2話 復讐の物語
*
目が覚めてすぐに、見慣れないクリーム色の天井が見えた。
ばっ、と擬音が付きそうなほど勢いよく起き上がる。ここはどこだ、確か、敵に殺されかけて、それで。辺りを見渡す。窓の外は真っ暗で何も見えない。星のような煌めく何かが見えるが、まさか空を飛んでいるのだろうか、とくれなは首を傾げる。
クリーム色の天井に似合う、淡いパステルグリーンのベッドが辺りに並ぶ。淡い水色の壁には星がついたガーランドや花の絵画などが飾られていた。高校の保健室を可愛らしくおしゃれにしたみたいだと思った。
そういえば、身体が痛くない。くれなは己の身体に目を向ける。
え、と声を漏らしそうになった。べたべたと服を触る。真っ白な魔法少女の変身装束、通称『魔法装束』は、血の染みひとつない。魔法装束の汚れなどは一度変身を解かないと綺麗にならない。でも、変身を解いた覚えがない。なのに今も魔法装束の姿のままということは、魔力が尽きて自動で解けた後にまた変身したということ。でも、変身した記憶もない。くれなの頭にクエスチョンマークが浮かぶ。
痛みすらなくなったくれなの身体が、時折揺れる。部屋自体が揺れている。電車に乗っているような感覚に、もしかして今、あの死の際に見た流星のような汽車に乗っているのではないか、とくれなは仮定した。あくまで仮定の中のひとつで、本当はもう死んでいて地獄へ行く途中なのではないかという、もうひとつの仮定も考えていた。
『____から』
微かだが、確かに人の声が耳を掠める。誰かいる。
どうしよう、でも。ここであれこれ考えても仕方がない、とくれなはひとり、首を横に振った。
ベッドからそっと降りて立ち上がる。白いロングブーツを鳴らしながら、おずおずと隣の車両へと繋がる扉へと向かう。そっと扉の小窓を覗き込む。窓の向こうには、化石の頭の人がひとり座っていた。何か歌っているのだろうか、鳥のくちばしのような部分がパカパカと動いて、左右に身体を揺らしている。骨だから表情は読み取れないというのに、どこか楽しそうだ。
瞳をきょろきょろと横に動かし、『あの人』の姿を探る。くれなを抱えた黄緑色の髪の人はいなかった。あの人に、ここはどこなのか聞いてみたかったのだが。
少しだけ身を乗り出したそのときだった。ぷしゅう、と音を立てて、扉が勝手に開いた。思わずくれなは後ずさる。
化石の彼と目が合った。彼は勢いよく立ち上がる。
「あれ、起きた? よかった! ごめんね、歌うのに夢中で全然気づかなかった」
軽い足取りで彼はくれなの元へ駆け寄る。
「あ、あの、私」
「カワタレー! くれなちゃん起きたー! ほら、入って入って。今椅子用意するね」
なんで名前知ってるんですか、と言いたかったが、彼の白い手袋をした手と、明るい声に背を押されて聞けなかった。促されるまま、隣の車両へと足を踏み入れる。
小窓を覗いたときにも綺麗な内装だと感じたが、足を踏み入れて見渡すと一層素敵に見えた。くれなが目を覚ました車両とは違い、高級感ある赤い色のソファが並び、ソファの肘掛けに当たる部分はこげ茶色の小さいテーブルになっている。壁はすべて深緑色の本棚になっていて、ぎっしりと本が詰まっている。汽車というよりかは縦長の間取りの喫茶店のようだ。こげ茶色の木の縁のガラスの戸棚には、高そうなティーセットが入っていた。
辺りをきょろきょろと見渡していると、視界の端で何かが浮いた。赤いソファだった。2つのソファが浮き、車両の真ん中に当たる部分にふわりと向かい合って着地する。肘掛けの部分が外れ、テーブルの足が生えて、これまたふわりとソファの間に着地する。
「あはは! びっくりしてるね? 久々に新鮮な反応見たよ」
魔法少女は空を飛べない。思いきり地を蹴って高く飛び上がることはできるが、己の身体を何の苦も無く浮かせたり、物を浮遊させたりすることはできない。
己の顔を嬉しそうに覗き込む彼に、くれなは目を輝かせて口を開く。
「す、すごいです! あの、今のは貴方が?」
「そう! 俺の魔法だよ。俺は無機物なら何でも浮かせたり動かしたりできるんだ。普通の人間が変身しても、こういう高度な魔法は使えないっしょ? ちなみにこの汽車を動かしているのも俺! 空飛ぶ汽車なんて初めて乗ったでしょ!」
汽車、という単語に、くれなは尋ねるなら今だと思った。
「あの、ここは一体___」
そこまで言いかけて、言葉は止まった。ぷしゅう、とくれなが入ってきたものとは反対方向の扉が開いたのだ。
「魔法少女、飲酒!」
はっきりとした声が車両に響き渡る。黄緑色の髪の人。彼女か彼かは分からないそ
の人は、片手にたくさんのイカの燻製の袋やらチーズの入ったパックやらポテトチップスの袋やらを抱え、もう片方の手には一升瓶を持っていた。格好は変わらず王子様のような、高級感のある白いパンツスーツに深緑色の片掛けマントだから、ミスマッチな印象が否めない。
「あはは! 音だけ聞くと犯罪感すごい!」
「うん十年前に成人してるからセーフ! 未成年飲酒ダメだぞ! あっはっは! あっは……」
視線がパチリと合う。僅かに車両の中の時が止まる。くれなは緊張感から唾を飲み込む。
黄緑色の髪の人は、抱えていた荷物たちを、化石頭の人にめがけてすべて放り投げた。突然のことにくれなの肩が跳ねる。
「持っとけ。てかなんで起きたって言わなかった?」
「こらっ、食べ物を投げない! 言ったし! カワタレが聞こえてなかっただけじゃん!」
化石頭の人はふわりと人差し指をくるりと回し、荷物たちを宙に浮かせたまま固定する。慣れたような手つきだった。
つかつかと足音を鳴らしてその白いスーツの人はくれなの元へとやってきて、ふっと微笑む。くれなの右手をとり、ゆっくりと片膝をついた。
「はじめまして、勇敢なお姫様。私はカワタレ。この『魔法少女返納列車』の責任者である魔法少女です」
カワタレ、と名乗ったその人は、くれなの手を優しく握ったまま、すらりと立ち上がる。
「お、お姫様?」
「そうですよ。私は頑張り屋の子はみんなお姫様に見えるものですから。貴方は特に、勇敢で可憐な、ショートケーキのような赤毛のお姫様だ」
歯の浮くような言葉に、くれなは照れから視線を逸らす。
魔法少女。完全に成人している見た目だが、この人も魔法少女なのか、そして少女ということは女性だったか、とくれなは脳内で驚きの声を上げる。同時に『魔法少女返納列車』の単語に心が引っ掛かる。返納、とはいったい。何を返せばいいのだろうか。
戸惑うくれなの手をそっと引いて、カワタレは歩き出す。
「ちょうど私たち、酒飲み……夜食をとるとこだったんです。君も一緒に食べましょう」
向かい合ったソファにはすでに化石頭の人が座っていた。先ほどカワタレが放り投げた酒の瓶と食べ物たちはテーブルに並んでいる。
「カワタレあのさぁ、今更キャラ作っても遅いと思うよ?」
「うるせぇ黙ってろ……まぁ、一理あるか。簡潔に言うと今から私たち酒飲むから付き合ってくれ」
「すっ、すみません、私未成年です」
「ちゃんとジュースもある。さぁ座った座った」
「はっ、はい」
赤いソファにそっと腰かける。見た目は固そうなのに、マシュマロのように柔らかくて「ひえ」とくれなは小さく声を漏らす。それを見て隣のカワタレは、口元を手で押さえて小さく笑いを零した。
くれなはオレンジジュースで、ふたりはお酒で乾杯をする。化石頭の人は骨だけどどこに飲み物が消えていくんだろう、とふと思い見つめていると、彼はお酒を一杯飲み干して、口を開いた。
「あ、自己紹介してなかった。俺はゲン! 敵じゃないし怪物じゃないよ。安心してね。って、さっきまで普通の人間の魔法少女だった子が、安心なんてできないか? あはは!」
「このヘラヘラ化石人間は気にしなくていい。それより体調はどうだ? もしまだ本調子じゃないなら寝てくるといい」
「体調は、その、万全です。ゲンさんとカワタレさんが治してくださったんですか?」
「そうだよ、俺が治した! ついでに残党狩りもね! カワタレは何もしてないけど」
「はぁ!? 運んだのは私だっての!」
「そ、そうでしたか、お二人とも、本当にありがとうございます」
「いいってことよ! それにしてもくれなちゃんを運ぶだけって。カワタレは人を癒す魔法使えないもんね」
「うるっせえ。まぁ、人間界の魔法少女はポーションで回復するけど、君はそれも無くなっていた。それほどまでに大変な戦いだったんだろ?」
カワタレがくれなの顔を覗き込む。彼女は出会った時と同じ、明るくて堂々とした微笑みを向ける。
「生きてくれていてよかった」
彼女の笑みに、くれなの心臓が揺れた。
生きていることを感謝されるなんて、そんな、そんなこと。
「……私、死んだんですか?」
心臓の揺れに身を任せ、口が動いていた。
「えっ、なんでそう思うんだ?」
「だって、こんな風に褒めてもらって、美味しいもの飲んで、そんなの天国みたいだって、思って。それか、私は今地獄に行く途中なんですか?」
だって、知らない。こんな感覚。心が温かい言葉で震えて、羽が生えたように軽くて。自分は誰の役にも立てない、誰からも嫌われている人間だ。こんな感覚味わってなどいけない。己は地獄へ行くものだと、くれなはまるで生まれてきたころから決まっていたかのように、ずっと思っていた。
疑問符を拾ったのは、カワタレの声だった。
「あはは! 天国か、くれなちゃんは嬉しいことを言ってくれるなぁ。このカワタレ様と一緒にいることを天国と称するとは、見る目がある! この高いチーズ食べな」
彼女はチーズの乗った透明なトレイをくれなにぐいと押し付ける。そういう意味で天国と言ったわけではなかったのだが、カワタレが上機嫌で笑うから何も言えなくなってしまった。
「言ってる場合じゃないって! くれなちゃんは死んでないんだよ。ごめん、今からきちんと説明するね?」
「は、はい。お願いします」
くれなはチーズを両手で持ったまま姿勢を正す。ゲンは透明な酒の入ったワイングラスを置き、咳払いをする。
「この汽車が向かってんのは、東京にある、魔法界運営の『人間界魔法少女管理本部』! 俺たちね、君をスカウトしに来たんだ。おめでと!」
ゲンはかちかちと、手袋をした骨の手を鳴らして拍手をする。くれなは数秒固まり、目を覚ましては前に身を乗り出した。
「スカウト!? えっ、なんで、私をですか!?」
「うん」
「そう。このカワタレ様たちは上からの命令で、優秀な君を迎えに来たというわけだ。怖がらせてごめんな」
「いえ、あの、ごめんなさい驚いて」
姿勢を直す。こめかみに汗が滲む。瞬きが止まらない。
だってスカウトされるなら、桃頭アカネのはずだ。それが、スカーレット・スワンのリーダーでもない、お荷物でただの役立たずの自分が。
「いつもはね、死んだ魔法少女の変身アイテム回収や死体処理、残党狩りが、俺たち返納列車の仕事なんだけどね! でもカワタレがくれなちゃんのために直談判して、スカウトの仕事も回してもらえるようになったんだよ!」
「バカ、余計なこと言うんじゃねぇ。昨日までくれなちゃんは瀕死だったんだから。病み上がりに物騒な話聞かせんな」
「カワタレ、くれなちゃんにめちゃくちゃ甘ーい。俺に対しても少しその優しさ分けてよ」
「勝手に言ってろ」
くれなを置いて二人が軽口を叩き合う。
どうしよう、と心臓が大きく脈打った。心臓からぞわぞわと得体のしれない血液が昇ってくる。また、『いつもの』不安に溺れていく。
どうしよう、スカウトなんかされて、アカネちゃんに怒られたらどうしよう、またみんなに、死ねって言われたらどうしよう、スカウトされてもこれから大きな失敗をして失望されたらどうしよう、どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。
「はい、あーん」
はっ、と意識が戻る。声の出所は隣だった。カワタレが膝に片肘をついて、片方の手でポテトチップスを指でつまみ、こちらに差し出す。
「ほら、このカワタレ様が自ら差し出す貴重な機会のポテチ、食べないのか?」
なんと返答していいか分からず、くれなは固まる。ぐい、と唇にポテトチップスを押し付けられ、おずおずと口にする。出会ってから日が浅い人の手から物を食べるなんて、初めてのことだった。ポテトチップスはサワークリームオニオン味だった。
「不安と緊張でいっぱい、って顔してんな。なにか聞きたいことあるかい? なんでも言ってみ」
くれなは、ぱり、ぱりとゆっくり、ポテトチップスを咀嚼する。あまりに優しい言葉に、歯の感覚がふわりと柔いものになったように感じる。同時に、そんなに分かりやすい顔してたか、と自分を情けなく思った。
ゆっくりと飲み込んで、くれなは視線を斜め下に向け、小さく口を開いた。
「私、ダメです」
か細い声で、くれなは続ける。
「実力もないし、周囲とも上手くやれないし。本当にダメ人間なんです。何やっても空回りで、いつも怒鳴られてばかりで、どこにいっても仲間外れで」
ぎゅっとくれなは白い装束のスカートの裾を握る。己が発したはずの言葉なのに、容赦なく胸の傷を抉っていく。魔法では治せないほど、深いところを。
「誰にも愛されない私なんか、スカウトされていいような人間では」
「くれなちゃん、本当の理由はなんだ?」
「え?」
声とともに視線を隣に向ける。カワタレは肩肘をついたまま、至極真剣な顔で首を傾げて、くれなの瞳を見つめる。
「カワタレ様はこう見えて長命でね。職業柄、君のような頑張り屋すぎて自分を大切にしない人、何人も見てきた。だからできればでいいからさ、教えてほしい。そこまで言ってスカウトを嫌がる、本当の理由は?」
できればでいいからさ、という前置きに、どうしてこの人は優しく接してくれるのだろうと思った。だから、話したくなってしまう。今にも溢れ出しそうなこの胸の黒い渦を。
「でも」
けれど、言ったら絶対に、引かれる、軽蔑される、罵詈雑言を浴びせられる。だっていつも、そうだったから。自分が何か話して帰ってくるのは、温かい言葉なんかじゃないから。
「大丈夫! くれなちゃんを否定しないよ。カワタレも、俺も」
時折僅かに揺れる汽車の中、セピア色の穏やかな空気が流れている。まるで、本音も何もかも、包み込んでくれそうな空気だ。
「……本当は私が、誰よりも劣っているとかじゃなくて、ただ単に、怖いんです。自分の、私の周りを取り巻く、全てが」
細い声は止まらず、流れを生み出していく。
「いつからかは分からないんですが、ある日突然、怖くなってしまったんです。自分の振った脇差がチームの誰かに当たって怪我でもさせたらどうしよう、怪物の攻撃から誰かを守れなかったらどうしよう、失敗したらどうしよう、どうしようって、たくさん」
己の発する本当の心の言葉に意識を持ってかれないように、はじめて人に話した自分の本音に、感情が流されないように。
「夜眠れないくらい怖くて、誰かと話しているときも、自分が何を、どんな話をしているのかわからなくなったんです。いつからか分からないけれど、怖くて仕方なくって。自分で喋ってるはずの言葉が遠くに感じて、相手の言葉もよく覚えられなくなっちゃって、なんで覚えてないんだって怒られることもたくさん増えて、こんなどうしようもない脳みそ抱えて生きているのが情けなくて、死ねって言われながら生きていくのが馬鹿みたいに思えて。そしたらもう、なんで」
手が震える。口が乾いて、喉が張り付いて苦しい。
くれなの瞳に雫が滲む。泣くな、泣いても困らせるだけだ。零れないように、必死に心をなだめる。
「なんで自分は生きているのか、わからなくなっちゃったんです」
くれなは俯いたまま、さらに背を丸める。言ってしまった、と後悔に似た薄暗い感情が、霧のように漂う。どうしよう、出会ったばかりなのにこんなこと言って困らせたらどうしよう、どうしよう、どうしよう。また『どうしよう』の海に溺れていく。
振り払うように勢いよく顔を上げ、くれなは不格好な笑顔を作った。
「ご、ごめんなさい! 変なこと言って気持ち悪いですよね? このさきいか食べたらもう、この汽車を降りますので。窓からだろうがなんだろうが、飛び降りますから」
ぐい、と腕を横から引かれる。そのままくれなは、カワタレの胸に抱きしめられる。ぎゅっと、力強く。
「幸せになろう」
「……へ?」
誰かに抱きしめられる初めての感覚と、カワタレの言葉に思わず声が零れた。
「君が今抱えている、呪いに似た感情を捨てられる日まで、ここにいればいい。そんでさ、くれなちゃんに苦しい思いをさせた奴ら全員のつむじを綺麗な青空から見下ろしてやるんだ」
両肩をカワタレの両手で包まれる。ゆるりと身体が離れる。
カワタレは笑っていた。相変わらず堂々と、どこか強さを感じる笑顔で。その燦燦とした表情に、心が引き寄せられる。罵詈雑言を浴びせられたわけじゃないのに、胸が苦しい。どんな言葉を返していいか分からない。ただ確かなことは、彼女の手を取りたいのに、取ることができないこと。幸せになるなんて、自分にはできないと思うことだけだ。
「でも私のような人間は、幸せにはなっちゃいけないような気がするんです」
くれなの眉の端が下がる。鼻の奥がつんと痛んだ。
カワタレはくれなの左肩から手を離し、くれなの赤い髪をそっと撫でた。
「幸せになるのは権利だ。君にはその権利がある。絶対。君は本当に今のままでいいのか? どうしよう、と不安ばかり抱えて生きていくのは辛くないのか?」
カワタレが右手の人差し指をそっと、くれなの首の真ん中に柔く刺す。
「馬鹿にしてきた奴らを見返せるくらいに、幸せになりたくないか?」
強く手を引かれるような、力強いいざないの言葉が、くれなの鼓膜を震わせる。カワタレのはっきりとした声に、己の心の奥底が見えてくる。
今のままでいいなんて、思ったこと一度もなかった。不安ばかりの心と脳を抱えて生きていくことは、泥の沼を進むように辛かった。
ずっとずっと、救いを求めてきた。アカネがスカウトされれば前みたいに仲良くなれるかもしれない、と、蜘蛛の糸に縋ってきた。死にかけたときも、誰でもいいから助けて、それか力尽きさせて、と願った。
それはきっと、散々で苦しくて仕方がない現状から、解放されたかったから。
「私、わたし」
ずっとずっと、幸せになりたかったから。
「幸せに、なりたいです」
ぐっと唇を噛む。じわり、じわりと瞳いっぱいに涙が滲む。ぼやけた視界で、カワタレの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
一滴の涙とともに、くれなは息を吸った。
「きっと、本当は、ほんとは、ずっと、幸せになりたかった」
心からの言葉が口から溢れてようやく、己の本心に気が付くことができた。苦しい、辛い、助けてほしい。そんな悲鳴を上げ続けていた自分を、ようやく見つけるこ
とができた。
「ごめんなさい、泣いてしまって、ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
目を閉じ、ぎゅっと涙を溢れさせる。泣いてしまって困らせたらどうしよう、と、またくれなの中のどうしようが牙をむく。
けれど、その牙はすぐに折れた。くれなの首元から離れたカワタレの指が、そっと優しく、くれなの涙を指ですくう。くれなは目を開け、ゆっくりと顔を上げた。カワタレの微笑みは子供をあやすように穏やかだった。
「辛いこと思い出したね。ごめんな。話してくれてありがとう」
またひとつ涙が出てくる。先ほどまでの堂々たる態度からは考えられないほど、落ち着いた声だった。彼女は謝る必要などどこにもないのに、目の前のこの人はどうして、どうしてこんなにも、心の奥を優しく撫でてくれるのだろう。
くれなは鼻をすする。
「ゲン、ティッシュ……ってお前も泣くのかよ」
カワタレの声でゲンに視線を向けると、彼は真っ黒な空洞の瞳から大粒の涙を流し
ていた。どういうメカニズムで泣いているのだろう、とくれなは僅かに涙が引っ込
む。
「だ、だってぇ! うぐっ、くれなちゃん、迎えに行くのが、遅くなってごめんよお、びへえええええん!」
「泣き方気持ち悪いな相変わらず。おら、ティッシュ!」
「持ってくるよ! カワタレの馬鹿!」
「あぁ!?」
ゲンは立ち上がり、隣の車両へと駆けて行った。くれなはゲンの背を見つめながら、顔の涙を拭う。
少し時間が経って涙があらかた止まる頃、穏やかな空気の中くれなは口を開いた。
「でっ、でも具体的に、どうやって幸せになればいいんでしょうか? スカウトされた後のこと、私、何も知らなくて」
「あぁ、人間界の魔法少女の講習会では具体的なことは言わないもんな。じゃあ、これからの話をしようと思う」
「はい、お願いします」
再び鼻をすすり、くれなは頷いた。
カワタレは透明の酒が入ったグラスを僅かにくれなの方へ傾け、口を開く。
「君には是非ここで、魔法少女返納列車で働いてもらいたい。配属先をここにすることについて、魔法界の最高権力者から了承を得ている。必要なら書状も持ってこよう」
書状、最高権力者という言葉に、背筋がピンと伸びる。己の名前がそんな偉い人のところまで届いていることに、僅かな緊張感を覚えた。
カワタレが酒を口に含むと、ゲンが箱のティッシュを持って小走りで戻ってきた。
「はいよ」とティッシュを1枚差し出され、くれなは「ありがとうございます」と頭を下げて受け取った。
カワタレは、こん、とテーブルにグラスを置く。ソファの背もたれにどさりと体重
を預け、後頭部に両手をあてて「こんなこと言いたかないんだけどな」と言葉を続ける。
「でも、事実だから言う。人間界の魔法少女にはプライバシーってのがあんまりない。本部にさぁ、人間界に籍を置く魔法少女を統括する監視カメラみたいなのがあるんだ。残念ながら本部にだけで、都道府県ごとの支部にはないんだけど。ま、変身している間の姿は監視されていると思った方がいい」
姿勢はだらりとしているが、カワタレの目は真剣だった。
「そう。俺たち、くれなちゃんが今まで頑張ってきたのも見てきたんだ。今から行く本部にある特別な装置を使う魔法で、断片的だけど。だからくれなちゃんの名前も知ってたんだよ」
「それじゃ、私が失敗したりとか、情けないところもですか?」
咄嗟に出た言葉に、カワタレが笑い声をあげる。
「ははは! 全っ然失敗なんかしてない! むしろかっこよかったぜ? 私は君の戦う姿に元気をもらっていたんだ。じゃなきゃ、さっきみたいに初対面の女の子を抱きしめたりしないよ」
戦う姿を褒められることは初めてだった。くれなは照れを隠すように軽く視線を逸らす。
「私は君のファンなんだ。たった一人でバッタバッタ怪物倒してくくれなちゃん、さすがだった」
「だから、桃頭アカネとかが君に嫌なこと言ってきたときとかね、カワタレがめちゃくちゃキレて装置ぶっ壊そうとするの毎回止めてたんだよ。『私の可愛いくれなちゃんが、こんな目にあい続けるのをこれ以上見てられるか! 今すぐスカウトしに行く!』って。まだスカウトの手続き終わってない頃にそればっかり」
「寧ろ本当に装置壊さなかっただけ褒めてほしいものだが?」
当然のようにカワタレは言った。
カワタレが姿勢を戻し、褒められたことに照れて頬を染めるくれなの手をそっと取った。
「私たちは、くれなちゃんが受けていた仕打ちもなんとなく知ってる。そのうえで君をスカウトしにきたんだ。君の県のゴミクズ節穴の目もち魔法界担当者は、桃頭アカネの報告書を鵜吞みにして、君の活躍に気づいていなかったみたいだけどさ」
時折口が悪い単語がちらつくが、カワタレは真面目な表情だった。
「さて、ここからが本題でね、君を除くスカーレット・スワンのメンバーの3人が人型の怪物らしき何かと、何度も接触してることがわかってだな?」
車両の中の空気が固まる。
「……え?」
くれなの、途切れたぶつ切りの声が零れる。
最近3人とは会っていなかったからそんなこと全く知らなかったし、信じ難い情報だ。だけど、カワタレが今そんな冗談を言うようには、まだ出会ったばかりの付き合いだが、思えなかった。
驚き固まるくれなの目を真っ直ぐに見て、ゲンが頷いた。
「戦闘じゃなくて、接触。認識を阻害する魔法をかけていたようで、装置で見るのも、俺たちが急いで向かって接触するのも残念ながら無理だったし、証拠不十分でスカーレット・スワンの人も今は拘束できないんだ。残念」
「でも君をスカウトすることによって、あのチームは劇的に弱くなる。怪物に殺されるのも時間の問題だろう。あまり知られていないけど、怪物だって馬鹿じゃないから、同胞が死んだ場所にはより強いものを送り込む習性があるんだ」
2人は今日の天気を話すように、淡々と続ける。いやきっと、この2人には日常茶飯事なのだろう。魔法少女の死というものが。
あの3人が怪物に殺される。アカネたちの顔が頭に浮かぶ。助けにいくべきだと心の隅の自分が言うけれど、何故かその誘いに頷けない自分もいる。
悶々と考えていると、ぐい、と手を引かれた。カワタレと顔が触れそうなほど近い距離で、目が合う。
「なぁ、くれなちゃんを今まで馬鹿にしてきた低能共の最期の瞬間、見たくね?」
ダイヤモンドのように眩しい瞳から目が逸らせない。吸い込まれていく。3人を助けに行けと、頼んでもないのに命令してくる心の中の自分の声が、消えていく。
「ここで働いてればいつかはたどりつける。砂糖菓子みたいに目いっぱい甘くて幸せな日々を送ってさ、リボンのついた脇差で怪物倒しまくってさ、そいつらが羨ましがるくらいカッコいい登場の仕方で、瀕死のそいつらを迎えに行って」
カワタレはどこか楽しげに、息を吸う。
「そいつらの無様な死に顔、一緒に見に行こうぜ」
どうしよう、といつもの単語は、不思議と出てこなかった。
あの3人を地獄に落としたいとは思わない、かは分からない。でも、あの牢獄にはもう戻りたくない。だってまたあの3人がいる牢獄に戻ったら、幸せになれない。
____ここで幸せになりたい。
カワタレとゲンと、幸せを探したい。まだ出会ったばかりだけれど、己の心の叫びに従いたいと、強く思った。
「……よろしくお願いします、カワタレさん、ゲンさん。私があの人たちを見返せるくらい、幸せになるまで」
くれなは手を握り返し、ゆっくりと頷いた。あまりにも明るい声の、復讐のいざないの手を取る。
カワタレは満足げに、どこか愉しそうに口角を上げた。
「いい顔してるな。よし、歓迎の祝杯だ! ゲン、酒とジュースもう一本!」
「はーい!」
酒の匂いが充満する汽車は、夜の空気を切って進んでいく。
くれなは第一歩を踏み出した。砂糖菓子とリボンでできた、復讐の物語の、第一歩を。
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