奇跡の日々が続いていく季節2
エレベーターに乗って1階まで降りて、外来棟の方まで足を伸ばす。
今日は休日で外来の診察は、紹介状のある特別なものばかりだから、人はほとんどいない。時々、換気の為に開けている窓があって、白夜は時折そこから入ってくる風を気持ち良さそうに浴びていた。
受付のあるエントランスに辿り着くと、ようやく目的のものが見えた。
そうだ、ここには昔からストリートピアノが置いてある。
寄贈されたものらしいが、普段はほとんど誰にも触られていない、忘れられた可哀想な古いアップライトピアノだ。
病院に来てピアノを弾く人なんて、そもそもいないのだろう。
「……ここで、4歳の時、1番最初に母にピアノを習ったんだ。こそこそ病室抜け出してここに連れて来てくれて、本当に楽しかった。こんなうたもあるんだって知れた。」
ボソボソ呟いて穏やかな表情になる。
その思い出は、とてもとても、大切なもので今の白夜をつくっている一部だ。
「……大切な思い出のピアノなんだね。だけど、調子にのってあんまり激しいの演奏したらダメだからね。」
蓋を開けてやると、白夜はすぐに手を伸ばして、人差し指でひとつ白鍵に触れる。
音に命が生まれる。
テンポ遅めのゆったりしたクラシックを1音1音、とても丁寧に弾いて、静かなエントランスに響かせる。
ついつい見守っている立場なのに、聞き入ってしまう魅力のある旋律だ。
「びゃくちゃん!!」
聞き覚えのある声がして、振り返ると朔が真っ赤なスカートをひらひらさせながらコチラに向かって走って来る。
身体が自然と危険を予知して、白夜の前に出て手を広げる。
「病室にいないから、探しましたよ!元気そうでなによりです!」
朔の言葉は確実に、白夜の耳に届いているはずなのに、返事がない。
集中している時でも、朔の声にはすぐに反応するのに。
もしかして、と、不安になって様子を見るが集中しているだけのようだ。
演奏が終わってようやく朔の存在に気が付いたようで「いつからいたんだ?」と声をかけて笑っていた。
病室に戻って朔と楽しそうに話しをしている姿を見ると、とてもホッとする。
このまま楽しませておきたいけれど、疲れてしまうから、頃合いを見て、心苦しいがストップをかける。
いつも、話しが止まらず、なかなか病室を出ないから、最後はいつも強制的になってしまう。悪者になるのは慣れているし、別にどうってこともない。
朔がいなくなって静かになると、白夜は窓の外をぼんやり眺めて溜息を漏らす。
「疲れちゃったよね。昼ご飯の時間まで少し休むといいよ。」
白夜は首を横に振る。
「……残りの時間がどのくらいあるのか、わからないんだ。寝ていたら時間がもったいない。」
歩み寄ってすぐ横で腰を下ろして手を握る。
「……ちゃんと休まないと具合が悪くなって、やりたい事、できなくなっちゃうんだよ。それに白夜くんには、まだまだ時間たくさん、たくさんあるよ。」
白夜の手が小さく震えだす。
「……そんな気休め、もう、いい。」
泣き出しそうな白夜を黙って包み込んで抱きしめる。
迷ったりはない。
胸の中で、白夜ははじめて「死にたくない」と声を上げて泣いてくれた。
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