第13話 私の、愛しい娘(下)
「ああ、クロ。君はなんて暖かいんだッ」
私は彼の手の冷たさに身震いしたが、すっかり凍えている男の身を考えて動かなかった。今日だけだぞ、とされるがままになる。ここ数年は、冬になると関節が痛むのだ、と言い出していたのも思い出されたからだった。
やれやれ、お互い歳を取ったな。
私は男に言った。
私ほどではないにしろ、男もそれなりに歳を取ったと思う。最近、彼は散髪屋に行くたびに白髪染めをさせられている。先週も行ってきた男の髪からは、まだ僅かにその匂いがしていた。
「はい、どうぞ」
女が、湯気の立つお茶を出した。男が私を膝の上に置き、礼を言ってそれを口にする。しかし、飲みもしないうちに「あちっ」と言って口を離した。
恐らくは、また焼けたのだろう。
昔から変わらないその失敗を見て、私は男の膝の上で短い溜息を吐いた。お前、猫舌にもほどがあるぞ、と私よりも結構な頻度で熱い飲み物に弱い彼のことが、少々心配にもなった。
※※※
それから更に季節は流れ、翌年の夏、娘は無事第一子を出産した。
生まれたのは女の子だという。私は彼女が休んでいる病院へは入る事が出来ないので、留守を任されて女と男に車で見に行ってもらった。帰ってきた彼らは、娘に似た可愛らしい女の子だった、と私に話してくれた。十月頃には、こちらに連れて来られそうだという。
歳を取って、より寝ることが多くなったせいだろうか。
私は、日々が急速に過ぎていくように感じられた。
窓際の夏の暑さもいつの間にか和らぎ、早朝は冷房要らずとなって眠るのも心地良くなった。気付けば木の葉が落ち始めていて、そろそろ肌寒さを感じ始めた頃、娘が野口と子供を連れてやってきた。
赤子を抱いた娘は、すっかり母親の顔をしていた。男と女が嬉しそうに自分達の孫を抱く中、野口は少し疲れた表情をして、ソファの私の隣に腰を下ろした。
「やぁ、元気にしていたかい、クロ?」
野口が、優しい響きのする声で言ってきた。
久しぶりだな。少しだけ歳を取ったみたいな顔だ、疲れているみたいだな?
私がそう返事をすると、野口がふっと笑って私の頭を撫でてきた。子育ては苦労もあろう。お疲れ様、と私は言葉を返して、好きなだけ頭を触らせてやることにした。
「夜泣きとか、大変でしょう?」
女が娘に尋ねる声が聞こえた。その様子を微笑ましそうに見やっていた男が、野口に「遠い所から御苦労だね」と言って、持ってきたグラスを渡して向かい側のソファに腰かけた。
「引っ越し先からは、随分遠いだろうに。わざわざすまない」
「いえ、とんでもないです。あなたは『ここはもう君の実家みたいなものだ』と言ってくれたでしょう。それが嬉しくて、こうしてココへ帰って来られて疲れも飛びました」
野口が柔らかな苦笑でそう答えて、グラスの水を半分ほど飲んだ。
しばらくしてから、女が温かい紅茶をテーブルに用意した。座るよう促された娘が、「お母さん、ありがとう」と言って、赤子を抱いたまま野口の隣にいる私を挟んで腰を下ろしてきた。
娘からは、とても懐かしい匂いがした。
彼女が腕に抱く子供からは、娘と野口の匂いに混じってミルクの香りもする。
改めて近くから眺めてみたその赤子は、とても小さかった。白くてふっくらとした顔をしていて、とてもとても小さな手をした可愛らしい女の子だ。
「クロ、この子は優実。私の名前の一字と、実さんの名前を取って名付けたのよ。優しさが実りますようにって、そう願いを込めて付けた名前なの」
ああ、とても良い名だ。
私は、赤子を見て穏やかに語る娘が眩しくて、愛おしさに目を細めた。赤子はとても弱い生き物だと知っていたから、私は娘の足には乗らずただただ見守っていた。もう少し大きくなれば、私にもその子供が触れるようになるだろう。それまでは我慢である。
野口が父親の顔をして、我が子の小さな手に触れた。眠っていても父親が分かるようで、赤子が彼の大きな指をきゅっと握り返す。その様子を、向かい側で男と女が幸せそうに眺めていた。
「そう言えば、クロには子供がいないのよね」
ふと、娘が我が子を見つめながらそう口にした。
「……そう考えると、自分の子供が持てる幸せを、私達は奪ったことになるのね」
言いながら、彼女が私の方を見た。娘の言葉を聞いた男が、気付かされたように目を見開いて、女と揃って申し訳なさそうな表情を浮かべた。
実を言うと、私は彼らに引き取られてしばらく経った頃、避妊手術というものを受けた。私は雌猫であるので、簡単に言えばその手術で子が産めない身体になったのだ。
その当時、自分が母親になるだなんてことは考えていなかった。けれどどうしてか、本能によるものなのか、腹から大事な何かが一つ失われたようなポッカリとした気分を覚えた。麻酔がきいていたので、後に少しだけズキズキとした痛みが数日続いたのを覚えている。
けれど、もういつの間にか忘れていたことだった。娘の成長はとても早くて、日々は飛ぶように過ぎ去り、そんなことを考える暇さえありはしなかったのだから。
私には、お前という娘がいる。それだけでいい。
伝わりますようにと願って、私は愛しい娘の膝に頭をこすりつけた。娘と野口が、交互に私の頭を撫でてきて、それを見た女が愛情深く目を細めてこう言った。
「クロちゃんは、もしかしたら、あなたを自分の娘と思っているのかもしれないわねぇ」
「ああ、そうだろうな。いつだって君の後を追いかけて、まるで世話を焼いているみたいだったよ。始業式の時も、忘れているぞって言うみたいにネクタイを運んでいたっけ」
男が、思い返すような声色でそう言った。すると野口も、「きっとそうでしょう」と同意して自信たっぷりに頷く。
私は、娘の腕に抱かれる赤子を見上げた。小さな可愛らしい寝息だ。どこか娘の面影を持ったその子に、私は尻尾を一度ゆったりと揺らしてから優しく声を掛けた。
もう少し大きくなったら、またおいで。
その時まで、私はココで待っていよう。
その時こそ、私はきっと君に触れられる。
愛しい娘の、その娘である君に。
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