1章 始まりは白いホテルで(2)
よく分からない問い掛けだったが、エルは気まぐれで、少しだけ考えてみた。
「願った人は、その誰かの事が自分よりも大切なんだと思う」
「なるほど、『大切』か」
男は、あっさりと認めたように肯いた。
「願われた他者にも意思や望む未来があるが、一つしか手助けする事が出来ないとしたら、本人を無視しても良い事なのか? 他の者も、それぞれが同じ者の未来を願ったとしても、それが、関わる全ての人間の未来の『縁』を派生させるものだとしたら?」
「……なんだか難しい話しだなぁ。それ、俺が答えられるような質問じゃないよ。多分、頭のいい人が、ずっと考え続けているような難題じゃないの?」
エルが困ったように笑うと、僧侶も「そうなのだ、難しい」と肯いた。
「だからこそ、私は他者の意見を聞いてみたい」
「それって、俺でも構わないって事?」
「私は今、君の意見を聞きたい」
脇を通った二人組の女性が、怪しいものを見る目をエル達に向けた。
妙な勧誘を受けていると勘違いされたのだろうか。そう思ってエルが顔を上げると、彼女達は、足早に去って行ってしまった。
エルは、溜息をついた。面倒な男に掴まったなと、小話に付き合った自分の選択を少しだけ後悔する。
「……難しい事は分からないけど、願った人は、きっと大切な人の事を一生懸命考えて『その人を助けて』と願った。幸せを強く願われて、神様にとって『一番誰もが幸せに慣れる』未来が選ばれるんじゃないかな」
「なるほど。良い意見だ」
僧侶は、ちょっと肩をすくめ「どちらが本当に救いになるかは、また別問題だがね」と呟いた。
「可愛い我が子に約束された時から、もう随分と時間が過ぎてしまっている。その『神様』としては、そろそろ帰って来て欲しいのだろう。だから悩んでいる」
「あの……貴方の言っている事が、よく分からないんだけど?」
「――しかし、既に未来を選んだ者がいるな」
僧侶の声色が変わった。どこかを見やる彼の笠の下から、凍てつくような薄い青の瞳が覗いた。
通り過ぎる車や歩く人間の姿も、何もかも映し出さないような綺麗すぎる瞳に、エルは寒気を覚えた。崇高な物の他は、どうでもいい事なのだろうと思わせるような、違い次元で物を考える人間の眼差しに思えた。
僧侶だと思って警戒していなかったが、どうやら人を信じ導くだけの無害な人間ではなさそうだ。
エルは踵を返すと、大股で通りを先へと進んだ。
また、不意に名を呼ばれたような気がした。あの僧侶の声だと分かった。脇を通り過ぎていった車の走行音にかき消えてしまったが、何やら一際大きい、行く手を阻む制止の声だった。
新手の勧誘などの悪意ある引きとめであるのなら、今度は容赦しない。
エルは喧嘩を売るつもりで、「なんだよッ」と振り返った。しかし、そこには、もう誰もいなくて、一気に闘争心を見失ってしまった。
「……あれ?」
思わず小首を傾げた。あの僧侶は、何処かへ行ってしまったのだろうか。
何故か、耳の奥がじぃんと痺れていた。再び歩き出した瞬間、不意に、水の中を歩くような違和感が足に絡んだ。驚いて足を止めてしまったが、その違和感は、耳の奥の痺れと共に一瞬で消え去った。
エルは、慎重に辺りの様子を確認した。物理的な異変はどこにも探せなかったが、世界の色が唐突に変わってしまったような、そんな奇妙な変化を覚えた。空気の匂いにも、変化があるような気がする。
しかし、しばらく考えてみると、気のせいのようにも思えて来た。相変わらず人の通行は続いており、通りには車も行きかっているのだ。
突っ立っている訳にもいかないので、エルは、向かい側からやってくるパーカー姿の若者を避けて先へと足を進めた。モノレールに乗ってみるのもいいかもしれないと、そんな考えが脳裏を過ぎる。
「お客様、可愛らしい『猫ちゃん様』をお連れですねぇ」
大きな白い建物の前で、唐突に男から声を掛けられた。男は荒れた歩道の上で、両足を揃えて姿勢正しく佇んでいた。白いシャツと蝶ネクタイ、磨かれた革靴に皺のないタキシードを着込んでいる。
行く先を確認しながら歩いていたつもりだったが、このような男が立っていた覚えはない。記憶を辿るものの、先程まで見ていた光景が、不思議と曖昧で思い出せなかった。
今日は、よく話しかけられる日だなと妙に思いながらも、エルは、声を掛けて来た男を窺った。
男は三十代半ばほどで、体躯は細いが異国人ほど背丈はあった。特徴のない細長い白い顔に愛想笑いを張り付かせ、開いているのか分からない細い目をしている。人相を見る限り、性格はあまり良くはなさそうだ。
よく見れば、男の左胸には『ホワイトホテル』と書かれた金色のネームカードが付いていた。
男が立っていたのは、白い外観の大きなホテルの前だったので、恐らく、やり手のホテルマンという奴だろう、とエルは推測した。
呼び込み営業をしなければならない事情でもあったのだろうか。それとも、お得意のお客様でも待っているのか?
「悪いけど、俺はホテルのお客様じゃないよ」
クロエを出来るだけ男から遠ざけつつ、エルは、警戒しながらそう答えた。
すると、男が一秒ほど間の抜けた表情をしたかと思うと、途端に嘘臭い営業顔で「ヒョホホホホッ」と甲高い独特な悪い声を上げた。
「いえ、いえ、特に他意はありませんので、ご安心下さいませ。ただ、中心街ではペット同伴が難しい場所が多くありますし、困った顔をして、この通りを歩いているお客様を何度かお見かけしているもので」
「俺みたいな一人歩きの若い人間が、ホテルに用があると思ったの?」
「当ホテルでは、お客様第一のサービスを心掛けておりまして、ランチは三時半まで営業しておりますし、ランチを担当するコックの料理も素晴らしいのです。バイキング形式ですし、ペットちゃん様も大歓迎ですし、何と言っても平日はお値段がリーズナブル!」
男は、意気揚々と自慢するように話し始めた。
「当ホテルでは、過ごし易い環境と、老若男女に人気のメニューを取り整え、一時のくつろぎとして、宿泊客様以外にもご利用頂ける岩盤浴や、マッサージメニューも取り揃えさせて頂いておりますッ。まあ、ぶっちゃけますと、出来るだけ地元の方にご利用頂いて、顧客様になって頂ければ来る回数も一人当たりそこそこ稼げ――」
そこで、怪しげな男――ホテルマンは、嘘臭い咳を「ゲフンゲフン」とやった。
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