第9話 私と娘(下)

 男の言葉が、途中でプツリと切れて寝息に変わった。

 クッションのごとく抱き抱えられている私は、少しだけ呆れてしまう。昔から、この男は数秒足らずで眠ってしまえた。これは一種の特技だと、私は思っている。


 しかし、寝ないと決心すると、とことん寝ない男でもあった。


 この男が丸二日、書斎にこもってキーボードを打つ音が絶えなかった時の、私の恐怖といったら凄まじい。ちっとも眠っていないじゃないか、部屋から出てきても心あらずの目だぞ、どうしてお前本当に大丈夫か……と、私の心配もそわそわも絶えなかった。


 夜中、ひっそりと暗い家の中で、キーボードを叩く音だけが聞こえてくるのはホラーだ。あれだけは勘弁してほしいものだと思いながら、私は男の胸で丸くなった。


 男の規則正しい呼吸と心音が心地良い。私は、すぐに眠りに落ちた。


             ※※※


 しばらくして、私は浅い眠りから覚めた。玄関を開閉する音の後、すっかり覚えている女の足音が近づいて来たのが聞こえたからである。


 私はチラリと確認して、起きる気配もない男の腕からそぉっと抜け出した。ソファを降り、やってきた女に歩み寄ってみると、彼女は手に小さな袋を持っていた。


「あら、クロちゃん。あの人は寝たのね」


 女はそう言うと、夫の方へは行かず私のご飯の器を手に取った。そこに、袋の中から一つの缶詰を取り出して入れ始める。


 男と出会った時から、もう何度も食べているあの柔らかくて美味しい匂いが、朝ご飯を済ませたはずの私の食欲をそそった。昨夜、女が先に就寝する際、「明日の朝、頑張ってくれたご褒美に買ってくるからね」と告げていたのだが、約束を覚えてくれていたらしい。


「はい、クロちゃん。どうぞ」


 うむ、有り難く頂こう。


 私は、器に盛られた食べ物をガツガツと口にした。女はしゃがみこんで、そんな私を穏やかな瞳で見つめている。後ろでまとめられた栗色の髪が、風でゆるやかに揺れていた。


「娘の成長って、早いものねぇ。もう大学の話が出るんですもの」


 ああ、そうだな。


 私は口をもぐもぐしつつ、美味さを堪能しながら女を見上げてそう答えた。高校受験でバタバタしていたのが、ついこの間のことだったようなのに月日が過ぎるのは早いものだ。


「これから大学受験でしょ? さっき車の中で少し話したのよ。そうしたら、ここから通える短期大学に行って、小学校の先生になりたいんですって」


 あっという間にあの子も大人になる。それも可能だろう。


 答える私の後ろから、一組の足音が近づいて来た。


「おかえり。今の話は本当かい?」

「あら、起きたのね。そうなのよ、ここから通える短期大学で小学教師の免許と言うと、K短大かF女子短大あたりかしらねぇ?」


 そう言うと、女はふふっと上品に笑った。私が食べ終わったのを見て、「綺麗に洗いましょうね」と声を掛けながら皿を取って立ち上がる。そうやって彼女が私の皿を毎日綺麗にしてくれるおかげで、私はいつでも美味しく食事をすることが出来た。


「そうか。もうそんな年頃かぁ……」


 私が顔を洗っていると、後ろにつっ立ったままでいた男が頭をかいた。カウンター越しに顔を合わせていた女が、その様子を見てクスリと笑う。


「私達も、それだけ歳を取ったってことなんでしょうね。いつかこの家に男の人が来て、『娘さんを下さい』なんて言うのかしら?」


 女が茶化すように言うと、男が困ったように眉尻を下げた。


「よしてくれよ、まだ先の話だろう?」

「あら、あなたが言える台詞? 私があなたと籍を入れたのだって、私が高校を卒業してすぐだったじゃないの。まだ作家になりたてのあなたが、私の家に来て『娘さんが卒業したら結婚させて下さい!』って言って。父さん、あなたの土下座にはドン引きしてたわねぇ」

「うっ、だってその、正直に伝えなきゃって思って」

「だからって『手は出してません』『きちんと門限には帰しています』『たまにちょっとキスはしてますごめんなさいッ』て、普通そこまで告白までする?」


 まぁおかげで交際許可も出たけど、と女は思い返したように言う。


 同じく当時を思い起こしたらしい男が、恥ずかしそうに頬をかいた。続いて彼女にニヤニヤと見つめられると、「敵わないなぁ」と白状する。


「そうだったね。きちんと交際出来るようになって、そうしたらよく食事に誘われるようになって……。でも君のお兄さんよりも年上だったから、しばらく彼には嫌われていたっけ」

「嫌っていたんじゃないわ。兄さんは、男らしくない男の人が嫌いなだけ」

「え」

「つまりあの騒動まで、あなたは軟弱認定されていたのよ」


 女が笑って、洗った私の皿を丁寧に拭って、いつものタオルの上に裏返しにして置いた。


 年に何回か、彼女の両親と兄はこの家を訪れた。みな、気さくなで良い人柄をしており、彼女の兄も父親もかなり大柄でたくましい男だった。


 私は、ひょろっこいお前でも好きだぞ。だから元気を出せ。


 私は励まそうとして、肩を落としている男にそう言った。すると、男は私を抱き上げて頭を撫でながら、深い溜息をこぼした。


「……結婚、かぁ」


 言いながら、ぎゅっとして「そうなったら寂しいなぁ」と私に弱音をこぼした。どうやら体格の件よりも、そちらに関して考えていたらしい。


 いずれ娘が巣立っていくのを想像して、私も男の腕にそっと身を寄せた。

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