第6話 仕方ない、お前のところで世話になってやろう

 男の家には、一人の女と、子供の小さな女がいた。


 私は、大人の女が男の妻であり、小さな女が二人の子であると分かった。小さなその娘からは、二人と同じ匂いがしていてどこか似通った雰囲気を感じた。


 同じ呼び方になるのも面倒なので、私は男に紹介された言葉のまま、小さな彼女を『娘』と呼ぶことにした。


 どうやら先に話でもしていたようで、男が私を抱えて帰って来るのを待っていたらしい。長い髪を後ろでまとめた女が、タオルを手に駆け寄って来てタオル越しに私を抱え持った。


 温めてくれていたのか、その白いふわふわのタオルは暖かかった。ふんわりと良い香りがして、一瞬強張った私の身体から緊張が解けてしまう。


「まぁまぁ、こんなに冷たくなって」

「美代子、この子を先に入れてくるから」


 男が半ば濡れたジャケットを脱ぎながら言う。


 すると、女が首を横に振った。


「何を言ってるの。あなたも入るのよ、今すぐに」

「えぇ……? でも」

「でもじゃありません。あなた、私より軟弱なところがあるのに、風邪を引かない保証でもあるの?」


 ぴしゃりと言われた男が、「あの、えっと、先月は風邪を移してしまって、その、すまなかった」と気圧された様子で答えた。まだ根に持ってる……と情けない声を漏らす。


「言っておくけど、私、猫を飼うのは初めてなんだからね。突然ペットが飼えるマンションに移ろうって言われた時は、そりゃもうびっくりしたし、引っ越しで今日までバタバタして――あ、拭くのは私がやるしドライヤーも任せてちょうだい」

「えぇと、君、動物のドライヤーは初めてなんじゃ――」

「きっと平気よ、子育てをしているママをナメないで」


 女は、問答無用と言わんばかりに続ける。


「だから、あなたも一緒にこの子とお風呂に入るのよ。着替えはもう用意してあるから、そのまま入ってきてらっしゃい」


 はい、と言って、女がタオルに包まれた私を男に渡した。彼女のそばにいた娘が、興味津々にこちらを見つめているのが居心地悪くて、私はゆっくりと顔をそむけてしまう。


「ねぇお母さん、私がドライヤーしたいなぁ」

「子猫ちゃんと遊びたいなら、その前に宿題を片付けてくるのが先よ、優花」


 そんなやりとりをする女と娘の脇を、私を抱いた男がとぼとぼと通り過ぎる。


 私はすれ違いざま、娘の顔を盗み見た。彼女は口に空気をためて、饅頭のような顔になっていた。


「中学生って、なんであんなにいっぱい宿題があるんだろう。やんなっちゃう」

「覚えることが沢山あるからでしょ」


 女が娘にそう言い聞かせる声を聞きながら、私は男に連れられてとある部屋へと入った。むっと暖かい空気が鼻に触れ、なんだろうと私が顔を顰める中、男が後ろ手に扉を閉めた。


 続いて男は、慣れたように服を脱ぎ始めた。それでも尚、逃がさないと言わんばかりに抱えられている私は、ものすごく嫌な予感がした。全ての服を脱ぎ捨てた男が、次の薄い扉を開けた瞬間に私は熱気の元と、ここが一体どんな『部屋』であるのかを悟った。



 そこにあったのは、暖かい湯気が立ち上る浴室だった。そこには、お湯がいっぱい溜められたものもあって――


 それが、私の初めて経験した風呂だった。



 私は、爪を立ててあっちにこっちにと逃げ回り、そのたび男が慌てて捕まえた。泡を洗い流すべく首から下をお湯でさらされた時、浸かった水の感触がゾワッと走り抜けて、私は初めての感覚にピーンっとヒゲを立てて動けなくなってしまった。


 私は以降、とうとうされるがままになった。そして放心状態のまま、浴室の外で待っていた女に受け渡され、今度は水気を拭うためタオル攻めにされたのだった。


 くそっ、なんで私がこんなメに。


 忌々しげに呟いたが、これ以上どんなことが来ようとも平気な気がした。あの風呂以上に恐ろしく気力・体力を使うことなど、その時の私には想像出来なかったからだ。


 だが更にその上をいくことが、私を待っていたのである。


 女はタオルで私を押さえながら、爆音を放つ熱い爆風を私の身体に当て始めたのだ。


 これまで体験したことのないごぉごぉ音を立てる風を受けて、まだ小さい私の心臓は激しく震えた。爪を立てて逃げようとした私を、いつの間にか風呂から上がった男が慣れたように押さえる。


 宿題とやらをやっている娘が、そんな私達の様子を興味津々に見つめていた。ぎゃあぎゃあ騒いでいた私は、プツリと抵抗の体力が底をつきて再び放心状態と化した。


 ……………。


 言葉もなくなった私は、気付くと解放されて暖かいクッションの上にいた。


 この家に来てからひどく体力を消耗し、二人の人間を力なく睨みつけていた。しかしながら、生き物というのは案外単純であるらしい。すぐに身体中の暖かさと、下にあるクッションのふわふわの心地が身体にじんわりとしみて、良い気分になってしまったのだ。


 とてもふわふわだ。そして、何よりこれまで感じたことがないくらいに温かい。


 思わず顔をクッションに押し付けた。とても優しい香りが私の中に広がった。


 ああ、天国だ。


 うとうとする私の周りに、三人の人間が集まる気配がした。でも私は、彼らを放っておく事にした。もう、これ以上何かされることもないだろう。


「ねぇ、名前、どうしようか?」


 女が楽しそうに言う声がした。


 私のすぐそばで布の擦れる音がして、大きな手が私の頭をそっと撫でた。


「うーん、そうだなぁ……名前かぁ。考えてなかった」

「アレクサンドリア! 絶対それがいい!」


 突然、きんきん声で娘が叫んできた。


 私は、本能的に危機感を覚えて飛び起きた。ガバリと目を向けてみると、正面には男が座っており、その隣で女と娘が引き続き言葉を交わしている姿があった。


「ねぇお母さん、そうしようよ。アレクサンドリア、格好良いでしょ?」

「なんだかギラギラしすぎじゃない……? それにね、子猫ちゃんはメスみたいだし――」

「そこがまたいいのよ! じゃあエリザベイトとかは!?」


 冗談じゃない!


 娘の考えた名前を聞きながら、私は心の中で叫んだ。好みからあまりにも遠すぎる名前に、私は自分がそう呼ばれているところを想像して、ゾッとした。


 長くて、ぎらぎらした名前は勘弁だ。


 そう思った私は、もっとましなのはないか、と今度は男の方に訴えた。彼は宙を見やっていて、悩むように小首を傾げてこちらに気付いていない。


 私には、もともと名前がない。


 名がなくとも平気だったが、もし付けたいというのなら、私を指し示すような私らしさのある名前が欲しかった。アレクサンドリア、などといった名は私の趣味ですらない。


 名をくれるというのなら、もっと単純でしっくりとくる短い名がいい。


「ほら、仔猫ちゃんも嫌みたいよ?」


 私が考えを伝え続けていると、ようやく気付いた女が苦笑してそう言った。その通りだ、と私は女を褒めた。


 すると、セミロングの髪を二つ結びした娘は、しばらく考えるようにした。それから両親達が見守る中、唐突に名案でも浮かんだような顔をした。


「じゃあ、日本人名で清少納言とかは? どう?」


 願い下げだ、娘。


 一体誰の名前かは知らないが、私の直感がダメだと告げている。


 お前でいい、頼むから何かまともな意見をくれ、と私は男に言った。こちらへ目を戻した男が、私を見つめながら顎に手を当てた。


「うーん、そうだな…………あ。クロ、なんてどうかな」

「クロ? なんか普通でやだなぁ」


 娘が、そう言って頬を膨らませる。


 私は、男が呟いた名を口の中で反復してみた。とても単純な二文字だったが、しっくりときて私にとても相応しい名のように思えた。


 気に入った、と私は口の端を引き上げた。男よ、私のことはクロと呼ぶがいい。


「あら、なんだか仔猫ちゃんも気に入ったみたい」

「えっ、そうなのかい?」


 男が、目を丸くして私を覗き込んだ。


「君は、僕が考えた名でいいのか……? ああ、てっきり嫌われているのかもと思ってたけど、見てごらんよ。僕を真っ直ぐ見て『にゃー』だって」

「ふふっ、私に黙ってこっそり買っていた缶詰効果かしらね」


 女が口許に手をあてて笑った。どこか嬉しそうに目を細めた彼が、潤んだ目を一度擦ってから、どこか誇らしげに胸を張って私の頭を撫でた。


「今日から君は、伊藤家のクロだ。よろしくね」


 随分懐かれたようだし、仕方がないから世話になってやろう。


 私はそう答えて、そのまま深い眠りに落ちていった。

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