序章 エルの、愛猫を連れた旅

 2010年秋某日――


 誰かに呼ばれたような気がして、ハッと目を覚ました。


 薄暗い室内の静けさに耳を済ませ、馴染みのないキレイな室内の閑散とした匂いを嗅いだ。誰かに呼ばれるなんて在りはしない事を思い出し、すぐに己の気のせいである事を悟った。


 首をやや傾けて、目覚まし時計を確認した。今日も、アラームより早く起きてしまっていた。


 時刻は、早朝の五時二十分。すっかり身に染みついた起床時刻だった。しばらく待って見たが、次の眠りが来る様子はない。


 珍しく自分が夢というものを見ていたような気もするが、どうやら思い違いであったようだ。


 幼少期以降は、夢を見た経験がなかった。睡眠とは、一定の時間、意識を手放す事で身体の疲労を取り除く方法だと――ある人にそう教わった。脳のオン・オフを手早く可能にする事によって、脳内の情報処理能力を向上させ、反射的・瞬間的に、いつでも非常事態に対応できる身体を作り上げられる、とても大切な事なのだ、と。


 上体を起こした時、足元で丸くなっていた猫が顔を上げた。それは老いた黒猫で、身体は最盛期の若い猫と比べると少し細身だが、エメラルドグリーンの大きな瞳は美しく気品があり、漆黒の毛並みも白髪が所々見え隠れする程度で、老いを感じさせない品が漂っている。


 起床した老猫の主人もまた、華奢な身体をしていた。


 耳が隠れる程度の癖のない短髪と、どこか幼さを覚える瞳は色素が薄く茶色かかり、肌は白く滑らかで、首は頼りなく細い。あどけなさと愛嬌を感じる小さな顔は中世的だが、意識して唇をきゅっと引き結び、強い眼差しをすると、その表情は同じ年代の人間に比べると、少し大人びても見える。


 主人の細い指が、足元の猫を優しく撫でた。猫もくぐもるような声で喉を鳴らし、愛情に応えるように、自らの頭を主人の手にすり寄せた。


「おはよう、クロエ」


 主人の問い掛けに、老猫のクロエは「ニャー」とご機嫌な声で鳴いた。


 この十六年の間、一人と一匹の間で、毎日欠かす事なく繰り返されている挨拶だった。主人は、可愛いクロエをぎゅっと抱きしめた。この猫と過ごせる残り少ない日々は愛おしくて、胸が引き裂かれるように切ない心に気付かない振りをして、今という時間を堪能するのだ。


 抱き締めた暖かいクロエの身体が、まだ生きている事を実感させてくれる。猫は人間よりも遥かに早く成長し、衰えてゆくのだという事実が主人には哀しかった。

クロエは、既に十六年以上は生き続けている。


 ずっと一緒にはいられない事がわかって、主人は、置いて行かれるいつかの未来を想って強く目を閉じた。


           ※※※


 一人と一匹は、軽く風呂を済ませた後に食事をした。コンビニのパンと、袋タイプの柔らかい猫用フード。一人と一匹は、朝には牛乳を飲むのが日課だった。


 付けられたテレビからは、連続行方不明のニュースが流れていた。今年の春先から夏にかけて、十数人の男女が県内から忽然と姿を消しているのだという。死体は上がっていないが、夜道に一人で帰らないよう呼び掛けられていた。


 一緒にベッドで寝ていたはずなのに、目が覚めるといなくなっていた。いくら待っても起きて来ない事を気に掛けて部屋を見にゆくと、いなくなっていた。帰りを待っていたが、深夜になっても戻って来ない……


 失踪の共通点は、貴重品は一切持ち出されていない事だ。本人が寝ていた痕跡が布団には残されているが、人間だけが消失してしまっているという不可思議なものもあった。秋に入ってからは、まだ発生していないが、家族が帰りを待っていると情報提供が呼び掛け続けられていた。


 消失した人間に、他の共通点はない。年齢も性別も様々で、誰もが全くの赤の他人だった。


 場所は、沖縄県内の南部から北部までと広範囲だ。ニュースで報じられている人の中には、家出の経験がある者や、帰らないでホテルや漫画喫茶に泊まる習慣があった者もあった。


 簡単に食事を済ませると、主人はテレビを消して、一人と一匹は外出の準備を始めた。


 老猫クロエは自らの毛繕いを始め、主人は白色のシャツの襟元を整え、下に着た黒いカジュアルズボンのベルトをしっかりと締めて、黒いロングコートを着用した。最後に、コートの内ポケットに、通帳と身分証が入っている事を確認し次の行動に移る。


 毛繕いを行うクロエを横目に、主人は、必要なものを橙色の丈夫なボストンバックに詰め始めた。財布、印鑑、お下がりの茶色い手帳、写真の入ったロケットペンダントが一つ。先日購入した非常食が少しと、水の入ったペットポトル、年季の入った地図が一つ……


 宿泊施設等を転々としている彼らの荷持は、とても少ない。けれど、ボストンバックにまだ充分な収納余裕があるのには、訳があった。


 主人は、ボストンバックを肩から通し提げると、左腰にあたるバックの位置を再度確認した。一度だけ、床にバックをつけるように膝を折り、鞄の口を広げてクロエに声を掛ける。


「おいで、クロエ」


 クロエは応えるように「ニャー」と鳴くと、広げられたバックの口から、するりと中に入り込んだ。


 すっかり老いたクロエは、長時間歩く体力がない為、バッグに身体を預けての移動がほとんどだった。顔だけをバッグの口から出して、一人と一匹は、数カ月前から自由気ままな旅を続けている。


 しかし、これから数分間だけは、クロエには完全に、バッグの中に身を潜めてもらう必要があった。実をいうとペット同伴で泊まれる施設は少なく、この場所も人間一人と偽って泊まった部屋なのだ。


「少し息苦しいかもしれないけど、ちょっとの我慢だよ。チェックアウトするまでの辛抱だからね」


 主人は、そう言って不敵に笑った。


 猫も楽しそうに「ニャーン」と答えた。

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