第12話 私の、愛しい娘(上)
あれから、また季節は廻っていった。
娘は大学に通い出してから、一人の男と交際を始め、大学二年目の春に彼を家に連れて来た。父親としてショックを隠しきれず驚いて言葉もない男と同様、相手の若造も、別の意味で驚きを隠せない様子だった。
「え、もしかして、あの映画の原作者の……? 雑誌の写真でも見た顔まんまなんだけど……」
一体どういうこと? と若い彼が口の中で呟いて、しれっとしている娘の横顔を見た。
どうやら、彼女の父親が有名な作家である事を、娘の恋人は知らされていなかったらしい。彼女は大学に入ってから、警戒心を持って父親のことを周りには話していなかったのだとか。
事情をさらっと話す娘を前に、私としては、なんとも出来た娘であると思った。
相手の男は、学生ではなく社会人だった。大学の近くの会社に勤めている男で、名を野口といい、娘より六歳年上であった。
雰囲気は伊藤家の男と似ていて、初対面である私達を見つめる瞳も穏やかで温かかい。年齢以上に物腰柔らかそうな雰囲気を見て取って、私は、娘の相手に相応しいと直感的にそう思った。
そう納得する私と、女の隣で、父親である男だけが困惑していた。――というより、喜んでいいのか、泣いていいのか分からない戸惑いを滲ませて、お喋り一つままならなかった。
だが、しばらくすると、男も野口と打ち解け始めた。
娘の恋人で、将来は結婚するかもしれないと家族で付き合ってみると、野口は本当に良い人間だと分かった。彼が大の読書家だったこともあり、男は都合が合うと自分から進んで野口を家に招き入れ、本の話に花を咲かせた。
それを嬉しそうに眺める娘の膝の上で、私は安心して、満足して目を閉じた。卒業をしたら結婚するのかい、とは尋ねなかった。既に私はそれを直感していたからだ。
娘は、とても美しい女へと成長していた。
長い黒髪を背中に流し、慈愛溢れる落ち着いた眼差しで私を見つめる。綺麗な細い指で私の頭を撫でて、「クロ」と大人の女の声で私の名を呼んだ。それは、彼女の母親の声にとてもよく似ていた。
その頃の私は、もう走り回れなくなっていた。老体越しに感じるその穏やかな声に、もうそろそろで娘の巣立ちが近いことを感じていた。
すっかり大人になったんだなぁと、私は思いながら彼女に甘えた。
※※※
大学を卒業すると、娘は同棲を始めて野口と結婚した。
娘の要望で、野口は私も結婚式に招待してくれた。理由は「君を見ていると、不思議と伊藤さんと同じものを感じて」ということだった。つまりは父親みたいな、と言いたかったのだろうが、正確に言うなら母親だろう。奴はたまにこうして、私がメスであるのを忘れる。
とはいえ、半ばそうではなくなってしまったみたいなものであるし、男と同様に私も娘として彼女を愛している。だから、なかなか鋭いやつなのかもしれないなぁ、とだけ思った。
結婚式は、親族や友人、同僚も呼ばれて盛大に行われた。
私は特等席に座った男の膝の上から、身を乗り出してウエディングドレスに身を包んだ娘を見た。主役のようにスポットライトがあたる二人を見て、ハッと息を呑んだ。
そこにいた娘は、世界一美しい花嫁だと思った。
近くまできた娘が、こちらに幸せそうに微笑みかけて涙ぐむ。そんな彼女に私は、おめでとう、と心の底から言葉を述べた。
暖かいものが胸から込み上げて、溢れて止まらず、神へ愛の誓いをする二人を見つめながら私の漆黒の瞳を潤ませた。子が育つということは、こんなにも感動するものなのかと私は初めて知った。
そうして娘は、私達のいる家から巣立って行った。
リビングには、娘の高校の卒業写真と成人祝いの写真、そして結婚式の写真が新たに加わって飾られた。
私はすでに戸棚にも登ることが出来ない身体になっていたから、男が気を利かせて、写真立ては私が見える場所に置いてくれた。ソファからでも十分見える位置だった。
私の食事は、私が大好きな缶詰の柔らかい食事が増え、通常の食事も歯に優しく美味しいものばかりになった。こんな贅沢でいいのかと女に問うと、彼女はこう言った。
「いっぱい食べて、いつまでも元気でいてね」
その言葉が胸にしみて、私は少しだけ寂しくなった。娘よりもぐんっと早く歳を取る私の肉体は、もう既に高齢であったから、私は遠慮せずそれに甘えることにした。
娘が巣立っても、私たちの日常は、いつものように変わりなく続いた。
男は午前中を書斎室で過ごし、午後は私と穏やかな時間を共にした。女は正午前に昼食を作って男と食べ、午後三時になるとリビングで紅茶とお菓子を用意し、私には柔らかい専用のつまみを与えた。
秋が過ぎて、私にとって十回目の冬が訪れた頃、娘から素敵な報告が入った。
なんと、娘が子を身ごもったのだという。
電話で急ぎ知らせを受け、男も女も来年の七月にでも生まれる孫に嬉しそうにしていた。私も、娘から産まれるだろうその子供に、早く会いたい気持ちでいっぱいだった。
「あの子、ちゃんと出来ているかしら」
男が仕事の関係で外出したある日、彼の帰りを待ちながら、テレビを見ていた女がふと呟いた。
彼女の膝の上で丸くなっていた私は、首を持ち上げて女を見た。
女の白い肌には、薄い皺がいくつか刻まれていた。こんなにも時が過ぎたのかと、私は今の自分に比べるとはるかに若い彼女を見て静かに思う。
「ただいまぁ」
その時、まだ昼も過ぎていないのに、男が早々に帰ってきた。
私は気を利かせて、女の膝からソファへと移ってベランダを見やった。女がソファから立ち上がり、リビングにやってきてコートとマフラーを脱ぐ男から、それらを受け取った。
「あなた、今日は早かったのね」
「今年は、もう出ることもないよ」
男はそう言って、鼻を赤くしたまま私の隣に腰を降ろした。
「ただいま、クロ」
おう、お帰り。
私は、首だけで男を振り返ってそう返事をした。心なしか、男の髪先も袖口もパリッと冷えている気がする。それでいて細い手の指の先は、半ば体温が失われて白さが目立った。
ずいぶん寒そうだな?
続けてそう声を掛けてやったら、男が案の定「寒かったッ」と情けない声を出して、私をガバリと抱き上げてぎゅっとした。
「はぁ、ほんと外は寒かったよ~。雪が本降りになる前に帰ってこられて、本当に良かった」
男はそう言いながら、私のふっくらとした毛並みに頬を擦りつけてくる。私を抱き上げている彼の大きな両手は、とても冷たくなっていた。
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