第10話 娘の受験

 娘は最後の部活の日を終えると、大学受験に向けての勉強を本格的に始めた。


 帰ってきても部屋に閉じこもり、勉強の毎日が続いた。リビングにいても受験対策の教材と向き合っていて、いつもは遊び回っていた夏休みも、学校と図書館と塾の往復から始まった。


「あまり、無理はしないでね」


 女はそう言って、娘を気遣った。出先で休憩用にケーキを買ってきたり、夜遅くまで勉強している娘のためにオニギリを握ったりした。


 少し気晴らしをさせようかと、連休を利用して、男はドライブや一泊旅行に娘を誘い連れていった。ペット可能の宿泊先を見つけて、私も同伴させてもらった。娘は家族行事を大層喜んで楽しみながらも、単語帳を持ち歩き時間があればそれを眺めたりしていた。


 そんな夏の大敵は、なんといっても暑さだった。


 真夏日がピークに達すると、娘はもっぱら冷房が一番効くリビングで勉強をすることが多かった。男が有名大学を卒業していた事もあり、彼が娘の勉強を手伝った。女は時間を見計らって、冷たいデザートやドリンクを持って休憩を入れさせた。


 娘は隣に、いつも私用のクッションを置いていた。勉強が煮詰まった時、隣に座る私を撫でて頭の一休憩を入れ、それから再びテーブルに向かうという事を繰り返した。


「お疲れ、クロ」


 娘が早めの風呂に向かった後、テーブルに広げられた参考書や問題集、ノートを眺めていた私に男がそう言った。


 いつもは昼寝をたっぷりしている私も、娘が受験勉強に入ってからは、ほとんど早朝と夜の就寝がほとんどになっていた。身体が更に老いた私には、もう少し睡眠が欲しいくらいなのだが、贅沢は言っていられないだろう。


 だって私も、娘のために何か協力してやりたいのだ。


 私は歩み寄ってきた彼に、お疲れ、と言葉を返して尻尾でも返事をした。男は午前中以外、土日関係なく娘の勉強に付き合っていたから。


 そういえば、彼は最近少し白髪が交じるようになっていた。

 

 改めてよくよく見てみると、労い微笑む男の目元には小さな皺があった。今更のようにそれに気付いた私は、男も成長しているらしい、と改めて感慨深く思った。


 だが私からすると、彼はまだ若い。


 私の肉体年齢は、もう彼を若造と呼ぶに相応しい歳になっていた。


 お互い、年を取ったなぁ、若造。そう男に言いながら一つ伸びをして、私は欠伸をこぼした。やれやれ、最近はじっとしていると肩が凝るなぁと思う。


 その時、落ち着いたブラウンの長髪を結い上げた女が、ワンピースという涼しげな格好でやってきて氷の入ったグラスを置いた。


「あなた、ダージリンティーですよ。この前、担当の蓮見さんから頂いた物よ」

「ありがとう」


 男は素直に感謝を述べて、それを口にした。女は上品な微笑みを浮かべると、「クロちゃん、いらっしゃい」と私を呼んだ。


 私は、歩き出す彼女の後についていった。いつも私が水を飲むための器が置かれている場所には、涼しげなガラスの器が置かれていた。中には水と氷が入っており、涼しげな音を立てて氷がぶつかっている。


「クロちゃんも、お疲れ様」


 私は、女の気遣いに心の底から感謝した。ずっと昔、こうして水の中でゆらゆらと動いている氷が不思議で、何度も手を突っ込んでは肉球を濡らしてビックリしたものだ。慣れてくると、それを爪先でちょいちょいと触ったり、次第にそばの水を飲むのが好きにもなった。


 飲んでみると、渇いた喉にすうっと水がしみ込んでいくのを感じた。あの頃を思い出しながら、毎年この時期になると出てくる水の中の氷に、ちょいっと手を伸ばした。


 カラン、と器にあたる心地良い音がした。


             ※※※


 あっという間に夏休みが終わり、季節が涼しい方へと移ろって行く。それに従って、娘の勉強にも更に拍車がかかった。


 娘は学校帰りに塾へ通い、女が夜遅くに迎えに行くまで帰らなかった。休みの日も朝から夕方まで塾にいて、帰って来るとさっさと夕飯と風呂をすませて部屋から出て来ない。


 おかげで肌はすっかり白へと戻り、ポニーテールにした髪はもう女と同じくらい長くなっていた。食事の席で男が、「母さんの若い頃にそっくりだよ」と褒めると、娘は「受験が終わったらちゃんと整えて、長さを保ってみようかな」と嬉しそうに笑った。


 六度目の冬、娘は大事な試験があると言って、早朝から制服姿でリビングにいた。


 出掛けるまでの間もしっかり活用すると口にし、朝食準備が進められている中、ココアを相棒に勉強している。


 リビングには暖房も完備されているので、とても暖かい。けれど娘は、昔から寒いのがとくに苦手だったこともあり、私はいつも通り彼女の膝の上で丸くなっていた。私の身体は、じっとしているだけでとても暖かくなるのである。


「A判定、出ると良いわね」


 女が、食卓に料理を並べながら娘に言った。男は新聞を読みながら、娘を気にするように、ちらちらと視線を寄越している。


「うん。推薦枠には入れなかったから、実力勝負しかないしね」


 娘は肩をすくめて、緊張気味を堪えるような表情で笑った。


 娘は、とても良い子へと育っていた。

 根気強くて、いつでも前を見ている。


 私には、それがとても誇らしかった。


 こんなに良い子なのだ。きっと、彼女には素晴らしい未来が待っているだろう。


 娘は緊張しつつも、目を真っ直ぐ向けて「頑張るしかない」と自分に言い聞かせるように言った。しっかりとご飯を食べ、それから女と一緒に家を出た。


「大丈夫。あの子なら、大丈夫だ」


 玄関まで送り出した男が、私を抱き上げてそう言った。まるで自分に言い聞かせるようだったが、不思議と娘や女よりも落ち着きがあった。


 お前の方が、いつもならそわそわしそうなのにな?


 私が尋ねると、リビングへと引き返した男が小さく苦笑した。私の額をぐりぐりと撫でて、「そうかそうか、クロにもあの子の緊張が分かるんだなぁ」と口にした。


「大丈夫だよ。僕は、あの子を信じているからね」


 ああ、そうか。ならば私も、そのようにして娘が返ってくるのを待とう。そして、いつも通り彼女が帰ってくるのを迎えて、めいいっぱいそばにいてやればいい。

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