第4話『伊藤さん』

 どれほど眠っていただろうか。


 ふっと意識が浮上して眠りから目を覚ましてみると、活気に満ちた沢山の声と物音にようやく気付いた。目を向けてみると、空はどんよりとした重々しい雲に覆われて薄暗く、通りには既に電気の光りが灯り始めていた。


 私はそれらを一通り目に収めてから、もう夕刻前なのだということに気付いた。通りを歩く大勢の人々の靴音は忙しくて、聞き慣れた女が客とやりとりをしている声には少し疲労が窺えた。


 それらの音や声を聞きながら、私はゴミ箱の間の奥で耳をかいた。


 聞こえてくる人間の話からすると、本日は休日でもなさそうだった。それなのに何故、こんなにも『通り』は忙しそうなのだろうか?


 普段とはちょっと雰囲気が違っている気がして、私は警戒しながら通りに顔を出した。どの店にも多くの人が立ち寄っていて、車の数も普段以上にある。いつもならこの時間にご飯を持ってくる女の店を見てみると、彼女は次から次へとテキパキと接客にあたっていた。


 たまには、こういう平日もあるらしい。今しばらく食事は無理そうだと察した私は、再びゴミ箱の間に引っ込んで奥に腰を下ろした。へたに存在を気付かれて、面倒事に巻き込まれるのはごめんだった。


 しばらく待っていると、辺りがとっぷりと暮れた。人の流れがゆるやかになり、次第に数も減っていって靴音も少なくなった頃、ようやく女がやってきた。


 彼女が置いた紙の皿の上には、いつも以上に山盛りにされた魚の身があった。

 すっかり腹をすかせていた私は、有り難くそれに食らい付いた。この女は私に害を与えたことはない。今日まで過ごした経験から、警戒については三割ほどゆるめてもいた。


「今日は伊藤さん、まだ見ていないわねぇ……。あなた、見た?」


 独り言のように呟いた女が、そう私に尋ねてきた。


 そう言えば見ていないなと思った私は、けれど何も答えずに食事を再開する。そんなことを私に聞く方が間違いだ。


 私はあの男が来ようが来るまいが、どちらでも構わないのだから。


「おーい、そろそろこっちの商品棚の方もさげてくれ」

「はいはい。あなた、今行きますよ」


 女が店の方に向かってそう答え、「あとで回収しにくるわね」と紙の皿を指して言い、やや小走りで一旦あちらへと戻っていった。


 私は、すっかり人の少なくなった通りを警戒しながら食事を続けた。いつ何が起こるか分からない。右を警戒し、左を警戒し、少し向こうを通っていく人間たちの足音を敏感に拾う。


「こんばんは、まだ開いていますか?」


 そんな穏やかな男の声が聞こえた私は、ハッと顔を上げてしまっていた。


 咄嗟に目を向けて確認してみると、例の女がいる店先に、黒いスーツを着た知らない若い男が立っていた。


「はい、まだ開いていますよ。何か買われていきますか?」

「ああ良かった、実は買い物を頼まれていまして。これを一つと、こっちのサシミのパックも一つ、それから……」


 そんなやり取りを聞きながら、私はご飯へと目を落とした。つい先程、そちらへ目を向けてしまった自分に嫌気がさして、ぐっと眉間に皺を寄せて顔を顰める。


 私は、昨日までの四日間ずっと来続けていたあの男のことなど、待ってはいないのだ。そうだ、やつが今日も来ようと、今日こそ来なかろうと、私にはどうだっていいことなのである。


 私はそう思って、紙皿の残り半分のご飯を胃に収めるべくガツガツと食らった。


 こんなに量があれば、私はもう満足である。あの男の缶詰など必要ないほどに。


 通りにある小さな店々が閉まり始め、次第に光も少なくなってきた。気付けば町は夜に包まれようとしていて、辺りに漂う湿気は一段と強くなった。


 食事を終えた私の鼻に、雨の気配がする独特の匂いがついた。


 魚屋にもシャッターが降りた。店主の男が、外階段から二階の自宅へと上がっていく中、女がやってきて、空になった紙皿を持ち上げながら通りの左右を見やった。


「もしかしたら伊藤さん、今日は外出しなかったのかしらねぇ」


 ふん、だからなんだというのだ。


 顔の手入れをしていた私は、先程からその名を聞かされて訝って女を見上げた。そもそも悩むことでもあるまい、と声をかけると、少し残念そうにしていた女の顔に笑みが戻った。


「じゃあね、また明日」


 ああ、また明日。


 私がそう返事をすると、女は去っていった。


 辺りは、ひっそりと静まり返った。けれど女の足音が完全に聞こえなくなったところで、不意に、私の頭や身体に小さな雨粒が当たった。


 見上げてみると、ポツ、ポツと雨が降り出した。それは瞬く間にさぁっと降り始め、夜の町を覆うカーテンのような小雨となった。


 私は、自分の黒い毛並みが濡れていくのを感じながら、ゴミ箱の前で座り込んだまま頭上を眺めていた。



 濡れるぞ。雨をしのげる場所に移動しなければ。


 ぼんやりとそんな事を考えたが、私は何故かそこから動けずにいた。



 そのまま、ゆっくりと通りの左右を見渡した。そんなことをしてしまった自分に遅れて気付き、困惑して黙り込む。

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