してるぜ。雅! 私たちちょっと出てくる! 仕事!」

「雅ちゃん! 俺の分のフレンチトースト冷蔵庫にいれといて! あんまり帰りが遅いようだったらみんなで食べて!」


 キッチンから「あらあら! いってらっしゃーい!」と雅の声がする。ぱたぱたと小走りで2人は部屋を出ていく。


 飲むようにフレンチトーストを身体に流し込んで、くれなはフォークを置いた。皿を持ってキッチンに向かう。


「あ、あの、雅さん」

「あら、わざわざありがとね」


 皿をくれなから受け取って、雅は温かく笑う。


「くれなちゃん、いってらっしゃい。お仕事頑張って!」

「はい……! ご、ごちそうさまでした、いってきます!」


 まだバターの香りが残る吐息とともに、微笑む雅に返す。駆け足で部屋をあとにしながら、仕事が終わったら、きちんとフレンチトーストを作ってくれたことのお礼を言おうと、くれなは心に決めた。

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