第5話 そうして私は
私は、あの男を待っているわけではないのだ。断じて、そんなことはない。
昨日まで続けて四回も来ていたというのにとか、帰り際に「またね」と言っていたことが頭から離れないだとか、今日は来ないのだろうかとか……そんなことなど考えたりしていない。
肌寒さが芯から込み上げてきて、私はぶるっと身震いするとゴミ袋の後ろにあるパイプの下へ身を寄せた。
私ほどの大きさであれば、パイプであろうと雨避けくらいにはなるのだ。残念なことは地面が濡れるせいで、結局は全身がびしょびしょになってしまうことだろうか。
『おい、そこのチビ。そのままじゃ死んじまうぜ?』
その時、頭上からそんな猫の声がして、私は表情なくそちらへと顔を向けた。
換気扇の上にあるごつごつとしたパイプの上に、灰色の大きなネズミが一匹いた。目が合うなり、そのネズミ野郎は『こんなに小せぇのになぁ』と心配そうに言って、こう続けてきた。
『ここを、ずっと奥に進んだ所に雨をしのげる場所がある。皆あそこを使っているんだ。俺たちだけじゃなくて、仲のいい犬猫だっている。チビっ子、お前もおいで』
いや、私はいい。
だから構うなと答えて、私は素っ気なく視線をそらした。そうしたら、上から驚いたような声が降ってきた。
『ダメだ、駄目だぞチビ。お前さんほどの小ささだったら、身体がもたない。早死にしちまうよ』
ネズミがそう言い終わらないうちに、雨音がぐっと強くなった。彼が頭上を見上げ、それから後ろめたそうに歩み出しながらチラリと私の方へ視線を投げて寄越す。
『気が向いたら、いつでも来な。耳のいいやつだって沢山する。必要なら、めいいっぱい鳴いて助けを呼ぶんだぜ、道案内に駆け付けてやるから』
ああ、気が向いたらな。
私はぶっきらぼうに言葉を返し、濡れた地面に丸くなった。
私は、生にしがみついてなどいない。要らないからという人間の都合で、こうして私という命が捨てられたのだと自覚してからずっと、この灰色の世界に期待なども持たずに暮らしてきた。ただただ、本能が私を生かし続けているだけだ。
ああ、寒い。
私は小さく身震いした。自分の身体を温める策を考えたわけでもないのに、本能が私を生かそうとして身体は自然と丸まり、内側に熱がこもるのを感じながら目を閉じた。
生きるとは、皮肉なことだと私は思う。
食べ物が必要で、寝床と居場所を確保しなければならない。
この冷たい灰色の世界で、何故そうしなければならないのだろう。毎日が空腹と、寒さと、胸にポッカリ何かがあいたみたいな虚しさと――コレをあと何回繰り返せばいいのだろうか。
その時、一組の慌ただしい足音が、通りの向こうから近づいてくるのが聞こえた。それは水溜まりを蹴散らせて町中を掛け、私のいるゴミ箱のすぐそばで止まった。
ガシャッと音がして、唐突にゴミ箱が少し動かされた。
意に、頭上にあるパイプから落ち続けていた雨の雫が、ふっと止む。もう驚く元気もなくて見上げてみれば、そこには伊藤と呼ばれていた、あの眼鏡の男が傘を持って立っていた。
男は随分と息を切らしていた。地味なズボンは、膝から下がすっかり濡れてしまっている。
「こ、こんばんは」
呼吸を整えながら、彼が取り繕うようなぎこちない笑みを浮かべて、そう言ってきた。
私は、そんな男をぼんやりと男を見上げていた。腹はいっぱいだ。お前の持ってくる食事は要らんぞ、と声をかけた。しかし男はそんなことお構いなしに、無造作に片腕を伸ばして、ひょいと私を抱え上げた。
彼の腕の中は、ひどく暖かかった。
その熱にどうしてか心地良さを感じて、私は彼の中から逃げることを忘れた。男の腕と服からじんわりと温かさがしみ込む傍ら、私の体温を奪おうとしていた水分が彼に移っていくのが分かった。
すまんな若造。いいよ、もう降ろしてくれ。
そう言いながら再び男を見上げた私は、困惑してしまった。こちらを見下ろし覗き込んでいるその男は、今にも泣きそうな顔をしていたのだ。
「迎えに来るのが遅れて、本当にごめんよ。やっと、君を迎えられる」
男はそう言って、私をぎゅっと抱きしめた。
誰も迎えに来いなんて言っていない。
私はそう述べたが、男は何も答えてこなかった。ただただ私を胸に抱えてぎゅっとしていて、どうやら彼は私を手放す気はないらしい――とは理解した。
しばらくして、男が少しだけ腕の力を緩めて、涙目でにこっと笑いかけてきた。
「うちにおいで。暖かい食事と寝床を用意してあるんだ」
言いながら歩き出す男の腕の中で、私は先程まで自分の寝床だった居場所を振り返った。だんだんと離れて、雨と暗闇に紛れて見えなくなっていく。
仕方ない、お前のところに行ってやろう。
もう泣きそうな顔ではなくなっている男を見た私は、そう言うと、その中で丸くなって目を閉じた。
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