1章 始まりは白いホテルで(1)

 住み慣れた部落の外に出た事がなかったから、地区や市が変わるだけでも異世界に来たような錯覚を覚える。戻る家もなければ、帰らなければならない場所もない、自由気ままな一人と一匹の旅だった。


 猫であるクロエの主人は、中村エルといった。


 エルは、通気性の良い黒のロングコートをはためかせながら、堂々とした足取りで街を闊歩する。華奢で小綺麗にした少年風のエルと、ボストンバックから顔を出す黒猫の組み合わせに気付いた通行人が、思わず好奇の目で振り返るが、一人と一匹は気にしない。


 簡易宿泊説から出て数十分、エルは、人通りの多い市街へと足を進めた。


 国際通りは他県からの人間や外人、県内の人間で溢れていた。沖縄には米軍基地があり、県内で働き、住んでいるアメリカ人の数も多い。エルは目的もなく、人でごった返す町中を散策した。


 緑がほとんど目にとまらない道路や路地、ぎっしりと敷き詰められたような建物の様子を見て回る。そこには生活臭があり、店通りには、様々な食べ物や香水の匂いもあったが、風が吹き抜けた一瞬だけ、どこからか海の匂いがするのは、波の上方面から流れてくる潮の香りのせいだろう。


 古い街並みの間に真新しいビルが建ち、新しい街並みに入りこむ、古い住宅やアパートも目立った。道路や建物は増築中の物もあり、けたたましい音を立てて工事が続いていた。


 那覇は特に、住んでいる人や働く人など、とにかく人の出入りが多い場所だった。そこらに停めてある自転車やバイク、行き交い突っ込んでくる車の数には、思わず目が回りそうになる。


 秋も半ばを過ぎ、沖縄も少し肌寒くなっていた。他県の人間にとっては、まだ平気な寒さなのだろう。


 曇り空の下、薄い半袖シャツ一枚で歩く旅行者たちは、寒がる沖縄県民を、半ば不思議そうに目で追ったりした。ずっと沖縄で暮らしているエルにとって、今の時期に半袖一枚でいる人間の方が、寒そうに思えて仕方がない。


 ビルの立ち並ぶ繁華街まで足を伸ばしてみたところで、住居と企業が乱立しているような、見慣れない背の高い建物の群れを見上げた。空を覆う雲は厚いが、低くはない。どうやら雨は降らないようだ。


 クロエは老猫なので、一日に何度も仮眠をとるのも珍しくはない。川沿いに抜けた頃、クロエはボストンバックの中で眠りに落ちていた。


 エルは、この辺りに猫同伴でも大丈夫な食事処はないかと考えながら、しばらく川を眺めた。川は濁っていて、眺めていてもつまらなかった。どこからか聞こえる工事現場の音や、表通りの車の騒音を耳にしながら足を休めた。


 暫く休んだ後、クロエが目を覚ました頃合いを見計らって、エルは、川の反対側を目指した。


 少し空腹を覚えていたので、美味い匂いに溢れた国際通りまで戻る事にした。歩道で旅行者の団体に遭遇し、そっと道を譲って見送った後、不意に、辺りの喧騒が耳から遠のいたような違和感に足を止めた。


 チクリと、首の後ろに違和感を覚えたのは一瞬だったが、名前を呼ばれたような気がした。


 驚いた、というよりは、その名前に、身体が自然に反応してしまったという方が正しい。ハッとして振り返った時には、喧騒が耳に戻って来ていた。


 気のせいだったのだろうかと、エルは訝みつつ足を進めた。その名前を呼んでいたのは、少しの間まで一緒に暮らしていた男だけだ。彼は、エルのもう一つの名前を大事に呼び、秘密を抱えたまま死んでいったのだ。


 歩きながら、エルはクロエへ視線を向けた。案の定、クロエがどこか心配そうな眼差しを返したので、苦笑を浮かべた。


「ごめん、なんでもないよ」


 この地区に、幼少期の頃の知り合いなどいるはずもないのだ。いたとしても、それは随分と遠い過去の話で、今は誰も、あの頃のエルを覚えてはいないだろう。


 エルは気を取り直し、大きな交差点で一度信号を待ってから先へと進んだ。


 一際大きな白い建物が向こうの通りに見えた時、再び、後方から名を呼ばれたような気がした。


 今度は、はっきりと少女の声であるという印象を受けた。ふわり、と風に揺れる長い金髪が、残像のように振り返り様にエルの脳裏にこびりついたのだが――



「何か、お探しか?」



 不意に話しかけられ、エルは驚いた。いつの間にか、道の脇に僧侶が立っていたのだ。


 僧侶らしい格好をしたその男は、笠を被っているので顔は見えなかったが、背丈や体格、声の感じからすると若い男のようだった。


 なぜ俺に声を掛けたのだろうか。


 辺りを見回し、エルはようやく納得した。人の数が正午を過ぎて少なくなっている事に気付いた。


「えぇっと、寄付が目的なら他を当たって欲しいんだけど……」

「探し物をしているようだから、声を掛けた」


 僧侶は、やんわりと答えた。彼は両手を袖に入れて立っている。


 エルはしばらく考え、彼に質問してみた。


「猫と同伴出来るお店を探しているんだけど、心当たりはありませんか?」

「場所によってはあるのだろうが、生憎、私はここの土地を知らない」

「なんだ、知らないのか」


 エルは、途端に落胆を覚えた。バッグから顔を出していたクロエが、少々呆れた目を僧侶へ向ける。


「これだけ人が群れる街であるならば、食事処はいくつもあるのだろう」

「ごちゃごちゃして、良く分からないんだ」


 エルは本音をもらし、眉根を寄せた。


「中の通りは、食べ物を並べて置いてあるから、俺たちが近くまでやってくると店の人が嫌な顔するんだよ」

「そうか」


 僧侶が淡白に言葉を切ったので、エルは「じゃあな」と言って歩き出した。


「やると決めたから成し遂げるのか。それとも、望んだからその未来を選んだのか、どちらが正しいのだろう?」


 その時、僧侶が呼びとめるような声を上げた。


 エルは足を止め、肩越しに振り返って訝しげな眼差しを向けた。


「何それ。占いかなんか?」

「――いや、現在は『過去』であったな。うむ、大変難しい。タイミングがとても大事なのだ」


 僧侶は独り事のように続け、小首を傾げる。


「そうだな。もし神様が『願いを一つだけ叶えてやろう』と約束したとき、その人間が自分の事ではなく、他者を助けたいと願ったとしたならば、その気持ちは何だろうか?」

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