第14話 見知らぬ隣人 その肆
爆発はしなかった。
いや、正確には爆発したが周囲に影響は与えなかった。
「……」
矢野原の背から無数の触手が這い出し、長谷川の手元にあった爆弾をグルグル巻きにしていた。
ゆっくりと黒い触手の塊が解けると隙間からばしゃばしゃと何か液体が溢れ始め、その中から何か焦げた塊がごとんと落ちた。
「ひっ!」
長谷川はその塊を割けるように飛びのこうとしたが、黒い触手はそれを逃すことなく長谷川を雁字搦めに拘束した。
「大丈夫か? 結」
鋼に声をかけられて、大丈夫と答えたかったが身体が震えて声が出なかった。
鋼は無理をするなという風に、ゆっくりと俺の背をさすり、その胸に俺を抱き寄せる。
「で? 爆発しなかったんだけど、次は何?」
矢野原はぐるぐるに巻き付けた長谷川をズルッと引き寄せる。
触手の隙間から顔が見えるが、その顔はこの薄暗がりでも血の気が失せて白く見える。
「お前も化け物の仲間にされたんだろう? ほら、抵抗しなよ?」
矢野原の顔を見ると能面のように静かで表情が無い。
しかし、声は震えをおさえているのがわかるほど怒っている。
「化け……物……」
長谷川の呻くような声。
続いてびしゃっと濡れたものが床に落ちる音。
矢野原の手に握られていたナイフが、矢野原の触手を切り落としたのだ。
しかし、矢野原は表情を全く変えず、更に触手を伸ばす。
黒く禍々しい触手は長谷川の首に巻き付いた。
「長谷川、お前は兄の教え子だった。兄のゼミに所属し、お前は兄に懐いていた。兄の日記にはお前のことがたくさん残されていた。お前を想い、慕い、愛し……慈しみ……いつかお前に自分の正体を明かすべきか苦悩し続けていた。お前への思いが募れば募るほど苦しみは増していった」
長谷川の身体が触手に引きずりあげられるようにして持ち上がり、地面から足が離れる。それと同時に締め付けも強くなったようで、苦鳴をあげてナイフを手から取り落した。
ギチ、ギギ、ギチ……革紐がしなるような触手がこすれ合う音が響く。
「事故が起こった。兄は怪我をしたお前を助けるために自分の組織を与えた。お前を助けるには大量の組織が必要だった。お前の腹には今も兄の組織が残っているはずだ」
しゅるっと触手が解けて、長谷川の胴が見える。そして、触手は器用に彼の着ているシャツをたくし上げてその腹を晒した。
そこに見えたのは赤斑になった腹だった。
皮膚とその皮下組織がところどころ透明になっているため下の内臓が透けて見えているのだった。長谷川が息をするたびに臓器が動くのが見えている。
「兄の組織が融合し腹部の欠損を補った。怪我の状態から早急かつ大量な組織との融合が必要だったから、人間の細胞を模して馴染む余裕はなかった。そして、お前は助かった」
その姿はかなり異質なものだった。出来の悪いスプラッタムービーのような。明るい場所では見るに堪えがたい姿だろう。
それでも、それのおかげで助かったのだ。そして、今も生きている。
『お前は意識を取り戻して、その姿を見て兄に言った。こんな化け物にされるくらいなら死にたかった! 殺してくれ!』
矢野原の全細胞が震えるように叫ぶ。部屋の中に声帯から発せられる以外の声が重なって聞こえる。
「何故、お前は自分で死を選ばなかった? どうして兄を責め続けた? 化け物化け物化け物とことある毎に罵り続けた。そんなに嫌なら死ねばよかったんだ。兄を罵ってもお前の身体は戻らないし、お前の身体を戻すには兄の組織を取り出さなくてはならない。そうすれば死ぬ。助けられた感謝もなく、慕っていた兄を罵り、呪詛を吐き続けるほど嫌だったら、お前が死ねばよかったんだよ」
黒い触手が斑になった腹を撫でさする。
その度にビクッと身体が震え、その中もぐるっと動く。
その奇妙な光景を俺は鋼に抱きしめられたまま見ていた。
「兄はお前を大切に思っていた。それは大事に大事に思っていた。お前もそれはわかっていた。事故の起きる前日の兄の日記にはとても幸せそうなことがたくさん書いてあった。しかし、日記はそこで終った」
矢野原の表情はまるで変わらない。元々その顔は作り物だけど、それでも少しは人間味があった。しかし今はぴくりとも歪まず綺麗な顔で淡々と口だけが動いて機械の様に長谷川に語りかけている。
「兄は狂い始めた。死のうとしてもうまく死ねず、お前に償わなくてはならないと泣き、お前に罵られて狂って行った」
自分を否定することで死ねる。俺は鋼から彼らの死についてそう聞いたことがある。でも、矢野原のお兄さんは申し訳ない償いたいという気持ちが強く死に逃げることができなかったんだ。
「兄に会いに行ったときには、もう兄は完全に狂っていた。死ぬこともできず、自己も失い、ただお前に申し訳ないと言い続けていた。だから、俺が兄を消滅させた」
矢野原はそういうとびしゃんと長谷川を床にたたきつけるようにして開放した。
長谷川は床に落とされたまま呆然としている。
「兄に俺の組織を融合させ、俺は兄を乗っ取った。兄を殺したんだ」
矢野原はゆらりと触手を揺らめかせ、ひっくり返ったままの長谷川の頬を撫でた。
「お前が憎んでいる化け物はここにいるよ。俺を探していたんだろう?」
「……」
「お前が殺したい男はここにいるよ」
「っ!」
長谷川が跳ね起きて側に落ちていたナイフを掴む。
「ダメだっ!」
俺は咄嗟にそれを見て、ナイフを振り上げた長谷川の腕に飛び付いた。
「結っ!」
鋼の叫び声が聞こえて、俺の身体は何かにぶち当たる。
「ひ……ひっ……!」
カチャンッと床に再びナイフが落ちる。
引き攣るような長谷川の声が聞こえる。
「無茶をしないでくれ……」
俺は鋼に庇われるように抱きかかえられ、鋼の触手が長谷川の腕を捩じりあげている。
「鋼……ごめん」
「無事なら、いいよ」
俺は鋼の首に抱き着いて、鋼は俺を優しく抱きかかえ、更に触手でも俺を抱き包む。
「矢野原もやりすぎだ」
「……僕がそう簡単に殺されるわけないだろ」
矢野原はじっと長谷川を見たまま、少し口の端で笑って言った。
俺は鋼に抱えられて病室へ戻った。
埃だらけの俺を見て看護師は慌てたが、鋼が二人で中庭を散歩していて俺がこけたという説明を聞いてなぜか納得してもらえた。俺は納得がいかないが。
ただまあ、正直にあったことを話せば色々と面倒くさい。
「矢野原、大丈夫かな」
「彼も馬鹿じゃない。それに、あんな程度では俺たちは死なない」
「でも、奴は……」
「この病院が全部吹き飛んでも、外装が無くなるくらいで俺たちにダメージは殆どないよ」
確かに、矢野原は長谷川が着火した爆弾(鋼が言うには火薬の塊というだけで起爆装置のようなものすらなかったらしいが)を触手で握って食い止めていた。
「心配しなくてももう大丈夫だよ」
埃で汚れたけどお風呂の時間が空いてなかったので、鋼がお湯を汲んできてタオルで体を拭いてくれた。久々に触れ合う甘い時間だったが、やっぱりさっきの出来事が頭にこびりついてそんな気分にはなれない。
身体を拭き終りタオルを洗面器に戻すと、カーテンを開ける前に鋼は俺の額にキスをした。
「あと、もう二度とあんな無茶もしないでくれ」
「ごめん……」
「俺たちは平気だから、俺を信じて、俺に頼って」
「……」
その目があまりに悲しそうに俺を見ているので、俺は何も言えなくなり屈みこんで俺を見ている鋼の首にもう一度抱きつく。
鋼もその俺の背を優しく抱きしめてくれる。触手はなく、人間の腕だけでの抱擁。ほんの少し物足りないと思うのは俺が毒され過ぎだろうか。
「早く帰って、鋼と過ごしたい」
「ああ。俺もだ」
『こんな頼りない腕だけではなくて、めいっぱい結を抱きしめたいよ』
そう頭の中に言葉が続く。
化け物と叫ぶ声が耳の奥に残ってるのを打ち消すように、鋼の声が上塗りされる。
確かに鋼は人間じゃない。
最初は人間として出会ったけど、違うのだと分かっても俺にそこまで拒否感はなかった。
例えば鋼が最初から人間で俺と出会って、その後に鋼の姿が変わってしまったとしても、鋼が鋼である限り俺の気持ちは変わらなかっただろうと思う。
でも、鋼の正体である姿が人間に嫌悪を抱かせるものだというのも理解はできる。生理的な嫌悪感というものはどうにもできない場合が多い。
だから鋼を愛することができても、愛することが出来なくても、どちらも間違いではないんだ。
愛せなかったとしても、殺そうとまでは思わない。
それだけだったと思う。
「結は優しいね」
抱きしめあい、俺の首筋に顔をうずめていた鋼がぽつりと呟いた。
「好きな奴には……ね」
俺はそう言って、頬に触れている鋼の髪にそっとキスを返して、そしてもう一度ギュッと抱きしめる腕に力を入れた。
「長谷川は本当に矢野原を……矢野原のお兄さんを殺そうと思ってたのかな?」
「どうだろうな、それは長谷川にしかわからないかもしれない」
「憎んで、罵っていた相手がある日いきなり居なくなって、自分の身体には化け物だと思う人の名残が残されていて……誰に何も言えない生活が続くってのは結構つらいよな」
「……」
「長谷川のしたことを良い事だとは思ってないよ。でも、何もわからず、いきなりあんな体になった動揺がお兄さんへの攻撃に変わったのかもしれない。……長谷川は矢野原を見て「怖い」って言ったんだ」
「怖い……」
「すぐに怖いくらい美形ですねとか誤魔化してたけど、あれは見かけの話じゃなかったと思う。矢野原の気配、矢野原のお兄さんの気配を彼は感じ取れるのだとしたら、怖いって言った気持ちが少しわかる気がするんだ」
「うん?」
「憎むことで納得させていた自分の心ともう一度改めて向かい合うというのは怖い事だと思うんだよね。少なくとも俺にはすごく勇気のいることだと思う」
「うん……」
「長谷川の気持ちは化け物退治をしても何も報われないだろうに……」
「……俺は、結を可愛いと思えてよかったと思ってるよ。俺たちから見たら人間は異形で酷く嫌悪感を感じる匂いの奴もいる。でも、俺は結に出会って、すごく好きになって、結がかわいいと思える。そして同じだけ思ってもらえている。これはすごい事だよ」
「うん、最初はびっくりしたけどね」
「さっき、結は俺に躊躇わずに抱きついてきた。感情が昂ぶってそういう行動に出れるくらい俺を受け入れてくれている。それがすごく嬉しかったよ」
「鋼……」
「矢野原が沢山の人間に自分を与えるのに完全に一方通行で、誰からも何も受け入れずにいるのは矢野原のお兄さんことがあるんだとはわかってた。だから俺は同種で融合すると片方が消滅するという現実が無かったとしても矢野原の要求に応えることはないと思っていた。結と巡り合ってさらにその気持ちは強まった……」
顔をうずめたまま話す鋼の息がくすぐったいけど、それすらも胸を熱くしてくれる。
「矢野原と長谷川は話し合えるかな」
「……わからない。それが出来たらいいと思うが、それはすごく大変なことだと思う」
「そうだね……」
そして、そのまま二人で黙り込み、じっと互いの存在を噛みしめるように抱き合っていた。
面会時間の終わりを告げに来た看護師に目撃されてしまったけど、それでも離れがたいと思うくらい俺の気持ちも沈んでいたのかもしれない。
帰って行く鋼の目を見て、またその中に俺と同じような気持ちを感じ取って、更に寂しくもなったけど、でも、そういう相手に巡り合えた幸福も強く感じたのだった。
―― 続
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